あめんぼ通信

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

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葉タバコの思い出

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  池のすぐ上の山の中ほどあたりに、木が生えていない箇所があります(左の画像参照)が、45年ほど前、ここで葉タバコを作っていました。植え付け水は、池の水を汲んで上がるのですが、これがかなり重労働でした。面積は8アールほどで、周囲の木も当時はそれほど高くはなく、南向きの斜面なので、日当たりも良かったです。
 ここは、終戦後、父と父の弟が開墾したらしいのですが、ボクが中学校へ上がる頃には放棄されてしまいました。トラクタも使えず、すべて手作業だったからです。クワやヨツメで等高線状に畝立てをしていました。葉タバコを作らない年(輪作のため)は、サツマイモを作っていましたが、山土のサツマイモはおいしかったです。
 今は1年に1度だけ、草刈をしています。急な斜面であり、8アールほどあるので、草刈も大変ですが、草を刈っておけば、ワラビが生えます。この山の斜面に腰を下ろすと、45年前にすぐにタイムスリップできますが、今は自分一人。この山の斜面で幾多の汗と会話が交わされたか、20年後には多分、誰一人知る人はいなくなるんだと思います。

 
 天葉(てんぱ)、天葉下(てんぱした)、本葉(ほんぱ)、中葉(ちゅうは)、土葉(どは)・・・これは「葉タバコ」の葉の呼び名である。ボクが子供の頃には、集落のほぼ4分の1にあたる10軒ほどが、葉タバコを栽培していた。

 
 今、その葉タバコ栽培をほとんど見かけなくなった。葉タバコは、高さが1メートル50センチを超える大型になるので、車で走っていても、たいてい目に付くが、見かけない。

 県北の友人の家に遊びに行く道すがら、その葉タバコを目にする機会が1度だけある。その時は、たいてい車を止めて、葉タバコをじっと見る。葉タバコはそれくらい、自分の思い出深い作物である。自分の少年時代の周囲は、「手植え」、「手刈り」、「ムシロで天日乾燥」の稲作と、葉タバコで、まわっていた。葉タバコをずっと見続けてきて、葉タバコほど、生産する上で厳しくて、重労働の作物はないだろうと、子供心に思っていた。

 3月上旬頃、縦2メートル、横8メートル、高さ50センチほどの、周囲を稲ワラで編んだ、かなり大きな踏み込み温床(落ち葉、笹、山の下草、飼っていた牛糞、人糞、などを、交互にサンドイッチ状にして、長靴でよく踏み込みし、発酵熱を出す)を、家族総出で作り、それに、四角のヘギ(ごく薄い木の板)を2000個以上並べ(今でいう5センチポットくらいのサイズ)、その中に「肥え土」を入れ、葉タバコ苗を1本1本植えていく。

 葉タバコ苗は、2月上旬頃、10軒ほどで共同して種を蒔き、20日ほど育てた苗を各戸で分け、5センチサイズのヘギポットに「鉢上げ」して、定植するまでの3週間余り、それぞれの家で管理するわけである。家の前のカドに作られた温床に、整然と並べられたヘギポットの苗を、好むと好まざるにかかわらず、3月という月は、毎日、目にするようになる。
 温床にかぶせられたビニールトンネルを1日1回開閉しての水やり、それと日々の温度管理、夕暮れには「コモ掛け」して保温、朝、太陽があたり出すど「コモはずし」と、それは、いっときの気も抜けない大変な作業と、子供心にも思えた。そんなに手をかけても、苗の出来具合は、かなりでこぼこ。大きな温床なので、どの場所も均一に発酵熱を出させるのはむずかしく、よく熱の出た場所は一回り大きく、熱のあまり出なかった場所は、一回り小さいという具合だった。それと、温床の中心部へいくほど苗が大きく、温床の端部へいけばいくほど、苗も比例して小さいというのも顕著に見て取れた。必要数の2割ほどの苗は多めに作り、これらの不手際に対処していたようである。
 ジョロの口先を、苗が小さいうちは上向きにして、苗が少し大きくなると下向きに変える。そのちょっとした、苗に対する母の気遣いも目にして、自分の記憶に残っている。
 ヘギポット苗を1本1本、本圃(本田)へ定植する作業も大変だった。苗を運ぶ人、植える人、それに植付け水を与える人、大家族でも、子供まで動員しての、一家総出の作業だった。植付け水をした後、1本1本、三角帽子(油紙)をかぶせていく作業も大変だったし、それまでに三角帽子を準備しておく作業も大変だった。晩霜の恐れが無くなる4月末頃まで、その三角帽子をかぶせておき、その後1本1本撤去して、元通り、納屋に保存しておく。
 
 三角帽子を撤去するころから、葉タバコは爆発的な成長力を見せてくる。5月の1ヶ月間で50センチを超え、収穫期の6月下旬には、大人の身長くらいの高さになる。6月に入ると花芽がつくが、花を咲かせると葉に栄養がいかなくなるので、先っぽの花芽を切り、1枚の葉ごとに出てくる太いわき芽をかぐ作業もこの時期の重要な作業だった。この時期にはいつも母の手が「真っ黒」になっていた。葉タバコは確か「ナス科」である。ナス科野菜には、ナスビ、ピーマン、トマト、ジャガイモの4種類があるが、そういえば、ナスビ、トマト、ジャガイモの葉は、タバコの葉に何となく「葉ざわり」が似ている。
 ジャガイモはしないが、ナスビ、ピーマン、トマトは、わき芽かきの作業がある。ナスビ(44本)、ピーマン(22本)を合わせて70本ほどしか定植していないが、たったこれだけのわき芽かきの作業をしただけでも、これらの茎から出る樹液で、手が黒くなる。
 
 
 
 6月下旬以降は収穫の季節である。冒頭に書いた天葉(てんぱ)、天葉下(てんぱした)、本葉(ほんぱ)、中葉(ちゅうは)、土葉(どは)の、それぞれの収穫作業が始まる。収穫してきた大きな葉(テニスのラケットをもう少し細長くしたような葉)を、1枚1枚、縄で編んだしめ縄に「はさげて」いく。はさげる作業は兄弟間での競争だった。「手早や」かどうかが、この作業でわかるのだった。姉は後年、牛窓町の「大百姓」に嫁いだが、家族の誰よりも、このはさげる作業が早かった。

 はさげた葉タバコを乾燥させるために、タバコ農家共同の乾燥庫へ収納し、外から割り木をくべて燃やす。燃やす作業(乾燥させる作業)は昼夜、寝ずの管理だった。タバコ農家が交代制で当番の日を決めていた。乾燥庫の前に「縁台」が置かれていて、我が家が当番の日には、その乾燥場へよく遊びに行った。母はいつも縁台の上で横になり、居眠りをしていた。そして、突然目覚めると、温度が・・・と言って、温度計を見に行った。当番の日は、農作業から解放される、つかの間の休息時間だったのかも知れない。夜の当番の日は父が出ていた。乾燥場のすぐそばに、大きな柿の木があり、その柿の木に止まった、にいにいぜみの騒がしい鳴き声とともに、その情景がつい先日のように思い出される。

 乾燥が終わると、各家に持ち帰った。タバコ農家は、ほとんどの家の屋根裏部屋(2階)が、タバコの「葉より」の部屋だった。7月の最も暑い月に、窓も開けずに(窓を開けて外気に触れさせると、乾燥させた葉が湿るらしかった)下着姿で、葉タバコの乾燥具合を1枚1枚チェックし、黒っぽくなっている部分はハサミで取り除く。まるで「蒸し風呂」のような部屋だったが、ここで両親と祖母が「葉より」作業をしていた。祖父は、細かい作業は苦手だったようである。この作業に1ヶ月近くを費やしていたように記憶している。この時期には、田植えや田植え後の植え次ぎ、田草とりもあるので、合間、合間の作業だったのだろう。

 8月、やっと出荷の季節を迎える。それまでの苦労が評価される、「出荷物の検査」というのがあって、それぞれ等級が決められて、等級によって単価が違ってくる。だから農家は、その結果に一喜一憂する。やはり、相手のよかったのが気に入らない人もいるらしく、どうじゃった、こうじゃった・・・、あの人がああ言った、こう言ったと、夕飯の時に話しているのを、この時期にはよく耳にした。

これが、葉タバコの一連の行程である。子供心にも、葉タバコ作りの苦労が、見ていて、身にしみてわかるのだった。だからかも知れないが、農業に家族を巻き込んではいけないと思った。農業は1人でするものだと思った。

自分の集落においても、葉タバコの生産期間は、たった15年間ほどで終わったようである。20年間にも満たなかった。その間に、葉タバコの乾燥庫を個人で建てる人もいた。1年に1回、たった、1~2週間しか利用しないのに・・・。稲作のコンバインや田植機、乾燥機もそれと同じことが言える。1年にたった1~2週間しか稼動しないものに、こんなに設備投資すると、企業だったら、まず倒産する。農家人はなぜ、この点にもっと着目できないのだろう。

 見知らぬ土地をドライブしていると、古き良き時代の幽霊建造物「葉タバコの乾燥庫」が、今も壊されずに残っている(今は納屋として利用されているのだろう)のを、時々目にする。ああ、この地でも、一時期、葉タバコ作りが盛んだったんだなあと、ふと郷愁を覚えることもある。

 
 父母の時代、農薬や化学肥料という文明の恩恵を始めて受けるようになり、それらの全盛期の時代だった。稲作や葉タバコ作りで、父母は浴びるくらいの農薬を受けてしまっただろう。因果関係は知る由もないが、母は血液のガンで62才で、父は肝臓ガンで75才で他界した。祖父が89才、祖母が91才で天寿を全うしたのとは対照的である。文明の進歩が命を縮めたようだ。

 そして、次の世代のボクは、36才の時、脱サラして百姓になった。サラリーマンという組織になじめず、回り道をして、やっとひらめいた農業だった。しかし、若い農業志願者にとって、農業への転身は、17年前よりもっと厳しいものになっている。生きていくための職業の選択肢が「サラリーマンしかない」というのが、今の日本という国である。多様な生き方が選択できなくなっている。この傾向はますます強まるだろう。



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プロフィール

水田祐助

Author:水田祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在55才、農業歴19年目。農業形態は野菜とハーブのワンパック宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ30羽。25年ほど農業とは無縁だったが、ボクが子供の頃は、家は葉タバコ農家だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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