あめんぼ通信

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

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ハンセン病の島

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 ある人の紹介をえて、らい病(ハンセン病)の島、長島へ渡ることができた。
 我が家から25分もかからない島なのに、あまりに遠い島だった。これは、本土と長島にかかる長島大橋。昭和63年開通だから、まだ20年ほど。
 この橋は100メートルほどあるが、島と本土との距離は、最短で30メートルしか離れていないらしい。しかし、この海峡は潮の流れが速く、泳いで逃亡を試みて、命を落とした人もいるらしい。

 
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 橋の上からみた、ひなびた漁村、虫明港。なぜこの島がハンセン病の隔離島に選ばれたのか。
 日本で最初の国立ハンセン病療養所として、昭和5年に設立されている。


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 橋を渡ってから「歴史館」まで行くのに、まだ車で3キロ余り走る必要があった。島の周囲が16キロもある、かなり大きな島である。

 
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 左の画像の、ちょっと坂を上がった所に、今日訪問した「長島愛生園歴史館」がある。
 長島大橋を渡った所の管理棟に守衛さんがおられるので、「歴史館に行きたいのですが」と言えば通してくれます。なお、歴史館は事前予約が必要です。
 電話、0869-25-0321。開館日は火曜日、水曜日、木曜日の午後1時~4時のようです。

 
 クレゾールの入った風呂に入れられ、使用目的を告げないで、裸の写真を男も女も撮られました。風呂から出ると縦じまの紺の服をもらって、その日の内に入園番号をもらいました。今から思えば囚人と同じ扱いでした。
 当時は懲戒検束権といって、園長に処罰権が与えられていました。「帰らせてほしい」と願い出るが、かなえられず逃走する人もいました。捕まると独房に入れられました。小さなくぐり戸を入ると、薄暗い中では今日が何日かわからないから暦のようなものも書かれ、家族のこと、何をしたくて逃走したかが、つらい叫びのように書かれていました。その間は、食事も満足に与えられず、外への散歩も治療もなかったそうです。家族に会いたいがための行動を、園としては島に隔離し逃走させないという理由で激しく処罰していました(長島愛生園、池内謙次郎さん)。

 
 ある日、重箱いっぱい食べ物をつめて両親が面会に来てくれました。園の夕食のさつまいもを握りしめ、巻寿司を食いあさるように食べるのを見た父は「雅男はそんなにさつまいもが好きか」と驚き、私は「これは僕の晩御飯だ」と答えたんです。のちに、父が亡くなって、母から「あの時から、お父さんはまともなご飯を食べなかった」と聞かされました。希望も前途もないすさんだ療養生活でしたが、自分を心配し、愛してくれる親の為にまっとうに生きていかなければと、そう思ったのが30才半ばでした(長島愛生園、石田雅男さん)。

 
 昭和23年、夫と10ヶ月の子供と一緒に療養所で診察を受けました。私だけが感染しているということで一人島に残りました。
 夫はまだ39才、早く再婚させたほうがいいと思い、離婚請求の手紙を出してまもなく、夫が面会に来ることがわかりました。イチジクが好きだったから、もらったイチジクを大切にとっておきました。私は浜辺に腰をおろし、夫に「すわったら」と言ったんですが、ずっと1メートルくらい離れて立ったままでした。「結婚生活7~8年あったのに、この1メートルは何なんだろうか」と思いながら、イチジクを渡したら、腰をおろしてイチジクをむいて食べたんです。そのあと、「島で物を食べたと言ったら、母さんはなんていうだろうなあ」と、ぼそっと言ったんですよ。それを聞いた時、「ああ、もう帰るところはないんだなあ・・・」と思いました。それで、私からはっきりと離婚してくれと言いました。そして、ひとしれず浜辺で泣きました。人の一生の中には、自分ではどうしようもない運命があるんだと知りました(長島愛生園、双見美智子さん)。


 昭和18年の入所者数は2021人で、患者の数が最も多かったようです。昭和18~21年は毎年300~400人が亡くなられたようです。戦争前後は患者のほとんどが自分たちで自給自足的な生活をされていたようです。
 この島は、入所者が労働をして切り開かれたようです。「一朗道」と言う碑の説明には次のように書かれていました。
 「久保田一朗は昭和7年に入園し、土木部主任として園内の宅地造成や道路工事に大きく貢献しました。昭和13年、彼を中心に切り開かれた道路はその功績を称え「一朗道」と名付けられましたが、彼は激しい作業によって病状を悪化させてしまい、それを苦に自ら命を絶っています。
 これは開園当時、患者の作業により園の運営を行っていたことを示しており、本来の療養施設とはかけ離れていたことを物語っています」



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(今日の夕飯)
ハクサイの煮物
アジのムニエル
ホウレンソウのおひたし

 

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コメント

こんにちは。
おじゃましました。
またよらせて下さい。

  • 2008/01/25(金) 23:34:31 |
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  • ようじ #/.OuxNPQ
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プロフィール

水田祐助

Author:水田祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在55才、農業歴19年目。農業形態は野菜とハーブのワンパック宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ30羽。25年ほど農業とは無縁だったが、ボクが子供の頃は、家は葉タバコ農家だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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