あめんぼ通信

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

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新天地を求めて (1)


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 今日から4日間で、Wさんがこの地に入植された経緯を書かせてもらいます。Wさんのことは、1月26日、1月27日、1月28日、1月29日の4日間の更新で書かせてもらいましたが、今日からのは、この地に入ることになったいきさつです。一昨年の9月、10月に書いたものですが、自分にとっても記念碑的な作文です。
 
 
 新たな入植地を探すことは困難を伴う。そして、とにかく入植して数年経過してみないことには、その地が本当に自分にとってよい選択だったかどうかもわからない。一か八かのような選択を迫られる。入植地を転々とするわけにもいかない。多くの人が1回目もしくは2回目の入植地を天命として受け入れているのだろう。

 
 千葉県から高知県の四万十川源流域に入植されていたWさんと初めて知り合ったのは、「あめんぼ通信」というホームページを開設してまもなくのことだった。「あめんぼ百姓塾へ入るにはどうすればよいのですか」というメールををくれた最初で最後の人だった。以後、時々あめんぼ通信をメールの添付ファイルで送っている。すでに4年半がくる。そのWさんからつい最近メールをもらった。

『ご無沙汰しています。いかがお過ごしですか。僕は農地を返すことになりました。僕の農法、自然農では、集落が申請している中山間地の補助金が下りないのだそうです。現在、営農できる転居先を捜しているところです。
 
今年は、色々と予期せぬことが起き続けていますが、「だから人生はおもしろい」と開き直って生きています。一段落ついたら、またご連絡します。』

 
 通常はメールのやりとりだけで、電話をすることは少ないが、事情が事情だったので、電話で確認してみた。新しい入植地を捜さざるをえなくなった・・・と言われる。どうしてもそうせざるを得ないのなら、自分も岡山県内で心当たりを捜してみると言って電話を切った。

 
 すぐに思い出したのは友人のNさんだった。Nさんも和歌山県東牟婁郡那智勝浦町色川(リンク参照)から、第2の入植地として岡山県和気郡に入植して来られたので、同じく2回目ということで、参考意見が聞かせてもらえるのではと思った。Nさんの電話番号をWさんに伝えた。また、東京の有機農業研究会の事務局のUさんに電話をして、熊本県と長崎県の有機農研のメンバーで、誰か入植の世話をして頂けるような方はいないか、もしおられるようなら、Wさんにファックスを入れてほしいとお願いした。熊本県と長崎県と指定したのは、次の入植地として、その方面を考えているとWさんが話していたからだ。でも世話をして頂ける方はいなかったらしい・・・。Nさんや有機農研の他に、岡山県内の友人や知人7人ほどに電話をして、入植地を探している人がいるが、どこかよい場所はないかと依頼した。
 待っていたがよい返事はなかった。入植地などの仲介はなかなか、よだつ(面倒な)ので、ワンクッションおくとあまり親身になってくれない。

 
 よい入植地が見つかればいいがなあ・・・と「思う」ことではなく「具体的に何かをしてあげることだ」という名言を思い出し、ボクが紹介できないのに、友人や知人が紹介できるわけがないと思いなおし、もう一度、自分の心当たりを頭の中で反芻していた時に、電話してみようと思いたったのが、「喜多鶴会」の代表者だったMさん方だった。

 
 会社を辞めて農業をスタートする前の2ヶ月ほど、有機農業の研修に行かせてもらったのが、我家から片道50キロほどの御津郡建部町角石畝のMさん方だった。車の往復だけで疲れてしまい、結局十数回訪問させてもらっただけで長くは続かなかった。1年ほど経過してから、非礼をおわびするための電話をすると、Mさんはすでに亡くなられていた。

 
 研修中は、昼食を食べた後、屋敷の周辺をよく歩き回った。裏山に通じる道には、矢印の小さな標識があり「桃源郷」と書かれていた。そこはまさに、この世の桃源郷と思えるような、浮世から隔絶した場所にあった。集落といっても人家はまばらで、昼間でも一歩道を間違えると、まるで迷路に迷い込んだごとく、どこであるかがわからなくなった。Mさんは片道6キロほどの急勾配な道のりを、ふもとの職場(農協)まで歩いて往復されていたらしい。屋敷から見渡せる風景は絶景だった。まるで雲の上から見渡しているような風景が眼下に広がっていた。こんな所で生まれ育ったら誰もが詩人になれそうな気がした。
 第2次世界大戦後の高度な文明の発達さえなければ、下界から隔絶されたようなこの地で、豊かな「自給自足」が営まれ続けていただろうと思うが、大きな時代の波は、次の世代の人たちがこの地にとどまり続けることを許さなかった。次の世代の人は山をおりて平野部に家を建てたり、あるいは岡山市内、県外へと就職先を求めざるをえなかった。


 角石畝(ついしうね)の集落でも、日本各地の山里の集落がそうであるように高齢者だけが残った。Mさんが亡くなられてまもなく奥さんも倒れられた。勤務の関係で当時は四国におられた息子さんの所に身を寄せられた。以後、Mさんの自宅は、盆、正月に帰省される以外は空家となった。

 
 あれからすでに15年の月日が経過した。たった2ヶ月ほどの出会いで終わってしまったが、Mさんは角石畝の集落や喜多鶴会(無農薬野菜栽培集団)のメンバーの畑を案内して見せてくれた。裏山で20羽ほどのニワトリを飼い、家の前ではウサギをたくさん飼われていた。後日、ケージでニワトリを3000羽ほど飼っていたことがあると聞いて、そのギャップに驚いたが、農協の組合長までされた方だから、近代農業をリードし続けて来られた時代もあったのかも知れない。でも第一線を引退後は、ご自身の生まれ育った幼い時代にかいま見た角石畝の美しい農の原風景に立ち返り、少羽数のニワトリや、有機農業に帰っていく必然性も持ち合わされていたのだろう。


 Mさんが亡くなられたと聞いてからお墓参りに行ったのと、6~7年前に、当時の風景が懐かしくなって、無人の屋敷の周りを歩き回った。15年間に訪問したのはこの2回だけである。でも自分には特に印象深い土地だった。

 
 近くに住むMさんの弟さんの家に電話をして、Mさんの息子さんの電話番号を尋ねた。息子さんは突然の電話にも心よく応じてくれて、Wさんのことを話すと、すでに何ヶ所か雨漏がしているし、座がぐらぐらしている場所もあるので、修理をしないと入れないと言われた。そして、同じ角石畝の集落にあり、1年半ほど前にお母さんが亡くなられて空家になった家の息子さんの電話番号を教えてくれた。

 
 翌朝さっそく電話をすると、今日は家にいるのでどうぞとおっしゃったので、岡山市内に建てられている家を訪問させてもらった。どちらの方も生まれ育った家を離れて、岡山市内や市内への通勤圏に家を新築されている。生まれ育った角石畝の実家は「別荘」のような存在だった。

 
 借家の件は前向きに検討させてもらうが、集落の人の同意も必要なので、今度帰った時に話をしてみると言われた。さっそく、この吉報をWさんに電話して、9月は農作業が忙しいが、10月の上旬にはちょっと手があくので早めに1度見学に来られるようにと勧めた。ここまではトントン拍子に話が進んだ。この後はWさんがこの地を訪問して、どんなインスピレーションを感じるかにかかっている。

 Wさんは化学物質過敏症という病気である。電話で、標高300メートル以上の所に位置し、都市部からかなり離れている場所を希望していると聞かされていた。その場所は水島コンビナートから100キロ以上離れているのですかとも聞かれた。

 
 自分の人生の中で、一瞬のごとく通り過ぎた角石畝という集落であるが、こんな形でまたWさんを当地に案内できることがうれしい。イノシシは出ると思うが景色のいい場所であると電話で伝えた。今後この話がどう進展するかわからない。でもボクは今から、久しぶりにまた角石畝の集落を訪ねることを楽しみにしている。もう集落へ上る道を忘れてしまったような気もするが、Mさんの屋敷から眺めた遠くの山々が、以前と同じような風景で自分を待ってくれているだろうか・・・。


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プロフィール

水田祐助

Author:水田祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在55才、農業歴19年目。農業形態は野菜とハーブのワンパック宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ30羽。25年ほど農業とは無縁だったが、ボクが子供の頃は、家は葉タバコ農家だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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