近くの出身でも、よく知らない人もいる。「竹久夢二」は全国区の有名人だから名前くらいは知っているが、今日訪問した宇垣一成という人は、新聞で紹介されるまで、その業績を全く知らなかった。
竹久夢二は瀬戸内市出身で我が家から15分ほどの所に生家がある。
宇垣一成は、市町村合併で岡山市になったが、同じく我が家から15分ほどの瀬戸町に生家がある。で、宇垣一成は何をした人かというと、陸軍大臣になった人であり、朝鮮総督になり、近衛文麿内閣の外務大臣になった人である。戦後、公職追放されたが、1953年の参院選全国区で51万票のトップ当選を果たして、国民の人気を裏付けた。
新聞に「先人の風景」として取り上げられなかったら、生家を訪れることもなかったと思う。新聞を見て初めてその業績を知った。
宇垣は明治元年(1868年)の生まれで、昭和31年(1956年)、87才で死去。
家から15分といっても、吉井川にかかっている備前大橋を渡ってすぐ右折し、土手沿いに進むというこの道は数年に1度ほどしか走らない、あまり縁のない道である。だから、たまに通るくらいで、道沿いに「宇垣一成生家」と書いた看板を見るたびに、何をした人かなあと思う程度だった。
新聞を見て、そんな有名人なら、近くだから行って見ようと思い、今日夕方行って来た。
末っ子の5男として生まれたらしい。長兄84才、次兄77才、3兄96才、4兄87才、本人87才と、5人が5人とも、当時としては格段の長生きをされている。長寿の遺伝子を授かっている家系なのだろう。長寿というのは、家系の遺伝子の働きも多いようである。そういう兄弟姉妹が自分の近くの集落にもおられる。ただし、現在は昔と違って食べ物や環境が劣化しているので、長寿の遺伝子があっても、病気等で早く死ぬ場合も多いようである。
何の変哲もない、のどかな田舎であるが、時として、こういう立身出世を遂げた人がいる。青雲の志を抱き、田舎教師という仕事に別れを告げて10代の末に上京。
左の画像は、生家前から写した。生家の周りはブドウの産地のようである。正面に山陽新幹線が見えるが、その下に吉井川。吉井川まで直線で1キロほどである。
真ん中の画像は、少し離れた道から写した。
右の画像は、幹線道路から写した。
なお、最初の画像の屋根を見ていただくと、屋根の変遷の歴史がわかる。左から、瓦屋根、トタン屋根、ワラ屋根。
この家はすでに築150年を超えているらしく、右の画像のワラ屋根の時代に、宇垣一成は生まれたようである。今年は宇垣が生まれて139年。
宇垣一成生家の看板があってから100メートルほど行くと、同じく道路ぎわに、今度は「中河与一文学碑」という看板がある。中河与一、ご存知ですか。ボクはこの人の「天の夕顔」という本を読んだことがあり、名前は知っていた。それでも、たまにこの道を通るたびに、何でこんな場所に中河与一の文学碑があるんだろうと思うだけで、素通りしていた。
今日、宇垣一成の生家を見に行った帰りに、この先に中河与一の文学碑もあるはずだから行ってみようと思いたった。
記念碑の短歌は漢字が難しくて読めなかったが、歌っている意味は何となく理解できた。
中河与一は香川県生まれであるが、幼少の頃は病弱で、6才の時、母の里である当地に転居し、大内小学校に学んだ。この素晴らしい山紫水明の地は、健康の保持増進と豊かな詩情を育むにふさわしい絶好の場であったであろうと、記念碑のそばの説明書きに書いてあった。
中河与一は1897年に生まれ、1994年に97才で亡くなったが、宇垣一成の29年後に生まれて、同じ大内小学校に通っている。
青雲の志を抱いた宇垣も、豊かな詩情を育んだ中河も、吉井川の土手下にある小学校で学んだわけだが、同じ風景を見て、同じ野山や小川で遊んでも、誰もが大志や詩情に恵まれるわけではないので、やはり、周囲の環境や、親や兄弟の影響や、本人の努力が大きかったのだろう。
ともあれ、この二人は、吉井川の河川敷で遊び、豊かな自然に囲まれた幼少年時代を過ごしたのである。
今もなお、あまり開発の手が入らず、宇垣や中河の時代と、そんなに変わっていないように思えた。
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