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あめんぼ通信

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

クン炭びより

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 今日も、おだやかな日和だった。朝、パソコンに向かいながら、今日はクン炭(焼きすくも)を作ろうと思った。
 
10時頃からスタートした。物置から、クン炭を焼く煙突と、煙突をさすジョウゴのようなものと、ジョウゴを置くレンガ3個×2を出してきた。ジョウゴに、よく乾いた笹を入れ火をつける。落ち葉より笹や木切れの方が火持ちがよくて消えにくい。


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 火がついたら、燃えてしまわないうちに、ジョウゴ(煙突台)のまわりに、すくも(もみがら)をおく。一度にたくさん、すくもをかぶせてしまうと、空気が遮断されて、火種が消えてしまうので、火種が消えないように、徐々にすくもの量をふやしていく。ジョウゴ(煙突台)に接しているすくも(もみがら)が焼けて黒くなれば、すくもに火がついたことが確認できるが、うまくいったかどうかは、30分くらい経過してみないとわからない。
 煙が少なくなったり、煙突の煙の出口に手をかざして、熱くなければ、途中で消えたのであり、また一からやりなおしである。慣れるまでは、なかなかうまく着火しないが、そのうちコツがわかってくる。



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 二つとも着火したら、すぐ下の田んぼにある井戸から、「つるべ」で水を汲み、タゴに入れる。2タゴあれば足りるが、3タゴ用意した。これは、クン炭(焼きすくも)を消すための水である。ジョロにも水をいっぱい入れておく。


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 クン炭の風景は、とても「のどか」である。ボクが子供の頃には、クン炭を「稲の苗代」に使っていたので、近所のどこの家でも、稲秋後の「もみすり(ヨウス)」が終わると、家の庭先で、このクン炭を作っていた。今は誰もクン炭など作らなくなった。自分はたいてい今頃の時期に、2回(2×2回)作っている。煙突からもくもくと出る煙を見ていると、農業の豊かさを感じる。


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  今日はクン炭の光景を存分に楽しんで頂こうと思った。1年のこの時期に2回しか焼かないので、貴重な映像として、たくさんアップすることにした。ここまでが、午前中の工程で、この後、昼食に帰った。作業ズボンを脱ぐと、パッチ姿ですぐにパソコンの前に直行し、デジカメからパソコンに取り込み、スライドショーを見た。その後、フォーマット(初期化)をして、バッテリーを充電して、昼からまたデジカメが使えるようにしてから、20分ほどで昼食をすますと田んぼに直行した。クン炭を作っている時は、40分以上現場から離れない方がよい。


 クン炭を作る日は、
(1)よく晴れて、風が少ない日。風が強いと籾殻(すくも)が飛ぶ。
(2)籾殻がよく乾いている状態の時に焼く。
(3)外気が低温の時に、ゆっくり時間をかけて焼いた方が「歩留まり」がよいので、1月、2月が時期的にはよい。3月は雨が多くなるし、気候が暖かくなる。
(4)午前中は風がないでいても、午後から風が出ることもある。1日、風が穏やかな日が「クン炭びより」である。


 クン炭の利用は
(1)サツマイモやジャガイモ、果菜類の元肥に利用する。
(2)ダイコンやカブを蒔いた後、雨にたたかれるのを防ぐために使う(すくもよりクン炭の方がよい)。
(3)サツマイモの苗づるを取る芋を伏せた時に、その芋の保温にクン炭をふる。
(4)ナンキンやキュウリ等のポット育苗、あるいは、レタス、タマネギ等の地床育苗の時に、保温や、雨にたたかれるのを防ぐために用いる。
(5)ポット育苗の土を準備する時に、増量目的で、クン炭を加える。
(6)その他、クン炭の利用範囲は多い。


 午後からの様子は明日にさせて頂きます。







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ニワトリを飼われるのなら・・・

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藤田様


 23日のブログでニワトリのことを書かれていたので、もし飼われるのならと思い、参考になりそうなことを書いて見ました。今回導入したヒヨコは、藤田さんがお住まいの愛媛県の㈱南伊予という孵化場から宅急便で送ってもらったヒヨコです。ずっと買っていた愛知県の「寺津ヒヨコ」という業者が、閉鎖されたか何かで送ってくれなくなり、いろいろ探してやっと見つかったのが南伊予でした。


導入日 平成17年5月26日


品種 ボリスブラウン メス40羽 1羽250円


                             オス 4羽 1羽 50円


 仲間3人で買った合計羽数です。最低100羽からと言われたが、頼み込んで送ってもらいました。



(1)5年間飼うということを目標にされたらいかがでしょう。通常は、タマゴを産み始めてから2年間飼うというのが、自然卵養鶏家でも、エサ代との関係で一般的らしいですが、クズ野菜のリサイクルという視点なら、その2倍半の年数の5年が妥当です。



(2)菜食主義のニワトリに育てても、結構、タマゴは産んでくれます。5月26日で、ヒヨコを導入して丸2年が来ますが、現在の産卵率は3割で、1日10個ほど産んでくれます。自分の場合は、くず野菜と、稲作農家から頂く「コゴメ」が主体ですが、農協から配合飼料も月に1回(20キロ入り、1400~1500円。輸入物なのか値段が一定しない)買っています。配合飼料の安全性は問題ですが、少しでも(2~3割)エサに加えると、産卵率に反映します。



(3)菜食主義にして、四面オール開放の風通しのよい鶏舎だと、臭いはほとんどしませんが、糞が臭いという先入観が高齢の田舎人にはあるので、住宅地の周辺ではやはり避けたほうが無難です。住宅地から直線距離で100メートルも離れていれば問題ないと思われます。



(4)オンドリの鳴き声は、気になる人は気になるようです。オンドリは、午前2時でも午前4時で、闇夜でも月夜でも関係なく、鳴きたい時になきます。1~2羽なら問題ないと思いますが、苦情が出てオンドリを処分された方もいます。



(5)導入羽数の問題ですが、50羽飼うのも20羽飼うのも、手間はさほど変わらないと思います。自分はメンドリ30羽、オンドリ2羽が理想だと思います。1坪(畳2畳分)で8羽までなら、他に「遊び場」のようなものいりません。



(6)ニワトリがかわいく思えるのは40羽までと思います。中途半端な羽数は禁物と思います。40羽までなら、手間もほとんどかからず、エサも適当でよいし、最後に淘汰する時もあまり負担にならないように思います。



(7)オンドリはメンドリの羽数に対して通常5%と言われています。2羽でも闘鶏をして、すでに勝負がついており、1羽の方が常に逃げるか、避けて(遠慮して)います。



(8)オンドリは凶暴ですが、ヒヨコ時代によく触ってスキンシップを取ると、世話人に向かってくるようなことはありません。よく触るといっても、エサやりのときに、2~3秒、羽に触れるくらいです。ちょっとしたことですが、これをするかしないかで、凶暴なオンドリになるかやさしいオンドリになるか違ってきます。ただ、オンドリですから、やはり油断は禁物で、オンドリの正面に向かって歩を進めたりはしないようにしています。



(9)5年間飼って、次に導入したヒヨコがまたタマゴを産み始めるまでに半年間のブランクができますが、タマゴが途切れる期間があると、タマゴのありがたみが始めてわかるので、途切れる期間があった方がいいように思います。20羽ずつ2年半、もしくは15羽ずつ2年半で導入という方法もあり、そうすればタマゴの途切れる期間はありませんが、やはり40羽または30羽を5年飼った方が、ニワトリに愛着がわくし、ニワトリにもやさしい飼い方です。



(10)ニワトリの命は「くちばし」です。何も言わなければ、くちばしを「デービーク」してあります。「くちばしは生まれたままの姿で」と一言申し添えておく必要があります。



(11)自分の適性や将来の農業ビジョンを考えて導入羽数が決まりますが、自分の場合、ニワトリは40羽までというイメージだったので、面積は4坪半(大工さんによれば5坪という広さはなく、次は6坪でした)あれば十分でしたが、自分で建てれなかったので、どこに建ててもらおうか、それにかなり迷いました。



(12)田んぼを鶏舎用にまわすのですから、いわゆる「野菜を作ってもあまりできのよくない田んぼ」に建てると思いますが、鶏舎の日当たりは重要です。少なくとも半日は太陽が鶏舎内に差し込むことが理想です。



(13)鶏舎の床は土ですが、タヌキ等の害獣は地面を掘るので、トリ小屋の周囲はブロックで固めています。地面から30センチくらいまでは金網でなく木がよいらしく、その上から金網にしています。金網は雨に腐食しないのを使うと永久的です。



(14)ニワトリは人間の動きによく反応します。できれば、農作業中に自分があまり行ったり来たりしない場所のほうが、ニワトリも落ち着くし、自分も、あまりニワトリが気にならなくて(気が散らなくて)よいと思います。しかし、自分がしょっちゅう出入りする場所から遠すぎると、エサやりやクズ野菜の投げ込みに不便です。鶏舎の近くに軽四が横付け出来るかどうかは、40羽くらいまでならあまり問題にならないです。



(15)飲み水の問題も40羽くらいまでなら、使わなくなった鍋いっぱいくらい飲むだけ(1日2~3リットル)なので、容器に汲んでいっても手間はかかりません。



(16)ニワトリを飼い始めたのは、農業を始めたちょうど1年後の3月からでした。まだトリ小屋はどこに建てるか決まっていなくて、とりあえず、家の軒先で、使わなくなったホームコタツで加温して育雛を始めました。「ゴトウ」という品種で、ヒヨコは姫路まで車で買いに行きました。



(17)現在は5月25日頃の導入に定まってきました。この時期になると、最低気温が10度を下回ることはなく、ヒヨコを導入した最初の1週間も「加温」する必要がなく、画像の鶏舎の隅っこに、宅配用のダンボールを置いて、その中に籾殻をいれて育雛するので、ほとんど手間はかかりません。



(18)エサは最初の3日間は、水とコゴメだけ与え、4日目あたりから、味噌汁の残りとか、やわらかい野菜の葉などを少しずつ与えます。1週間が過ぎると何でも与えています。ヒヨコから4ヶ月間ほどは、食べる量も少なく、家から出る食べ残りと、コゴメと、くず野菜や雑草だけ与え、5ヶ月に入る頃から、栄養バランスも考え、市販の配合飼料も少しずつ与えています。半年経過して初産を迎えなかったら、少しエサを多めに与えています。逆に半年より早く初産を迎えたら、市販の配合飼料はストップして、野菜くずやコゴメ、家の食べ残りだけにしています。今回導入したニワトリは7ヶ月と2日ほどが過ぎてやっと初産でした。5月26日で丸2年がきますが、後3年飼う予定です。まだ1羽も死んでいないことが自慢です。



(19)初産と初交尾とオンドリの初鳴きは同一日でした。



(20)鳥インフルエンザは、我々のような飼い方ではほとんど問題はないと思います。



(21)エサはニワトリ1羽で1日100グラムが目安だそうです。でもこの100グラムには野菜クズは入らなくて、コゴメとか市販の配合飼料とかの濃厚飼料の重量計算のようです。自分の場合、エサはかなり適当です。ちょっと産みすぎているなと思うと、配合飼料を少なくし、盆とか正月で来客が多い時は、ちょっとエサを多めに与えています。



(22)カキガラのようなものは、ほとんど与えなくても、タマゴの殻はかなり固くて、簡単には割れません。多分、大量に与えるくず野菜や雑草などの青菜から鉄分やカルシウムを取っているのだと思います。



(23)ニワトリの食用として重宝しているのが、夏秋は、ジャガイモくず、未熟ナンキン、トウガン(特にお勧め)、サツマイモくず。冬は、ダイコンやカブのくず、ハクサイ、キャベツの外葉、ヤーコンのくず、それにニンジンです。ニンジンはちょっともったいない気がしますが、1日3~4本与えれば、タマゴの黄味の色が濃くなるようです。



(24)ニワトリを飼い始めたら、藤田さんの料理集にタマゴが頻繁に登場するだろうと思います。田んぼの一角にニワトリがいるというのは楽しいものです。最もうれしいのは、丹精込めて育てた野菜の、出荷できなかったどんな小さな一片でも、ニワトリがすべて平らげてくれることです。


 


 「藤田さん」とは、リンクの一番上にある「38歳からの百姓志願~実践編」の藤田敏さんです。他の人にも参考にしてもらいたいと思い、藤田さんへのメールではなく、ここに書きました。



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地図にない村

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 2月20日の新聞に「2641集落消滅の恐れ」と一面に大きく出ていた。今後も増え続けると思う。というのは、大都会で住むよりも、山村の過疎地で住む方が、生活費が多くかかるという、まったくおかしな、でも現実はそうである事態だからである。


 野菜や米は、たとえ消費税が10%を超えても、作るより買った方が安くつく。種代、苗代、肥料代、資材代等を計算したら、食べ量を作るならかえって高くつく。もちろん、自分の労賃など入れないでの計算である。それでも作るのは、


(1)田舎人の場合、昔からの習慣。


(2)自分で作った方が安全であるし、おいしいから。


(3)買いに行くのが遠いから。


(4)家の前の畑に食料が植わっていると思うと、何か安心する。


(5)お年寄りのひまつぶし。


 


 そして、ライフラインに関しては


(1)電気代、電話代、新聞代、テレビの受信料、


(2)ガス代、灯油代、上水道代、下水道代(汲み取り料)


(3)国民健康保険料、国民年金保険料、火災保険料、生命保険料


(4)固定資産税、自動車関連費、冠婚葬祭費、その他雑費


 大都会も山村の過疎地も同じと思ったら、これも自動車関連費や冠婚葬祭費で、過疎地の方が高くつく。



 つまり、田舎は住みやすいのではなくて、都会より高くつく場合の方が多いし、逆に、働く場所は少ないので、生きていくために、過疎の山村を出て行くしか仕方がなくなっているのである。



 田舎には田舎のシステムがあり、都会には都会のシステムがあり、その間を行ったりきたりするシステムができていればよいのだが、資本主義は、発達すればするほど、全国一律のシステムに統一してしまった。自給自足主義のシステムなんかやられたのでは、資本主義にとっては脅威なのである。



 発達した資本主義のもとでは、消滅を余儀なくされている、山深い山村集落。そんな山村集落を訪ねると、「日本の昔話」のような世界に出くわすことがある。



 今、自分が出会っている人たちは、もし自分が農業を始めていなかったら、永遠に出会うことはなかったであろう人たちである。そして、自分が農業を始めたのも、第1の人生でつまづいたからである。サラリーマンの世界で、それなりの居場所を確保できていたら、農業など思いつかなかったはずである。定年になってから始めたと思う。サラリーマンに挫折したとき、もつれてしまった脳みその中を、ほどいていたら、農業という、ひとかけらの切れた糸が見つかった。そこから農業への道ができていった。



 都市生活者と違って、元々の田舎人であり、家つき、田んぼつき、指導者(父)つきだったので、農業をしようと思いつきさえすれば、農業を始めることは困難な道ではなかった。でも手取り200万には届かない世界だろうとは想像できた。しかし、その半分にしかならないとは、想像できなかった。でも配偶者が定職を持っていたので、我が家の生活はまわっていった。その農業人生も3月から18年目に入る。そろそろ集大成の時期である。



 今現在、自分が形作っているものが、農業の世界で表現することができた自分のすべてである。春夏秋冬の畑をみれば、その人の性格や、めざしてきた方向や、得意な作業、不得意な作業や、稼いでいる大体の金額や、今後の展開や、どれくらいの安全性か、どれくらい環境にこだわっているかなど、だいたいのことがわかる。



 もう農業はこれくらいでいいかなと思う。14年間のサラリーマン生活と決別して農業に転身したように、17年間の農業生活の間に新たに自分の中に形作られた、自分のこれからの目標に向かって、少しずつ準備をしていこうと思う。



 その目標の一つは、安っぽいデジカメ一つと、コンビニで買った缶コーヒーと480円弁当を携えて、農業用軽四でドライブしながら山村の過疎地を訪ねて、その地に住む人々の話を聞かせてもらったり、古びた家や、崩れ去ろうとしている集落や、まだ残っている田畑の風景を写したい。

 そして、「地図にない村」、「地図から消えた村」、「地図から消えようとしている村」をブログ写真集としてアップしたい。
 地図から消えようしている村、実際はすでに集落として機能していない村は、家から1時間で行ける範囲にいくらでもある。現実は新聞の数字よりかなり先を行っていると思う。



 山村の過疎集落にぽつんぽつんと入植している友人たちを訪ねるとき、地図から消えようとしているような村を通過することも多い。そんな時、ちょっと時間の余裕があれば、軽四を止めて、じいっと、周りの風景を眺めてみる。そうしたら、明治時代、江戸時代へと、時代は1900年、1800年、1700年、1600年とさかのぼっていく。徳川300年の時代へとタイムスリップして、自分の中にかすかに受け継がれてきた十数世代前(いや、たった2世代前)の遺伝子が突然騒ぎ出して、川で魚をとったり、山で狩をしたり、山菜をとったり、木の実やきのこをとったり、里で稲穂を刈ったりしたDNAがめざめてくる。



 現在65才~80才の人がまだ健在な今写しておかないと、農業風景が残せない可能性もある。「農の風景(原風景)」が、55才以下の世代では欠落してきている。農業は特殊な世界、農業は他人がする世界、農業は賢くないものがする世界、農業は一線をしりぞいてからする世界になっている。そして次第に、金持ちしかできない世界になりつつある。



 幸い自分にはまだ少し時間が残っているし、農繁期でも、ちょっと無理をすれば、週に1度の農休日が取れないことはない。



 深い山の中で、通りすがりに見かけた「ひなびた集落」に、江戸時代300年の栄華の残り香をかいで、たとえ時代は移り変わろうとも、人間の中にある、大地を耕し、山中に遊びたいという遺伝子(DNA)ともいえる欲望は、心の奥深くに留めておくことはできないのだと思った。



 あてもなくドライブしようと思う地域は、車で片道1時間ほどで行ける範囲で、吉井川の東岸水系の山村。これなら日帰りで、あまりカネを使わず、時間を使わず、山深い集落を舞台にしたブログ写真集と短い作文ができそうに思う。ターゲットの地域は、和気町北部、吉永町北部、佐伯町、英田町、美作町南部、作東町南部、県境を越えて兵庫県上月町。



(追記)


 可能か不可能か定かでない、おぼろげな目標は、公言しておいたほうが、がんばれるし、何度も思い出せるし、目標を自分に再確認する作業を常にしていかないと、安きに流れてしまう。


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かぐら街道

 木曾は山の中です・・・。そんな歌をつい口ずさんでいた。行っても行っても、山また山・・・。こんな深い山々の斜面に、現代風な家並みが点在している。こんな田舎では働く所は少ないだろうに、市街地まで、この「広域農道」を利用して通勤しているのだろうか。随分りっぱな広域農道である。その名は「かぐら街道」。農閑期を利用して、この高梁地域に、ここ数年、数多く入植されている「ニューファーマーズ」の方の1人を訪ねて、ここ、かぐら街道を走っている。待ち合わせ場所は、眼下80メートルはあろうかと思える深い谷にかかった200メートルほどの橋を渡りきった所にある小公園。先ほどスーパーで買ったチーズバーガーとおにぎりとコーヒーを持って、藤棚の下のベンチに腰をおろして昼食をとりながら、1時に迎えにきてくれる人を待っている。時おり、車が走る程度で、この15分ほどの間に何台の車が走っただろうかと計算して見るくらい少ない。いったいこの広域農道は、どれだけの人のために作られたのだろうか・・・と、つい考えてしまう。

 
 県下に入植されている友人や知人を訪ねる時、広域農道を走ることがよくあるが、いつ走っても、対向する車の量は少ない。日本が高度成長でカネが有り余っていた時代、「産めよ、増やせよ・・・」の論理で、山村のすみずみまで、このような「広域農道」が整備されていったのだろう。でも田舎に人は定住せず、流出はとどまらない。

 
 圃場整備されて広くなった田んぼや、畑潅(水道のような形で、畑に水を送るための設備)も、次の世代には無用の長物である。無用の長物どころか、圃場整備や畑潅は個人負担金もあるので、支払いは往々にして次の世代まで続くのである。



 (1)   広域農道

(2)  
圃場整備

(3)  
畑潅


 この3つの事業が、本当に、地域の農業にどれだけ貢献してきただろうか・・・。これによって、儲けたのは一体誰だっただろう。整備されればされるほど、まるで反比例するように、農業は顧みられなくなっていった。長期的なビジョンもなく、誰が責任を取るわけでもない。そういう話を持ち出すことさえ「はばかられるような雰囲気」・・・。結局、時の権力と結びついた「業者利益」だけに終わったのだろう。そして、現在、この三事業に変わって過疎地のすみずみまで、張りめぐらされようとしている「下水道事業」。これも、環境問題にあてこんだ「業者利益」。都市の人口密集地域ならいざしらず、このような、人家のまばらな純農村地帯にまで施工されようとしている「下水道事業」。本当に水質浄化、環境保全に役立つとでも思っているのだろうか。何でこの国は、このような「ハード(ハコ物)事業」ばかりにカネを注ぎ込むのだろう。上記3項目が、農業の衰退に何の歯止めもかからなかったように、この下水道も水質浄化や環境保全に何ら役立つとは思えない。でも何にも言えない。言っても仕方がない。無力である。また次の世代へ「負の遺産」を残すのだろう。

 
 こんなのどかな春のような昼時に、何でこんなことが頭に浮かんだのだろう。原因は一つ、この15分ほどの間に、りっぱ過ぎる広域農道を、数えるほどしか車が走ってこなかったから・・・。

(2004年2月)

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岡山三大河川

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 岡山には等間隔に3大河川がある。中央に旭川、左に高梁川、右に吉井川である。先日の土曜、日曜に訪問させてもらった川上町は高梁川水系にあり、Wさんの建部町は旭川水系にあり、吉永町のNさんや和気町のNさんや自分は吉井川水系に住んでいる。都会から移り住んで来られた人は、そんなに意識することはないだろうが、元々の地元に住んでいると、この「水系」というのは無意識のうちに意識しているものかもしれない。日頃、自分ではそんなに意識したり、感じたりしていなくても、他の人との会話の中でさりげなく発せられた言葉に、はっとしたりすることがある。
 倉敷のMさんを訪問した時に、Mさんが「一線を退いたら、高梁川水系の山間地に住んで、自給自足の生活をしたい」と話されていたが、その後に、高梁川水系でと念を押された。小さいころから、高梁川水系の水を飲み、高梁川水系で育ったので、その思いがあるのかもしれない。振り返って自分を考えるに、やはり自分も、吉井川水系以外の水系だと、何か水域の風景が違って見えるようなことがある。


 
 農業を始めてからこっち、同業者を訪ねて、県下のいろんな地域を訪問するようになったが、Mさんの発せられた言葉の一言で、こういう気持ちのことを水に合うとか水に合わないとか水が異なると言うのだなあと思った。元々の地元の人は無意識のうちにこういうことを感じているのだと思う。都会にはそれがない。古いとか旧式というのとはちょっと違う。この水を飲んで育ってきたという感覚である。



 「自分の居場所」を考えたりするとき、都会は自分にとって、浮き草のように浮遊している場所だった。田舎では浮遊感を感じることはない。それは「土」の上で生活をしているからだと思う。都会にはすでに「土」がない。



 都会から移り住んで来られた人には


(1)集落の中でうまくやっているように見える人


(2)うまくいかなくても、それを表に出さず、じっと我慢している人


(3)時々衝突している人


それぞれである。(3)の人もかなりいる。話を聞くと「もっともだ」と思えても、どうすることもできない。自分のように元々の集落に住んでいても


(1)集落の中で気の許せる人は、自分に限らず、誰もがほとんどいないと思う。


(2)集落の中で、一度「きまずい関係」になると、なかなか修復が難しいので、直接本人に言うことは極力避ける。そして、公会堂で集落の集会等があるときに、一つお願いしますのような形で提案をする。行政等には依頼しない。行政等に依頼しても、事態はほとんど解決しないし、誰が行政に依頼したか、すぐにわかってしまうので、それなら、正攻法で、相手に面と向かって頼んだ(言った)ほうがよい。

 
 
過疎の山村に入ると、人家がまばらであるし、こういうことは少ないように思えるが、それでも田んぼが隣接していたり、道沿いにあったり、ごみの焼却、水の利用等で問題が生じたりすることもあるようである。第三者としてみると、とてもよい人に見えても、何かのことで利害が対立して初めて、その人の人間性に触れることも多い。



 同じ田舎の人でも合う合わないはあるし、都会から移り住んで来られた人でも合う合わないはあるし、同じ農業者でも、何かのきっかけで行き来がなくなったりする場合もあるので、これはどこに住んでも、どこに移り住んでも同じである。せっかく田舎に移り住んで、豊かな自然の中で生活を始めたのに、また新たなストレスをかかえてしまう場合もある。そんな時の対処の仕方は、人それぞれの人生観や、人それぞれ今まで生きてきた環境によって異なるが、自分の場合は、


(1)多くは時間(年数)の経過が解決してくれた。


(2)ちょっと遠方だったが、訪問するのが楽しみな農業者がいて、心の捨て場になってくれた。


(3)作文もけっこう癒しになった。




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川上町 Oさんを訪問

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 Oさんの農場は2年ぶりの訪問である。2年前はお1人だったが、この間に結婚され、赤ちゃんも生まれて3人家族になっていた。川上町に鳥インフルエンザが発生してまだ20日ほどしか経過していなかったので、訪問させてもらうのは延期しようかなあと思って電話をすると、来てもらってかまわないと言われるので行かせてもらうことにした。すでに卵は条件つきで移動制限は解除になっているらしかったが、自主的にまだ出荷は止めていると言われた。かなりの被害を受けていないか心配だったが、今、成鶏は130羽ほどしかいないし、強制換羽(1年、卵を産むと産み疲れをするので、エサをかなり減らせて、卵を産むことを休ませること)をした後だから、あまり卵は産んでいないので、そんなに大きな被害は受けていないらしかった。出荷制限の期間の卵は何割か補償されるらしい。


 
 ご家族は増えていたが、Oさんの農場風景は2年前とあまり変わっていないようだった。2年も見ないと、田んぼ風景や規模が歴然と変わっている人もあるが、Oさんの場合はあまり、規模拡大とかに興味はなさそうだった。野菜も自給用程度で、作付面積が広がっているわけではなかったので、「農業に入れ込んでいる」というふうには見えなかった。でも家族が増えているので、今までより収入を上げる必要がある。アルバイトも考えていると話されていたので、近くにバイト先があるなら、それもいいのではと思った。農業収入では、卵でも野菜でも、アルバイト代より多く稼げるとは思えなかったから。


 
 とにかく、この地に住み続けることが、なによりも大切だと思った。理想は農業であろうが、生活をまわしていくためには、農業だけにこだわることができない場合もある。



 Oさんは確かまだ40才前後である。あくせく農業をするよりも、生活の中に農業もあるというスタイルの田舎暮らしを継続した方がいいと思う。
 
 ボクはこの地におられた前任者(同じくニワトリを飼っておられた)も知っているが、この地の水があわなかったのか、お隣の広島県に移られた。その数年後に亡くなられたらしい。登山家でまだ50代後半だったのに・・・。


 
 Oさんは前任者から、この地を購入して入られた。前任者が作られた鳥小屋も、一部はそのまま継続して使われている。



 かなり過疎地であるし、アルバイトに出るにしても、ちょっと不便な土地である。でも、ニワトリを飼い続けることと、農的生活を続ける事だけは、どんなことがあっても、お互いに踏みとどまろうと話した。



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川上町 Kさんを訪問 (2)

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 Kさんとお会いするのは3年ぶりである。2年前に川上町を訪問した時には、お留守だったが、その時にはすでにハウス2棟と作業小屋が建てられていた。

 

 今日は、二つ並んだ右のハウスの中でミニトマトの片付けをされていた。左のハウスでは、ミズナやコマツナの葉野菜が育っていた。スレートの作業小屋の前に育苗ハウスもあった。

 自分と比較すると、他の人はすべて自分より農業能力の高い人が多いのであるが、何でもやってのけれる人なんだなあと思った。


(1)いきなりハウス2棟でも作りまわすことができている。

(2)ちょっと人の手を借りるくらいで、この大型ハウスを自分で建てている。

(3)蛾の予防灯やハウス内のファンは自分で取り付けている。

(4)事務系と聞いていたのに、ショベルカーも使われる。

(5)これだけの設備投資をする元手がある。


 もっと驚いたことは、

(1)吉備高原都市に家を購入されたこと

(2)その吉備高原都市から片道50キロをかけて、当地まで通い農業をされていること。


 奥さんに病気があり、倉敷の病院に通うには当地より吉備高原都市の方が便利がよいし、奥さんの身体のためにもよいということで移られた。

 インターネットはされるんですかと尋ねたら、たいていここにいるし、家に帰ってインターネットなどしていたら、奥さんと「話す間がない」ということで、夜はもっぱら奥さんとの会話を楽しまれているらしい。やさしい人なんだなあと思った。実際は川上町に住んで、農業も手伝って欲しいというのがやまやまだと思うが、そういうことは一言も言われなかった。

 作業小屋でいろいろ話を聞かせてもらったが、その中で記憶に残った言葉が二つある。

(1)小さい時から「ものづくり」が好きだった。

(2)農業を始めてから、かなり投資してきたが、「ゆっくり回収できたらよい」。

 何か、懐の深さのようなものを感じた。自分だったら、これだけ、ハウスや作業小屋や家に投資できるのなら、なにもせずにじっとして、少しずつ貯金を取り崩しながら、残りの人生を過ごすだろうと思う。まだ54~55才だから、そんなに早く早期引退することもないが、この年齢で、これだけの投資をして、それでも徐々に回収できるだろうと考えれるところが、肉体的にも精神的にも若々しいのだろう。自分ならちょっとびびる。不確かな未来のことに投資する余裕も余力もない・・・。 

 
 川上町にはKさんの他に、Oさんと、Hさんがおられる。我が家から100キロ近くあり、車で2時間半ほどかかるので、1泊2日の日程で、たいていHさんの家に泊まらせてもらっています。明日はOさんのことを書かせてもらいます。

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川上町 Kさんを訪問 (1)

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 Kさんを知ったのは新聞記事からだった。

 『全国でも珍しい「定年退職者就農システム」の構築が進む川上町で、埼玉県内の元会社員が、第1号として就農することが決まった。既に単身で訪れ、3月には家族も呼び寄せ、有機無農薬農業に取り組む。

 春日部市在住のKさん(52)。大手コピー機メーカーに30年以上勤めたが、「自然の中で暮らしたい」と、50才で早期退職。東京の就農準備校に通い、東北から九州まで就農地を検討した。

 県を通して川上町を知り、昨年九月の同システム推進委員会主催の農業体験ツアーに家族で参加し決断した。推進委のあっせんで同町高山に20アール足らずの農地を確保。今月7日には同町地頭に住所移転した。

 有機無農薬栽培を目指し、同町の有機グループに参加。その応援で草取りなど農地を整備中。「トマト、ナス、シュンギクなどいろんな野菜を作ってみたい。早く軌道に乗せ、将来は50アールほどやりたい」と意欲を見せている。

 推進委は、新年度にも地元受け入れ組織を立ち上げ、就農マニュアルを作る。仲山潔俊推進委会長は「第1号が決まり、うれしい。土地の貸し借りは信頼関係が一番で、今後仲介組織をしっかりさせ、焦らず確実に事業を進めたい」と話している。』

 

 定年退職者就農システム→「定年退職者の就農を進め、農地の荒廃や農村の崩壊を防ぐ。年金や退職金があり、収入が少なくても農業を担う余地があると期待されている。高梁農業改良普及センターや川上町などでつくる推進委員会が、同町で構築を進めている。」

 

 そのKさんに話を聞きたくて、車で2時間半ほどかけて、さっそく訪ねた。Kさんは、子供の頃に、母親の実家で農業を目にしたことがある程度で、農業とは無縁の生活だった。40代になったころから、将来は、自然の中で、自然と共存した生活を送りたいと思うようになり、どうせするのなら、まだ元気な今からスタートしようと、10年後の定年を待たず早期退職した。そして、農水省の外郭団体であり、東京にもあった「就農準備校」に通い始めた。就農準備校は、夜間(6時半~9時)で、1コース2万円ほどで、「作物全般コース」、「経営コース」、「農業実践コース」等があり、最初は作物全般コースへ入った。その後、経営コース、農業実践コースと進んだが、農業実践コースは、5ヶ月間、月に1回、実際に農家で実技指導を受けることになっていたが、同じ受けるなら、3年ほど前から「ワンパック野菜」を購入していた、同じ埼玉のNさんの元で、指導を受けたいと思い、その後Nさんの元に、週に4日ほど、片道20キロ、1年半ほど通われた。そのかたわら、北は宮城県から、南は九州まで、2年半で10万3千キロを走破して、就農地を探してまわった。寝泊りは車の中も多かったらしい。最終的に、岡山で就農しようと決めたのは、気候が温暖で、地震が少なく、あまり寒くなく、雪がつもらず、台風の被害も少ないと思ったからだったと言われる。

 岡山で農業をスタートしようと決めてから、以前通っていた東京の就農準備校の「就農対策部長」に電話して相談すると、岡山出身の農水省の方を紹介されて、その紹介のまた紹介で、高梁普及センターのMさんと出会い、Mさんの紹介で、現在地、川上町を見て回った。
 川上町の農業体験ツアーに、家族で参加してから、家族の同意も得て、最終的に当地に決めたと言われる。その後、借家が見つかったのは11月、借りれる田んぼが見つかったのは12月だったらしい。借家や田んぼは、町の産業振興課の方たちが、個人のネットワーク(友人、知人)の中で探してくださったらしい。こういうことは、個人の力では限界があり、行政の後押しがあったから、借家や田んぼが見つかったと話しておられた。面積も30アール以上確保できないと、「認定農業者」と認められないということだったが、それ以外の面積でも特区申請で可能になったらしい。

 
 
Kさんは、川上町の有機無農薬の営農組合に入ることにより、この農業形態を始めた人が最も頭を悩ます「販路」に関して、すでにこの組合の販路は安定しているのだから、1~2年の内に、今のボクの純売上金額なんか、並ぶまもなく、追い抜いてしまうだろう。認証マークのある営農組合(団体)の販売力や生産力には、たった一人でする個人の販売力や生産力など、及びもつかない。ただ、営農組合となると、肥料の統一の問題、誰が何を作るか野菜の種類の問題、個人の技術力の差、外観の良し悪しの基準設定(出荷可能かどうか)の問題等も出てくるように思う。


 至れり尽せりのように見えるが、Kさんがここまで来る道のりは大変だったと思う。ここまでにかなりのエネルギーを費やしているのに、まだ農業のスタート地点に立ったばかり。そして、こうまでして、県外(都会)から就農希望者を募集しないと、地元では農業を継ぐ人がいなくて、田畑が荒廃するばかり・・・。圃場整備もされ、畑の潅漑設備も整備されて、一昔前とは比べものにならないくらい、農業がやりやすい状態に整備されているにもかかわらず、これに逆行するように、ますます誰も農業をしなくなったという現実・・・。どこかおかしい・・・。誰にも先見の明がなかった。これでは、圃場整備や潅漑設備が「無駄」になっている。土木建設、水道業者が儲けただけである。結局、個人の負担となって返ってきたのである。
 
  圃場整備された田んぼや潅漑設備を、このまま遺棄するのはもったいないので、農業をしたい人を募集する。地元(田舎)にはいないので、都会に募集する。

 岡山ニューファーマーズ制度も、高齢化や後継者不足で崩壊しかけている産地を維持するために、行政や農協が支援して、都会からの新規就農者を募集するという形である。彼らの大多数が成功し、そのシステムに対して「疑問」ではなく「恩恵」を感じるのであれば、同じ農業人としてうれしく思う。しかし、失敗(挫折)した人は表に出ることはないし、そういう人たちの話を聞ける機会もない。
 そして、農業の現場においては、1年1年が瀬戸際なので、現在の成功者が5年後も成功者であるかどうかはわからない。

(2004年、2月)


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農業を主体としない田舎暮らし

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 「毎度!頑張ってますね。大阪のタクシー運転手の手取りが12~13万/月ということです。稼ぐ人はもっと稼ぐでしょうが、そのクラスが多いとの事です。また一般的パート、アルバイトは700円台/時、男も平等だと。
水田さんの10万/月という水準は、食費タダの田舎では裕福?というレベルでは?
 都会暮らしの人は、あえてリタイヤした方が・・・もはや、そんな時代に来てます。」


 友人から、「ブログのネタ」という上記のようなメールが入った。すぐにイメージが沸騰したので、今日はこのテーマについて書くことにした。数日前にも別の友人が同じくタクシードライバーの収入のことを話していたので、テレビで放映していたのだろうか。


 タクシードライバーというのは、ドラマになったり、映画になったり、多分最も端的に世相を反映する職業なのかも知れない。


 月、10万、自分は平均すると、年間にそんなに稼いではいない。でもそんなに困ってもいない。何度も書いているので、このブログの訪問者さんはすでにご存知と思うが、自分は、ライフラインの支払いと、野菜以外の日用品の支出しか出費をしない。「ない袖はふれない」で、ずっとそうしてきた。大きな出費は「先送り、先送り」を限界までしている。

 
 そして、自分自身に関しては、酒、タバコ等は一切やらず、小遣いと言えば散髪代だけ。そんな生活をしていたらストレスがたまってしかたがないんじゃないかと思われたら、それほどでもない。酒は身体に合わなかったので、昔から一滴も飲まなかったが、タバコは十代の頃からヘビースモーカーだった。農業を始める1年半ほど前に、肺炎がきっかけで運良くタバコは止められたが、長年の喫煙で今頃になって、変な咳が夜中によく出る。不徳の致す所だが仕方がない。


 毎日、田んぼの往復だから、カネを使う機会はそれほど多くはない。けれど、この農閑期は、かなり頻繁に「突撃おじゃま虫」スタイルの取材に出かけているので、その費用がかかる。でも県外への遠出はしない。ちょっと遠いと1泊2日になるが、訪問先の友人宅に泊まらせてもらう。だから、ほんの少しの手土産とガソリン代だけ。


 長年を費やして、カネをできるだけ使わない、ストレスにならない生活を工夫してきた。一朝一夕にはいかない。

 
 
 もうこの年になると、年齢制限にひっかかって、時間給700~800円でも、使ってもらえる所はごく少ない。だから、農業にしがみついている必要がある。「あんた、配偶者がけっこう稼いでくるんじゃから、のん気にやっていけるがな・・・」と思われるとしたら、それは否です。それぞれが稼いだ収入はそれぞれ稼いだ人のものです。我が家では「収入をどんぶり勘定」にはしていない。両親もそうだった。とにかく、世帯主なんだから、最低限の金額は稼がなくては・・・。


 自分の場合、大きな出費は「知らぬ存ぜぬ」で押し通しているが、上述のライフラインの支払いと、野菜以外の日用品の購入は自分の支出項目である。確かに、知らぬ存ぜぬで押し通せる分、他の人にくらべたら、相当に恵まれているが、農業収入では、

(1)ライフラインと日用品の支出

(2)散髪代

(3)冠婚葬祭費(これもかなり負担)

(4)農閑期の取材費

 これら4項目を賄おうと思えば、農繁期に、蟻さんのように、せっせせっせと収入活動に精を出す必要がある。


 でも農業収入は知れている。ベースアップなど期待できない。現状維持ができればそれで上出来であるが、簡単に現状維持はできない。あくせく働く必要があるが、もうそんなに若くない。精神年齢は18才と思っても、現実はもうすぐ54才になる。70才までに後16年しかない。だから好きなことをしようと思っても、経済上の理由で、70才くらいまで現役で稼ぎ続けなければならない現状である。でもあくせくしすぎて、病気にでもなったら、かえって損。


 ここらあたりをヤジロベエのようにうまくバランスを取りながら行動する必要がある。

(1)残された寿命

(2)経済上の問題

(3)3年後はルポライターに転身しようという目標

 ちょい悪オヤジ(ぼっちゃん)になって、(3)に視線を定めている。そうするためには、今どのような行動をしたらよいか、それをいつも頭において生活している。


 300万稼いでいた人が100万しか稼げなくなったら、それは困るだろうが、今まで100万しか稼いでいなかったものが、70~80万になったからといって、そんなに大騒ぎにはならない。常日頃から、「小さな生活」をしておくということは、大切な生き方だと思う。


 カネがいつも足らないというのは、作文を書く上で、武器になることもある。その人の置かれた立場や背景によって、その人なりの「テーマ」がある。自分の場合のそれは、

(1)ひとつひとつを取り上げて追求したいライフラインの攻防。

(2)土から離された人間の、土に触れることができなくなったことによる人間疎外。

(3)土から離されてケージに閉じ込められたニワトリ、土(農業)から離されてサラリーマンしか選択できなくなった人間。


 特に(1)については、下水道のない田舎に住み、携帯電話は持たず固定電話にして、テレビと新聞はどちらか一つにする、あるいはパソコンだけにする。上水道は高いので、天然の山水が利用できる所を探す(我が家では山水も利用できる)。お風呂はできれば薪でわかす。下肥は田んぼに施す(我が家は業者に依頼。その方がトータルで安くつくシステムの中にすでに我が家は取り込まれている)。ガス代、冬の灯油代が高くつくので要チェック。火災保険料は必要最低限にして、生命保険料は解約する。国民年金保険料は高くて払えない(自分は仕方なく払っている。負担感が強い)。冠婚葬祭費は、過疎の山村集落ではそんなにかからないはず(自分の住んでいる地域ではこれに結構かかる)。車は最低限の農業用軽四1台にする。車で遠出をしない。もちろん移り住むなら借地借家。

 
 疲れてしまった都会人に、田舎への脱出、逃亡、そのための方法を提示していきたい。「農業を主体にしなくても過ごせる田舎暮らし」というテーマで。

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営業の方法

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 営業にマニュアルなどない。自分の場合、


(1)最初は、軽四で「引き売り」しながら、買ってくれたお客に、野菜会員募集のパンフレットを渡した。30分以内でいける近くの団地を中心に、この軽四引き売りを2年半ほどした。


(2)友人、知人、親戚等に、紹介を依頼した。


(3)朝市や、各種イベントに、積極的に出かけて、野菜を買ってくれたお客にパンフレットを渡す。


(4)各種ミニコミ、あるいは新聞、行政等で、うまく、自己紹介をしてもらう。


(5)地場にとらわれず、県外の宅配も並行して考える。


(6)5000円ほどの金額で、県内、県外を問わず、広告を年に1~2回出してみる。リビング新聞等に出した。


(7)止められた顧客は、1度は、ワンパックに興味を示してくれた客だから、住所、氏名、電話番号を控えておく。数年後もう一度、案内状を出してもよいし、月に2回でなくても、月に1回、年に6回、あるいは年に3回、もしくは不定期の顧客になってもらうのもよい。イベント案内を出してもよい。この項目は、後になって自分が感じた反省点。


(8)一箇所、業務用の壁を突破して(風穴を開けて)、そこに、パンフレットなど置かせてもらう。


(9)美容院などに、パンフレットを置かせてもらう 


 とにかく、営業は何でもありです。手本も王道もありません。自分は最大でも40軒ほどの顧客(月に2回配達、もしくは発送)しか確保できなかったので、えらそうなことは何も言えませんが、これらが参考になれば・・・。


 
 職業別電話帳を見て、神戸、大阪、京都のイタリア料理店に電話をかけまくったのは、個人客が30軒を切るような状態になった時だった。家族構成の変化等もあり、個人客に5年以上継続して買い続けてもらうことは難しいように思う。だから常に、営業をし続けている必要がある。口コミの紹介もかなりしてもらえるが、ワンパックの場合、どう一定数の顧客を維持していくかが難しい。


 
 この時にワンパックから他の農業形態への変更も視野に入れたが、自分の場合それが、農業本体に向かうことはなかった。つまり、特定の専門作物を持つとか、ハウスを作り集約栽培をするとかに向かうことはなかった。そういう栽培方法は、「自分には不向き」ということがわかっていたのだろう。不向きでなかったら、農業歴7~8年目を境に変更していたと思う。


 
 そういうことが潜在意識下にあって、ワンパック以外に収入になる道も模索してきた。イベント収入、ハーブ、ドラム缶炭焼き等であるが、ハーブだけが残った。


 
 今はもう引き売りする元気は残っていない。引き売りは「声かけの」エネルギーがかなりいるので、1日2~3時間が限度だった。売るための時間はかかるし、売れ残りのロスも出るし、雨の日はできないし、冬場は寒いし、よく売れても6~8千円ほどだった。でも、この引き売りで、最初のワンパックの顧客30軒ほどを見つけることができた。




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備前市のKさんを訪問 (2)

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 家のすぐ上に池がある。水量の豊かな池で、Kさんが来られてからこっち、日照りが続いても、池の水は枯れたことがないそうです。
 かなり急勾配な土手ですが、この土手の草刈はKさんがされていて、右の画像の池の下に、刈った土手草が重ねてあります。風雨にさらして、半年~1年後に、田んぼに堆肥として入れるそうです。池の手前の田んぼには麦が蒔かれていました。


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  左の画像は、頼まれてKさんが管理しているブドウ畑、真ん中の画像は麦(上の画像とは品種の違う麦)、右の画像は、なめこ菌やしいたけ菌を打ちこんでいます。

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 左の画像は池の上からの画像で、真ん中の画像は池の下の道からの画像です。右の画像は冬越しのタカナです。今は野菜が少ない時期です。


 
 姫路から1時間もかからないという便利のよさ。海沿いの道を走るので、海が楽しめるし、海産物の購入や、海水浴、魚釣り、日生諸島に渡ることもできる。

 
 都会の人を対象に農業体験塾のようなイベントを企画してあげたら、とても喜ばれるのではと話した。20羽ほどのニワトリ、簡易方式の炭焼き、田植えや稲刈りの縁農、山菜などの野草、ハーブティ用ハーブ、多種類の野菜に多種類の果樹。こんな複合的な農業で、背景には美しいロケーションがある。何のお相手をしなくても、都会から来訪された人が、1人、周囲の山道を散策したり、田んぼや畑や果樹園の風景を楽しんだり、鳥小屋から飛び出したニワトリと、ひとしきりたわむれたりすれば、時の過ぎるのも忘れて3~4時間が過ぎていくだろう。そして、水汲みとか、薪での風呂焚きもとても喜ばれるだろう。七輪で炭をおこすのも楽しいし、その上でヤカンを沸騰させ、家のまわりで摘んだハーブをヤカンに入れて即席のハーブティやゆで卵も感動されるだろう。

 それらのことが、あまり時間や手間をかけずにできそうなセッティングがすでにできあがっているので、Kさん夫婦にその機運が高まれば、日帰り、もしくは、一泊二日の農業体験や農の風景を楽しむ会がいつでも企画できそうに思った。

 自宅周辺に豊かな農の空間を形づくられていることが、来訪者の癒しになっていると思う。


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備前市のKさんを訪問 (1)

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  今日は、お隣の備前市にお住まいのKさんの田んぼ訪問をさせてもらった。以前訪問させてもらった時も思ったが、ここはロケーションがとてもよい場所である。神戸在住のKさんが、この地に移り住まわれたのは、1年半ほど前の7月である。郵便局に34年間勤めて退職された57才の時である。この地を購入されたのは、それより5年ほど前で、それまでは週末だけの通い農業をされていたらしい。

 
Kさんを知ったのは、有機農業の世界ではちょっと有名な、兵庫県、和田山町にお住まいの大森昌也さんを通してだった。


 家から15~20分ほどしかかからないが、それまでこの地域の道を通ることは少なかった。だから、このあたりの集落のことも全く知らなかった。でも始めてこの地を訪問した時、こんなに景色のいいところもあるんだなあと思った。多分Kさんも、この地を始めて訪問した時に、風景のすばらしさに感動されたのだろう。


 Kさんは、形としては定年帰農のようなスタイルであるが、それまで神戸で20年間ほど家庭菜園をしてこられたので、たいていの野菜の育て方は知っておられる。若い頃から着々と準備して、将来は田舎暮らしをしようと計画されていたらしい。20羽ほどのニワトリ、ドラム缶を利用した簡易な炭焼き、シイタケ、果樹、大豆、黒豆、小豆、アワ、キビ、麦、稲などの雑穀。
 話される言葉やニワトリや炭焼き場をみると、農業が大好きなんだなあとわかる。


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 上の画像は、Kさん手作りの鳥小屋である。果樹園の中に鳥小屋があり、果樹園のまわりは金網で囲んで遊び場にしている。右の画像は、その金網を飛び越えて下界に飛び出したニワトリ。こういう牧歌的な風景を都会の人が見たら喜ぶだろうなあと思う。気持ちのなごむ風景である。あまり器用でないと話されていたが、ニワトリが喜んでいるような鳥小屋である。

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 今日は炭焼きをされていた。すぐに左の画像を撮らせてもらった。真ん中の画像は、正面図で、右の画像は側面図である。この小屋の中に左のドラム缶窯がある。露天で焼くより屋根があると、天候に関係なくよい炭が焼ける。これも手作りと思いきや、これは大工さんだった。こんな炭焼き場があると、七輪の炭で茹でる「ゆで卵」と「ハーブティ」をセットにしたイベントができると思う。
 鳥小屋といい、炭焼き小屋といい、農の風景がすばらしい。


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 大きな木の根元に井戸がある。この井戸水はお風呂や洗濯に利用し、右のペットボトルで受けている水を蒸留して、飲み水などに使われているらしい。右の画像は山の中である。通常はペットボトルでなく大きな容器で受けるらしい。山からの清水である。手間はそれなりにかかるらしいが、水代はかからない。


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     左の画像は、風呂焚き窯。薪でお風呂を沸かしている。来訪されたお客さんがとても気に入り、皆さん、ひとしきり焚かれるらしい。火は人の心を癒す。真ん中の画像は囲炉裏。ここで毎晩、焼いた炭を使って暖をとったり夕食をされる。その天井が右の画像。すばらしい。かなり昔の建造物であることが、天井の藁屋根でわかる。始めて訪問させてもらった時は、この天井に感動した。


 続きは明日にさせて頂きます。
 
 なお、Kさんは、ブログをされています。右のリンク欄にリンクさせてもらいました。「雑穀を中心にした有機農業」というブログです。以前の訪問の時も見せてもらっていたのですが、その時はそれがブログであることを知りませんでした。
 
Kさんのブログはとてもシンプルで見やすく、週に2~3回の更新をすでに1年半も続けられており、内容が充実していると思います。




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入植者と故郷

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 田んぼ訪問をさせてもらっている農業者の大半は、県外から入植されてきた人たちである。彼らは皆、その地に根を張ろうとがんばってきた。それに比べ、元々の農家である自分は、そんな努力を一つもする必要がなかった。しかし彼らは、ボクが元々の農家であることを一度も口にせず、付き合ってくれた。自分も、彼らがずっと昔からそこに住んでいて、そこで農業をしていると思った・・・それくらい短期間で根を生やしていたのだ。

 彼らから見たら、ボクの立場がものすごく恵まれて見えたかも知れない。逆にボクは、彼らが、人知れず、それぞれの地に根をはやす努力を、日夜してきたのだということを、ほとんど気づかずにきた。



 7年ほど前に、岡山ニューファーマーズ(新規就農)支援制度ができてからは、いろんな農業形態の入植者が増えたが、それ以前の入植者は、ほとんどといってよいくらい、「有機農業系」の入植者だった。有機農業は農業をするためにというよりも、ひとつの「生き方」としての田舎移住だった。


 
 自分が農業を始めた頃、すでに、元々の農家の跡取りは、ほとんど農業を継がなくなり、継いでいるのは、大規模酪農家だったり、大きな施設園芸だったりしたので、めざす方向も違うし、人数も少なかったりで、ほとんど顔を合わすことも、話す機会もなかった。それくらい農業がすでに見捨てられていた。
 農業ジャンルが同じだと、一度訪ねて見たいと思うし、参考になったり、勉強になったり、話をしても通じるものが出てくる。その有機農業系の入植者たちで作っていた「くもの会」に誘われて、入ることになった。メンバーは6人だったので、自分を入れて7人になった。月に1度の例会があり、夜6時~9時頃までの3時間にわたって、よもやま話に花をさかせるのだった。最初はとても新鮮だった。しかし、その喫茶店が車で1時間もかかったことなどから、次第に足が遠のいた。例会は行かなくなったが、彼らと疎遠になったわけではなく、いつも気にかかる存在であった。自分より数年早く、農業を始められた方たちであり、年回りも近かったので、忘れた頃にまた訪ねていっても、いつも身近に感じた。


 
 その後、メンバーの中で、行かなくなった人もいるし、新メンバーも加わったりで、まだ続けている。他の地域でも、入植者たちは、このようなネットワークを持ち、よもやま話をしていることだろう。異郷の地で、同じような志を持つ仲間の存在は、とても心強いと思う。


 
 自分も若い時、一時期、家を離れ、異郷の地、大都会で働いていた時期があった。しかし、会社でもふわふわしていたし、住んでいた所も「仮の宿」のような感じで、ふわふわしていた。自分の居場所は、会社にも住居地にも築くことはできなかった。いずれ、会社はやめるだろう、住居地も引き払って、故郷の自分の家に帰るだろうと感じていた。
 
 
 
都会にいた時は、会社でも住居地でも、足が地面から離れて、空を飛んでいるようだった。この感覚は、都会にいる間ずっと続いた。故郷に帰ってから、また新たな会社勤めを何ヶ所かしたが、やっぱり、会社には、自分の居場所を作ることができなかった。農業を始めて1年過ぎたあたりから、やっと、足が地についた感じがした。それまで37年もかかった。


 
 いつも、ふわふわ、ふわふわしていた自分は、農業を始めてからやっと落ちつくことができたが、生まれながらにして、「故郷」を背負っていたので、自分の故郷に関しては、考える余地も必要もなかった。


 
 今、自分が付き合っている仲間たちは、自分とは逆に、それぞれの入植地で、それぞれの故郷作りをしているのだろうか。それとも、しょせん人生も家も住む場所も「仮の宿」として、そんなことに、こだわっていないのだろうか。農業はそんなことを顧みる暇もないくらい過激な職業と思うが、そういうことは尋ねたこともないし、尋ねることでもない。それぞれの人が、意識の中で持っていたり、探そうとしているものだから。


 
 農業という職業は、大地に根をおろさないとできない職業のせいか、不思議と、付き合っていて、入植者という感じがしないし、そんなことに全く気づかされないくらい、彼らはそれぞれの土地の風景にとけこんで見える。


 
 
新しい地で、違和感も多いと思う。元々の地域の農家である自分も、地域でしばしば、違和感を感じるのだから、入植者だと、なおさらと思う。ボクは、地域でも人間でも、半分の人は、生き方や考え方が違うと思っているし、会話が続くのは、半分くらいと思っている。地域(集落)で農業などする人は、現役世代では、皆無に近くなっているのだから、時おり、異邦人のような感覚になることもある。でもしょせん、生活も考え方も違うんだからと、自分は自分の道を進んでいる。農業という職業は、自己を強くしてくれている。


 
 地域にとけこむか、とけこめないかは、各々の性格による。自分はとけこめていない。しかし、地域の行事などには、欠かさず出ている。とけこめないと感じるのは、大きな事業が集落に持ち上がった時や、選挙の時である。集落推薦等があっても、応援をしたり、事務所に顔を出したり、当選祝いに公会堂へ行ったりはしない。自分の考えに近いと思える人なら応援するが、ほとんどが、その地域、その地域を背負って出てきている人ばかりである。地域の道を作ったり、何か事業(カネ)を取って来る力のある人が適任とされる。


 選挙の期間中は、とても違和感が伴う。早く終わってくれと思う。しかし、こんなことで口論もしたくないので、知らん顔をしておく。しばらくして、選挙のほとぼりがさめたら、また普通につきあっている。これは簡単にできることではない。自分の場合、十数年の歳月をかけてやっと、こういう態度が取れるようになった。40代の時はまだできなかった。


 
 ここらあたりでは、まだ集落として機能しているが、ちょっと県北にいくと、すでに、集落の行事が維持できないくらい、若い人がいなくなり、集落そのものも壊れかかっている。そういう所なら、周囲に認められることに、そんなに時間はかからないと思う。もう10年もすれば、この国の山間地の集落は崩壊の危機に立つのではなかろうか。たった1軒になって、その地でがんばるのもしんどいと思う。考えようによっては、地域でまだ、高齢のおじいさん、おばあさんが、がんばってくれているのは、入植者にとっても、反面、とてもありがたいことであると思う。そういうことは渦中にいる時はわからなくて、過ぎてからわかるのかも知れないが・・・。


 
 そのうち、あなたの住んでいる地域の、農業をしてこなかった農家の跡取りが「教えて下さい」と言って、あなたを訪ねてくるのではないでしょうか。

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葉タバコの思い出

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  池のすぐ上の山の中ほどあたりに、木が生えていない箇所があります(左の画像参照)が、45年ほど前、ここで葉タバコを作っていました。植え付け水は、池の水を汲んで上がるのですが、これがかなり重労働でした。面積は8アールほどで、周囲の木も当時はそれほど高くはなく、南向きの斜面なので、日当たりも良かったです。
 ここは、終戦後、父と父の弟が開墾したらしいのですが、ボクが中学校へ上がる頃には放棄されてしまいました。トラクタも使えず、すべて手作業だったからです。クワやヨツメで等高線状に畝立てをしていました。葉タバコを作らない年(輪作のため)は、サツマイモを作っていましたが、山土のサツマイモはおいしかったです。
 今は1年に1度だけ、草刈をしています。急な斜面であり、8アールほどあるので、草刈も大変ですが、草を刈っておけば、ワラビが生えます。この山の斜面に腰を下ろすと、45年前にすぐにタイムスリップできますが、今は自分一人。この山の斜面で幾多の汗と会話が交わされたか、20年後には多分、誰一人知る人はいなくなるんだと思います。

 
 天葉(てんぱ)、天葉下(てんぱした)、本葉(ほんぱ)、中葉(ちゅうは)、土葉(どは)・・・これは「葉タバコ」の葉の呼び名である。ボクが子供の頃には、集落のほぼ4分の1にあたる10軒ほどが、葉タバコを栽培していた。

 
 今、その葉タバコ栽培をほとんど見かけなくなった。葉タバコは、高さが1メートル50センチを超える大型になるので、車で走っていても、たいてい目に付くが、見かけない。

 県北の友人の家に遊びに行く道すがら、その葉タバコを目にする機会が1度だけある。その時は、たいてい車を止めて、葉タバコをじっと見る。葉タバコはそれくらい、自分の思い出深い作物である。自分の少年時代の周囲は、「手植え」、「手刈り」、「ムシロで天日乾燥」の稲作と、葉タバコで、まわっていた。葉タバコをずっと見続けてきて、葉タバコほど、生産する上で厳しくて、重労働の作物はないだろうと、子供心に思っていた。

 3月上旬頃、縦2メートル、横8メートル、高さ50センチほどの、周囲を稲ワラで編んだ、かなり大きな踏み込み温床(落ち葉、笹、山の下草、飼っていた牛糞、人糞、などを、交互にサンドイッチ状にして、長靴でよく踏み込みし、発酵熱を出す)を、家族総出で作り、それに、四角のヘギ(ごく薄い木の板)を2000個以上並べ(今でいう5センチポットくらいのサイズ)、その中に「肥え土」を入れ、葉タバコ苗を1本1本植えていく。

 葉タバコ苗は、2月上旬頃、10軒ほどで共同して種を蒔き、20日ほど育てた苗を各戸で分け、5センチサイズのヘギポットに「鉢上げ」して、定植するまでの3週間余り、それぞれの家で管理するわけである。家の前のカドに作られた温床に、整然と並べられたヘギポットの苗を、好むと好まざるにかかわらず、3月という月は、毎日、目にするようになる。
 温床にかぶせられたビニールトンネルを1日1回開閉しての水やり、それと日々の温度管理、夕暮れには「コモ掛け」して保温、朝、太陽があたり出すど「コモはずし」と、それは、いっときの気も抜けない大変な作業と、子供心にも思えた。そんなに手をかけても、苗の出来具合は、かなりでこぼこ。大きな温床なので、どの場所も均一に発酵熱を出させるのはむずかしく、よく熱の出た場所は一回り大きく、熱のあまり出なかった場所は、一回り小さいという具合だった。それと、温床の中心部へいくほど苗が大きく、温床の端部へいけばいくほど、苗も比例して小さいというのも顕著に見て取れた。必要数の2割ほどの苗は多めに作り、これらの不手際に対処していたようである。
 ジョロの口先を、苗が小さいうちは上向きにして、苗が少し大きくなると下向きに変える。そのちょっとした、苗に対する母の気遣いも目にして、自分の記憶に残っている。
 ヘギポット苗を1本1本、本圃(本田)へ定植する作業も大変だった。苗を運ぶ人、植える人、それに植付け水を与える人、大家族でも、子供まで動員しての、一家総出の作業だった。植付け水をした後、1本1本、三角帽子(油紙)をかぶせていく作業も大変だったし、それまでに三角帽子を準備しておく作業も大変だった。晩霜の恐れが無くなる4月末頃まで、その三角帽子をかぶせておき、その後1本1本撤去して、元通り、納屋に保存しておく。
 
 三角帽子を撤去するころから、葉タバコは爆発的な成長力を見せてくる。5月の1ヶ月間で50センチを超え、収穫期の6月下旬には、大人の身長くらいの高さになる。6月に入ると花芽がつくが、花を咲かせると葉に栄養がいかなくなるので、先っぽの花芽を切り、1枚の葉ごとに出てくる太いわき芽をかぐ作業もこの時期の重要な作業だった。この時期にはいつも母の手が「真っ黒」になっていた。葉タバコは確か「ナス科」である。ナス科野菜には、ナスビ、ピーマン、トマト、ジャガイモの4種類があるが、そういえば、ナスビ、トマト、ジャガイモの葉は、タバコの葉に何となく「葉ざわり」が似ている。
 ジャガイモはしないが、ナスビ、ピーマン、トマトは、わき芽かきの作業がある。ナスビ(44本)、ピーマン(22本)を合わせて70本ほどしか定植していないが、たったこれだけのわき芽かきの作業をしただけでも、これらの茎から出る樹液で、手が黒くなる。
 
 
 
 6月下旬以降は収穫の季節である。冒頭に書いた天葉(てんぱ)、天葉下(てんぱした)、本葉(ほんぱ)、中葉(ちゅうは)、土葉(どは)の、それぞれの収穫作業が始まる。収穫してきた大きな葉(テニスのラケットをもう少し細長くしたような葉)を、1枚1枚、縄で編んだしめ縄に「はさげて」いく。はさげる作業は兄弟間での競争だった。「手早や」かどうかが、この作業でわかるのだった。姉は後年、牛窓町の「大百姓」に嫁いだが、家族の誰よりも、このはさげる作業が早かった。

 はさげた葉タバコを乾燥させるために、タバコ農家共同の乾燥庫へ収納し、外から割り木をくべて燃やす。燃やす作業(乾燥させる作業)は昼夜、寝ずの管理だった。タバコ農家が交代制で当番の日を決めていた。乾燥庫の前に「縁台」が置かれていて、我が家が当番の日には、その乾燥場へよく遊びに行った。母はいつも縁台の上で横になり、居眠りをしていた。そして、突然目覚めると、温度が・・・と言って、温度計を見に行った。当番の日は、農作業から解放される、つかの間の休息時間だったのかも知れない。夜の当番の日は父が出ていた。乾燥場のすぐそばに、大きな柿の木があり、その柿の木に止まった、にいにいぜみの騒がしい鳴き声とともに、その情景がつい先日のように思い出される。

 乾燥が終わると、各家に持ち帰った。タバコ農家は、ほとんどの家の屋根裏部屋(2階)が、タバコの「葉より」の部屋だった。7月の最も暑い月に、窓も開けずに(窓を開けて外気に触れさせると、乾燥させた葉が湿るらしかった)下着姿で、葉タバコの乾燥具合を1枚1枚チェックし、黒っぽくなっている部分はハサミで取り除く。まるで「蒸し風呂」のような部屋だったが、ここで両親と祖母が「葉より」作業をしていた。祖父は、細かい作業は苦手だったようである。この作業に1ヶ月近くを費やしていたように記憶している。この時期には、田植えや田植え後の植え次ぎ、田草とりもあるので、合間、合間の作業だったのだろう。

 8月、やっと出荷の季節を迎える。それまでの苦労が評価される、「出荷物の検査」というのがあって、それぞれ等級が決められて、等級によって単価が違ってくる。だから農家は、その結果に一喜一憂する。やはり、相手のよかったのが気に入らない人もいるらしく、どうじゃった、こうじゃった・・・、あの人がああ言った、こう言ったと、夕飯の時に話しているのを、この時期にはよく耳にした。

これが、葉タバコの一連の行程である。子供心にも、葉タバコ作りの苦労が、見ていて、身にしみてわかるのだった。だからかも知れないが、農業に家族を巻き込んではいけないと思った。農業は1人でするものだと思った。

自分の集落においても、葉タバコの生産期間は、たった15年間ほどで終わったようである。20年間にも満たなかった。その間に、葉タバコの乾燥庫を個人で建てる人もいた。1年に1回、たった、1~2週間しか利用しないのに・・・。稲作のコンバインや田植機、乾燥機もそれと同じことが言える。1年にたった1~2週間しか稼動しないものに、こんなに設備投資すると、企業だったら、まず倒産する。農家人はなぜ、この点にもっと着目できないのだろう。

 見知らぬ土地をドライブしていると、古き良き時代の幽霊建造物「葉タバコの乾燥庫」が、今も壊されずに残っている(今は納屋として利用されているのだろう)のを、時々目にする。ああ、この地でも、一時期、葉タバコ作りが盛んだったんだなあと、ふと郷愁を覚えることもある。

 
 父母の時代、農薬や化学肥料という文明の恩恵を始めて受けるようになり、それらの全盛期の時代だった。稲作や葉タバコ作りで、父母は浴びるくらいの農薬を受けてしまっただろう。因果関係は知る由もないが、母は血液のガンで62才で、父は肝臓ガンで75才で他界した。祖父が89才、祖母が91才で天寿を全うしたのとは対照的である。文明の進歩が命を縮めたようだ。

 そして、次の世代のボクは、36才の時、脱サラして百姓になった。サラリーマンという組織になじめず、回り道をして、やっとひらめいた農業だった。しかし、若い農業志願者にとって、農業への転身は、17年前よりもっと厳しいものになっている。生きていくための職業の選択肢が「サラリーマンしかない」というのが、今の日本という国である。多様な生き方が選択できなくなっている。この傾向はますます強まるだろう。



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「何もしないこと」のレッスン

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 3枚とも、お墓の上から写した画像です。ほとんど野菜がなくなりました。今日の出荷が、今期の秋冬野菜の最後のワンパックです。次の出荷は5月の連休明けからです。



 
 農業を始めてからこっち、農業以外の本など読む気がしなかったので全く読まなかった。農業雑誌だけ3冊ほど購入していた。種苗会社から送られてくる月刊誌、日本有機農業研究会が発行している「土と健康」、それに百姓天国という雑誌である。百姓天国という雑誌は自分が農業をスタートする1ヶ月前に第1集が発行された。だから自分の農業は、この本とともに歩んだような気がする。全国の百姓の手作り本というキャッチフレーズ通り、多くの農業人の投稿で記事が成り立っていた。1991年という年は、自給自足的な生活や暮らし方へのあこがれ、有機農業への脚光、などが重なって、第1次の田舎暮らしブームが沸き起こった年ではなかったかと思う。そういう高まりの中での百姓天国第1集の登場だった。それは感動するような農業人ばかりだった。へえ~、全国にはこんな農業人がいるんだと思うと、何か元気が湧いてきた。そして、いつか訪ねてみようと思った。この百姓天国という雑誌が縁で出会った人も何人かいる。



 その百姓天国の第4集(1992年、8月発行)に載っていた「何もしないことのレッスン」は、ちょっと気になる記事だった。今回これについて書こうと思った時にも、すぐにこの記事の載っている場所がわかったくらいだから、頭のどこかにずっと、その言葉が残ったのだろう。今から15年前の記事である。それは当時33才の富山県の女性が書かれた記事だった。2人の子供と赤ちゃんを抱いた本人とご主人の5人の写真も載っていた。今はすでに48才のはずである。

<以下の記事は抜粋>
 

  ここは雑木の山に囲まれた、水の豊かな、とてもよいところです。春は山菜、夏は岩魚、秋は木の実やきのこ、そして冬は、一面の白い世界です。2メートルは積もる積雪地帯のため若い人はほとんど山を下り、お年寄りの多い部落となっていて、部落内の学校も子供がいないため休校となっています。


 それでも私達にとっては天国と、ある雑誌で仲間を募ったところ、この2年間に3組の家族が引っ越して来て、この春にも一組来ます。もともといた独身男性を含め、新住民は計6世帯、子供も計7人+お腹の中に1人。考え方はそれぞれ違いますが、みんな自然の中で楽しく暮らそうとやってきました。


 生計のたて方もそれぞれで、森林組合で山仕事、平飼い養鶏を始めた人、うちみたいに時々日稼ぎに出る人など。家や土地も、買った人、借りてる人、古い家をもらって直した人、建てかえた人、自分で家を作った人、廃校になった分校の講堂に住んでる人などさまざまです。


 我が家は今のところ、電気、ガス、電話のない生活をしています。炊事と暖房は薪ストーブ、洗濯は手で、冷蔵庫、テレビ等はもちろんありません。あかりは灯油ランプを使っています。


 できるかなあーと思って始めた生活でしたが、案外楽しくやっています。


<以下の記事は所々を抜粋>


 今の世の中でお金を稼いだり、使ったりすることは、どこかで命を傷つけているんじゃないのかな・・・


 機械をあまり使わないですごす生活は、のんびり、ゆったりせざるをえず、1日にとてもたくさんのことをしていた昔がウソのようですが、人間、そんなにたくさんのことをしなくてもいいんじゃないのかな・・・


 農業で生計を立てようとすればするほどお金がかかる(エサ代、肥料代、コンテナ、ビニール代、ガソリン代、種代、宅急便代などなど)のはなぜ・・・


 そんな時、奈良の川口由一さんとの出会いがあり、より小さな生活をしようと、ここへ移ってきました。田畑への向かい方は、そのまま家族や友人への向かい方、山や動物たちとのつきあい方、生活のしかたとなり、本当に心が楽になりました・・・


 私も含めて、今の人たちに一番必要なのは「何もしないことのレッスン」ではないのかしら?と思うこの頃です・・・


 ぼう~っと山の中で風に吹かれたり、木の葉のゆれるのを見ていたり、鳥や虫に逃げられない程の存在となることを、いらいらせずに、もったいないと思わずに、少しできるようになったかなあ、と思っています・・・


 こんな日々を続けていければ、それでよいのではないかと思えるけど、やっぱり学校に行かなくてはならないのかな?、教育の自給も真剣に考えたいと思っています・・・


 いろいろお話したり、田畑に出たり、いっしょにぼう~っとしたりしませんか。どうぞ興味のある方はお訪ね下さい・・・


 


 15年後のあなたは今、いったいどんな生活をされているのでしょう。いつの日か訪ねて見たい人の1人です。


 どんな農業者をルポしたいかというと、一番望むのは、上記のような方です。こんな生活がもし可能なら、そして実際に生活がまわっているなら、こういう生き方を数多くブログで紹介したい。斬新な21世紀型生き方だと思います。
 ただしこの家族は、この家族なりの方法で戦っているのだと思います。働きすぎたり、がんばりすぎたりすることは、資本主義の「思うつぼ」であるということを、すでに感じ取っている風に見えます。だから、「なにもしないこと」で静かに戦っていると見えます。実際はこういう人は、生活の現場では、あまり休まずによく動く人だと思います。文明の利器が登場してくる前までは、多くの人はこういう生き方をして生涯を終わっていたのだと思います。


 察するに、


(1)こういう生き方を始める人は、大都会の空間で何年か生活をしてきた人が多いような気がする。


(2)現在は費用のかからない生活をしているが、こういう生活を形作るまでには、かなり費用がかかったのではないだろうか。ホームレスになった人が、こういう山の中の生活に移れないのは、すでに山の中まで行く旅費も、その間の生活費もなくなっていると考えられる。


(3)案外、以前は裕福で、親兄弟も裕福な生活をしている人が多いのではなかろうか。


(4)いざという時に困らないだけの貯金があるとか、そんな時には最低限、親の援助が期待できる人ではなかろうか。本当に貧しい生活をそれまで何年も続けてきていたら、それ以上に「ひもじく」見える生活には入っていかないと思える。


(5)こういう生活を始めるまでは、非常に努力家で、がんばり続けてきた人ではなかろうか。


(6)こういう生活スタイルが形づくれるまでには数年の年月がかかっていて、配偶者も多分同じような生き方をしてきた人ではなかろうか。でもこの女性はまだ33才という若さであり、すでに子供が3人いる。


(7)一朝一夕にはこういう生活に変更できないと思う。少しずつ、少しずつ、心の中でそういう生活への願望をあたためながら、そのためにはどうしたらいいかを考えて、一歩一歩そういう生活に近づけていったのではなかろうか。


(8)こういう生活をする場合には、少なくとも崩壊しかかった集落とか、廃村に近いような集落でないと、集落内でのいろんな人間関係に足を引っ張られて、自分たちのスタイルが貫けないのではなかろうか。


 こういう生活が全く非現実的とも思えないし、そういう生活に入ることが不可能であるとも思えない。自分がそうしたいという強い思いがあれば、そういう情報を一つずつ探していけばよい。そして実際に田舎に何度も足を運んで、そういう生活へのイメージや予行演習をしてみるのもよい。 


 全く行き当たりばったりだった自分でも、農業への転身の時だけは、ひらめいてから実行に移すまでに、2年間の準備期間を持った。ただし、だらだらと年数を費やしてはいけない。


 蓄えの少ない現役世代でも、皆目、田舎移住が閉ざされているわけではなく、情報を少しずつ蓄積していけば、自分に最適の田舎移住の方法が実現できると思う。
 農業だけにこだわった田舎移住ではなく、生活のための収入は農業以外のものに求め、生活の中に農業もあるという田舎暮らしの選択の方が良いと段々思うようになった。

 たった70~90万の手取り収入に持っていくにも、農業では3年ほどの月日がかかってしまうだろう。その後の収入アップも期待できない。



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あばれ火

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 これは6年前の3月に知人にホームページを作成してもらった時、ホームページに載せた作文の一つです。ブログのあめんぼ通信を始めてから、ホームページのあめんぼ通信は削除したので、ボクのホームページをご存知の方は読まれたことがあるかもしれません。実際にこの作文を書いたのは、1993年の2月で、今から14年前のことです。父はこの火事騒ぎの1年後の2月に亡くなり、その3ヶ月後の5月に祖母も亡くなりましたが、祖母は火事騒ぎの前後から痴呆が進み、息子の死を、何のことか理解できませんでした。
 


 熱い、熱い、早く来て・・・もうだめ・・・、母はそう叫んだのかもしれない。
 今ふりかえってみても、その現場への到着があと1~2分遅れていたら、家はどうなっていたかわからない。一瞬、上を見上げた時、ボクは「もうだめだ」と思った・・・。祖母の部屋にいた父に火事だと知らせ、妻にすぐ消防へ電話するようにいい、風呂場の煙突のある棟続きの2階にかけあがり、、寝入りばなの子供2人を起こし、大急ぎで家の外に連れ出した。時刻は、9時15分だったか、17分だったか・・・。妻にはすぐ隣近所に連絡するようにいい、ボクは、現場で「火事だ・・・」と大声で叫んだ。すぐそばの、堀池(防火用水)のたまり水をバケツで、今やおそしと燃え盛ろうとする屋根のひさしめざして、ぶちかけた。間髪を入れず、近所の人がかけつけてくれ、父が納屋からハシゴを出してきた。ボクはハシゴにかけあがり、堀池からのバケツリレーの水を受け取り、怒り狂おうとしている風呂場の煙突のある屋根の火の手に向かって、しゃにむに水をかけ続けた。反対側から屋根にあがった父は瓦をめくった。その瞬間、火勢が出口を求めて、ぱっと夜空に舞い上がった。それに向かって、父はかぶせるようにバケツの水を浴びせた。
 あとどのようなバケツリレーがあっただろう・・・20回か30回か・・・その間5分あるいは15分ぐらいだろうか・・・。消防のうなるようなサイレンがボクの耳に到着したころ、火の手はその勢いを弱め、もはや、やさしい下火となっていた。
 
 一生のうちで忘れることのできない事件・・・2月11日、夜中の9時過ぎ・・・もうじき1ヶ月がくる。
 我が家はそれまで風呂焚きをしていた。電気温水器もあり、湯も出るようになっていたが、下から焚いた湯はさめにくく、なかば習慣的に風呂を焚いていた。燃やすための割り木はいくらでもあったし、父にとっては、そんなに手間な仕事でもなかったから。
 
 台所の風呂場を改造して11年、その時に煙突の位置も変えていた。以後今日まで、ほとんど毎日、風呂を焚き続けてきた。11年間どうもなかったのに、今になって、煙突が過熱し、その周囲の「たる木」が燃えるとは想像もしなかった。しかし、結果的に見ると、この11年の間に、少しずつ、少しずつ、周囲の「たる木」を炭のような状態にしていったのかもしれない。あるいは、2週間ほど前に、父が、煙突掃除をしたと言っていたので、その時、煙突が微妙に動いたのかもしれない。日頃、火の元に神経質であり、ガスの元栓とかストーブなど、いちいち確認しないと寝れない性格ではあるが、風呂場の煙突が過熱して、火事になるなど、考える余地もなかった。しかし、火災原因として、そういう事例も多いということを、後で聞かされた。
 
 父はいつも夕方6時過ぎには焚き始め、7時頃にはたいてい湯がわいている。火事を発見したのは9時15分がまわっていたので、その間およそ、3時間ほどくすぶりながら、じわじわとおごり、火勢がつく一歩手前だったように思う。この時点で火を抑えることができた幸運が二つあった。そのことを身にしみて感じた。
 一つは、昔の造りだったので、瓦の下も土、壁も土壁だったことが、台所の天井へ火がまわるのを防いだということ。翌朝、焼けた風呂場の屋根に上がってみたとき、土壁が火をとどめたということが、はっきりみてとれた。近所の人もそのことを指摘した。
 もう一つは、当日(2月11日)の夜、風がほとんど吹かず、その時間帯7時~10時の間、まったく凪いでいたということ。この自然環境の幸運が、最小限のボヤですますことができた一因である。確か、その2日後だったと思うが、寝床に就いたとき、家のそばの竹やぶが、ごうごうと吹き荒れているのを耳にした。これが2日前だったらと思うと身震いした。例年なら、この時期、毎晩のように激しい季節風が吹いている。この二つが、風呂場の天井の屋根を畳1畳くらい焼いただけですますことができた理由である。
 
 焼け跡は、軒にそって、きれいな長方形をしていて、火がほとんど、あばれていなかった。もう一つ付け加えるならば、火事の発生した時間が、夜9時ごろであり、まだみんな起きている時間帯であり、近所の人がかけつけてくれるのが早かった。
 
 1月、2月という月は、空気が乾燥していて、火災が発生しやすく、新聞にも時々載っているが、同じ煙突火災でも、夜の12時、1時の発見では(この月に岡山県で2例あった。どちらも全焼だった)逃げるのがせいいっぱいだったかもしれない。
 
 翌朝、近所の人が、お見舞い方々、あとかたづけにきてくれて、その焼け跡をみながら、「よう、ここで、おさえられた・・・」と言ってくれた。
 出火した事実はさておいて、あの時点で発見できたということは、その日、家族みんなが家にいて、父や妻、そしてボクのバイオリズムもよかったからのような気がしている。
 
 ボクの家は、敷地だけは、だだっぴろくて、納屋の一部を改造した部屋で祖母が寝ている。その日、父はそこでテレビを見ていた。妻は友人と長電話の最中だった。ボクは母屋と離れた私室で、そのころようやく10本の指で打つことができるようになったワープロがおもしろくて、毎晩8時過ぎから、10時ごろまで早打ちの練習をしていた。9時ごろに、母屋の方へ戻ったのは、伊丹市から、顧客の紹介状を頂いていて、宅配の案内を送るため、住所を書いた手紙をとりに行くためだった。
 取りに戻った時、なにか、ものがこげるような、異様な臭いがした。なんじゃろうか、この臭いは、と思いながら、その原因をさがしているうちに、妻も電話が終わり、「さっきから、変な臭いがするんじゃけど・・・」と言う。おかしいなあと思いながら、台所、隣の部屋、子供が寝ている部屋と見回ったが、それらしい原因がみあたらない。でも臭いがあまりに異様なので、ボクはなお原因をさぐりに、家の外に出た。おかしいなあと思って、門の方へ行ってみたが、別に変わったふうはない。今度は裏の方へまわってみた。堀池(防火用水)のそばを通り、風呂の焚き口を行き過ぎようとしたところ、10円玉ぐらいのものが、1~2個、赤々と光っている。はは~ん、これは、父が風呂の焚き口をきちんと閉めていないなあと思いながら・・・(風呂の焚き口を閉めていなかったのではなくて、風呂場の煙突の、天井周囲のたる木が過熱で燃えて、それが炭火となって、下に落ちて、赤々と光っていたのだった。火はすでにそれくらい進行した状態だった)、その時、ふと上を見上げて、動転、はっきりと、臭いの源と、火事を認識させられた。
 
 発見後、すぐさま取った行動は、いつもの自分に似合わず、落ちついていたなあ・・・と思う。これが、「火事場のばか力」だろうか・・・。風呂の焚き口のすぐそばには、堀池(家では、「ほりけ」と呼んでいたが、正しくは、「ほりいけ」なのかもしれない。1メートル50センチ、4メートルくらいの長方形で、深さ20センチくらいの防火用水。昔はどこの家にもこれがあった)があり、これが、防火用水の役目をきちっとはたし、初期消火が見事にできたといえる。
 
 このあたりでは、もうほとんど風呂焚きをしなくなっているが、年寄りのひま仕事として、風呂焚きをしている家も、まだちょこちょこ見受けられる。
 その晩は気持ちが高ぶって、なかなか寝つけなかった。子供もたいそうこわがっていたようだが、あれほどの騒ぎにも祖母は何も気づかず、いつもと同じ朝を迎えたようだった。
 あれから風呂を焚くことをやめた。
 その後、妻もボクも、ちょっとした臭いにさえ意識過剰になり、なにかと神経質になっている。
 母の死後6年余り、これで母も深い眠りについて、あの日のように、自分を導いてくれることはもうないかもしれない。

(注)これは野菜とは関係ないことですが、自分の記憶として書いておこうと思った。あめんぼ通信は自分の生活の一部だから。
(1993年、2月)



 補足として、我が家の全体像をアップしました。


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 左の画像は、道から見た我が家です。青い瓦屋根が自分の私室で、中央が築56年の母屋、右に納屋です。
 真ん中の画像は、左の画像から20メートルほど右に移動して写した画像です。シャッターがあるのが、農業用軽四を入れる車庫です。正面の小屋は納屋の右隣にあり、45年前はは牛小屋でした。牛小屋の一部がニワトリ小屋であり、かどの一部がニワトリの遊び場でした。
 右の画像は、かどから見た車庫で、道のそばに竹やぶがあります。車庫は45年前は豚小屋でした。


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 上記3画像で、我が家の概観がわかると思います。納屋はかなり古いです。はっきり聞いていませんが、築80年は過ぎていると思います。




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新天地を求めて (4)


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 昨日書いた内容でちょっと訂正させていただきます。ワンパックを勧めるようなつもりは全くないのです。あまり出費をしないやり方で、いろんな田舎へ出かけて見るのがよいと思います。田舎情報に目を光らせておけば、炭焼き体験等のイベントなど、出かけるきっかけはかなりあると思います。とにかく数多くあたらないと、田舎を見分ける目や、自分に合っているかどうかを判断するカンのようなものが働かないと思います。

  
 都会を脱出して、田舎暮らしや有機農業を目的に田舎に移り住んでくる人たちは、従来の価値観とは異なる価値観を持っている人です。でも、生活のシステム(ライフライン)そのものがすでに大都会も山村の過疎地も全く同じなので、異なる生き方をしたいために都会を脱出しても、かかる生活費用は大都会のそれとあまり変わらないと考えられます。車両関連費や地域の冠婚葬祭費は田舎では欠かせないので、その分だけ逆に高くつく可能性もあります。そして、野菜や日用雑貨の諸物価は田舎に行けば行くほど高くなります。まさにあべこべであり、経済的側面からだけ考えれば都会の方が安くつくかも知れません。

種代、苗代、各種資材代、水代(エンジンポンプ代)、農機具代、害獣防御の設置費用、費やす手間ひま等を考えると、野菜や米やタマゴは買った方がはるかに安くつきます。

一昔前は、農業をすることは、買うカネがなかった貧乏人がするものでしたが、すでに農業は、貧乏人の自給自足から、カネ持ちのアウトドアスポーツに様変わりしているのです。

大都会の狭い一室で悶々とした生活を送ることも、田舎に引っ込んでくすぶった生活を送ることも、どちらも似たり寄ったりだと言えます。しかし、同じ一人でも、大都会の群集(雑踏)の中の孤独よりも、山深い自然の中の孤独の方が孤独感は小さいはずです。ただ、生活ということを考えれば、どちらが住みやすいとも言えません。大都会にも自分の居場所がなく、田舎でも自給自足の生活がままならない・・・。一体どこに行けば(住めば)安住の地があるんだ。

Wさんがこの地で、その手本を示してほしい。ボクはそれを願っています。



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新天地を求めて (3)


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 定年帰農の場合も現役帰農の場合も、どちらの場合にも2通りの選択がある。。過疎の山村集落にするか、それとも比較的便利な地方都市近郊にするかである。山村集落では必ずイノシシが出て、農作物は防御柵で囲んで作る必要がある。しかし、村の出仕事や行事に人手が足らなくて困っている状態だから地域に受け入れられることも早い。平均年齢も70才を超えている可能性があり、15年もすれば、その集落内で当人が最も長い居住者になる可能性もある。

 
 
地方都市近郊ならイノシシがまだ進出していない可能性もあり、農作物は作りやすい。しかしそのような田舎では集落がまだ十分に機能しており、排他的ではないにしても、その地域にとけ込んで行くにはかなりの年数がかかるように思う。田舎の集落では3代以上前から続いている家が多いので、初代だと、「よそ者」と言われる。

45年ほど前は農業をしていた家が多いので、子供心に、集落に住んでいた、今は亡きおじいちゃん、おばあちゃんの話し方や歩き方、呼ばれ方までうっすらと記憶に残っている。だから、つき合いが多い少ないにかかわらず、集落内の家の代々の変遷はよく覚えている。
 今から2代前の世代はまだ自転車もなかった時代だから、集落内、もしくは隣の集落との結婚縁組が多い。我家でも祖母は同じ集落内から嫁いできているし、祖父の姉は同じ集落内に嫁いでいる。そして、祖父の父は、祖父の姉が嫁いだ家から分家して出た我家の初代である。だから、集落内に親戚が多い。2代前までは、どこの集落でもこれと似たり寄ったりのことが行われていたのだと思う。代が代わって付き合いが薄くなったと言っても、そういう集落へよそから入ってくると、やりづらい面も出てくると思う。


 どちらの田舎をめざすか、はっきり気持ちを整理してから選択した方がよいと思う。山村の過疎集落では、スーパー、銀行、郵便局、役所、病院等が近くになく、車で30分以上かかる場合もある。70代前半くらいまでは運転に支障はなくても、80代に入ると運転のことも考慮せぜるをえない。でもボクは、田舎移住なら、山村の過疎集落を勧める。自分が住んでいるような、集落が集落として機能している集落は勧めない。
 いずれに移住するにしても、土地や家屋を購入して入るのではなく、借地、借家で入った方がよい。現役帰農の場合、これは必須である。購入できる余裕なカネがあるなら生活費にとっておいて下さい。
 定年移住の場合でも、新しい土地で元気に活動できる期間は15年ほどだし、たった15年ほどのために退職金や貯金や年金までつぎこむのは不経済である。理由は、転売できる可能性がごく少ない。今は田舎の田畑や土地家屋の資産価値はほとんどない。不動産屋を通すと、買うのはとても高く、売るのは二束三文になる。次の代の子供が、その地に引き続いて住むかどうかも疑問である。県外から入植してきた友人たちの子供は、たいてい彼らの親の出身地である都会に就職して、すでに家を離れている。
 入植者も一代限りの農業をしている。元々の田舎の親子のように農業を否定的にとらえることは少なくても、入植者の親子も農業に希望を持てなくなっている。だから、借地借家で移住した方が、購入するよりはるかに賢明な選択だと思う。購入すると、最後の最後になって田畑や土地家屋に縛られる可能性も否定できない。その土地の水や空気が、あなたに合うかどうかは2~3年そこで生活してみないとわからない。
 借地借家の物件は山村集落だけでなく、地方都市近郊にもごろごろしている。不動産屋を通さずに「人づてで探す」ということを肝に銘じておいて欲しい。


 田舎でも15~20年ほど前から、親と同居したり、婿養子さんをもらったりすることが少なくなった。子供も2人以下が多く、県外の企業に勤めている人は勤務先の近くで家を建てている人もいる。だから自分の集落でもだんだん空家が多くなっている。そんなに古いこともなく、まだ十分住むことができる空家である。自分の生まれ育った家だから売りたくはないが、住まないと古びるから、誰か住んでくれるなら貸してくれる可能性もある。知っている人からの紹介、もしくは紹介の紹介と言う形で、ある程度身元の知れた人であると貸すほうも安心して貸すことができる。田舎だからもちろん田畑つきである。こういう場所が現役(定年)移住の狙い目だと思う。つまり、探す場合に不動産屋を通すことなく「人づて」で探した方がはるかに安いし選択の誤りも少ない。


 「人づて」がない・・・と言われる人はこれから人づてを捜すことである。各県の図書館などに電話で聞いてみれば、その県の有機農業者を紹介している出版物(岡山ではエコ読本という題名の本が出ている)を教えてくれたり、農業関係者の情報等も知っている。あるいは日本有機農業研究会が発行している「有機農業者マップ」等を見て、定年移住を希望する県でワンパック宅配をしている農業者の野菜、果樹、タマゴ、炭、パン等のいずれかを1度購入してみる。ワンパック送料込みで3千円ほどの価格である。野菜なら月1回送ってもらうと10ヶ月(3月4月は端境期で野菜がない)で3万円、月2回で6万円ほどである。送料分だけ高いかも知れないが、送料分をはるかに上回る「野菜の知識」「農業者との新しい人間関係」が将来の移住に役立つ。
 インターネットなどを見て移住を希望する県の農業者から米や果樹を買うのもよい。できれば値段が高い安いでなく小さな取り扱いの農業者を選ぶ。200人の顧客の一人であるより40人の顧客の一人である方が大切にされる。米は保存がきくし、現地まで車で買いに行けば、その地域の風景や交通状況などを実際に目で確かめることができるし、生産者の話も聞ける。リンゴ農家やミカン農家ではインターネットを利用して直販をしている農家も多い。。時々、これらの農家のホームページを見ることは楽しいし参考にもなる。移住を考えている県の情報を得るには、このような第1次産業の生産者を探してみるのも1方法である。消費者との直接販売をしている生産者は安全指向(そうでないと消費者が買ってくれない)であるし、送料込みの価格でもそんなに高くない(情報等の付加価値も買える)し、おまけも入ってくるはずである。そうやって何年か買い続けたら、温泉旅行などを兼ねて現地を訪ねて見るのもよい。農業者自身が泊まれる施設を備えている場合もあるし、県の事業である「美しい森施設」など安価に泊まれる施設が田舎にもたくさんある。


 60才になってから田舎の親戚や田舎の友人を作ろうとするのは遅すぎる。57~58才でもちょっと遅い。現役帰農なら若い時代から、定年帰農でも50代前半くらいからスタートをする必要がある。スタートが早ければ、カネをあまり投資せずに、しかも失敗しない移住地の選択が可能になると思う。数年かけて田舎の親戚や田舎の友人が形作れたら、その人たちの知っている範囲で田舎の空家を紹介してくれるかもしれないし、友人や知人を介して他の田舎を紹介してくれる可能性もある。不動産屋を通すよりはるかに安価であるし、誰それの紹介ということになると、人間関係まで一つできあがっていることにもなる。不動産屋の紹介だと、どういう人が地域に入ってくるかわからないが、人づての紹介だと、田舎の人は信用するし、ある程度安心もする。もちろん、土地家屋を購入するのではなく借地借家で移住するのだから、貯金も退職金も少なく年金だよりという人にも定年移住の道が開ける可能性がある。購入して入った、借地借家で入ったという入り方の違いで付き合い方が違ってくるとは思えない。かえって、借地借家の方がお互いに気軽に付き合える面も多いと思う。借地借家だと「その地に縛られない」という事が、本人やその家族にとって最大のメリットだと思う。


 自分と同じころ農業を始めた入植者は、田畑や土地家屋を購入して入られた方も多い。その方たちは入植してすでに15年以上が経過しているにもかかわらず、いまだに払い続けている人も何人かいる。同じ農業者として彼らの現実が痛切に響いてくる。だから、現役移住者にも定年移住者にも、どうしても、借地借家で移住を実現させてほしいと思う。


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新天地を求めて (2)

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 津山線福渡駅着8時26分の待ち合わせだった。数日前に電話で、家主の奥さんが「私もついていって、家の中を案内してあげます」と言ってくださったので、2人でWさんを待った。駅から出て来られた方は背が高く、細身で、首から空気清浄器のような器具をさげていた。福渡駅から国道53号線を北上して「川口」という標識で左折して、岡山三大河川の一つ旭川沿いに5キロほど走ると右手に郵便局があり、そこを直角に右折して1キロほど行くと「和田北」の標識があり、そこを左折すると登りに入る。標高400メートルほどの山の中腹まで6キロほど登ると、めざす角石畝の集落である。15年前に何度も走った道だったので、大体の道は覚えていた。当時からすでにMさんの自宅近くまで全線舗装だった。懐かしかったので、家主さんの家を訪問する前にMさんの家を訪問させてもらった。15年の歳月は屋敷の風化をもたらしていた。奥さんが倒れて空家になってからすでに12年が経過しているのだから致し方ないのだろう。農作業の合い間によくお茶を頂いた玄関横の部屋もカーテンが引かれていた。Mさん宅に隣接したお隣の家はもっと崩れかかっていた。その家の住人は、ボクが研修に行かせてもらっていた時にすでに山を下りて福渡駅の周辺に家を新築されていて、週末だけ農業をするために上って(登って)来られていた。たまたま今日も上って来られていたので立ち話をしたが、15年前に何度か話をしたことはすっかり忘れておられた。Mさん宅の屋敷まわりを歩き始めたが、夏草が深くて前に進めなかった。屋敷の門先から、はるか前方に見渡せた絶景も、今は門先の木が高くなって、ちょっと見晴らしも悪くなっていた。紅葉にはまだ1ヶ月半ほど早かった。

 
 来た道を少しバックして200メートルほど車を走らせると目的地の家主さん宅である。15年前にMさんに集落を案内してもらった時には車の窓から見ただけだったが、今日はその場所に車を止めて降り立った。一昔前の田舎でよく見受けられた玄関先だった。屋根は瓦屋根ではなく、ワラ屋根をアルミトタンで囲んでいた。土間の玄関が広く、茶飲み台が置かれていた。来客があっても地下足袋のままその椅子にすわって茶飲み話ができるようになっていた。玄関の隣は応接間に改造されていたが、以前は「牛まや」だったらしい。玄関の隣の、家人の目が最も行き届く特等の場所に「牛まや」があったというのは、どこの田舎でも同じである。南向きの縁側は日当たりがよく、お年寄りはここに座って、過ぎ去りし日々のことなどを思い浮かべながら、うつらうつらしていたのだろう。ずっと以前は「カイコ」を飼っていたらしく、家の2階部分は「オカイコさん」の部屋になっていた。1年半ほど前にご両親が相次いで亡くなられてから「空き家」になったが、まだ期間がそれほど経過していないので、別段どこも傷んではなく、掃除をすればすぐに住めると奥さんが話された。母屋の東側に納屋があり、納屋から母屋の北側にかけて竹やぶがあるので、この竹やぶを少し整理すれば、家全体がもう少し明るくなり、風通しもよくなるだろう。ただ、竹やぶが近いので「やぶ蚊」が多いらしい。

 
 ご両親が亡くなられてから、始めて上った2階の「オカイコさんの部屋」から、代々の家系図を書いた巻物が見つかり、十数代続いてきた家系らしい。Mさんのお墓参りをさせてもらった時も、お隣の家の墓石に17代と彫られていたので、この集落の歴史はすでに500年以上に渡って続いてきた様子がわかる。20世紀後半の高度な文明の進歩さえなければ、炭焼きを中心とした自給自足の山村暮らしが、この先まだ幾世紀も続いたと思うが、文明によって、それまで数百年に渡って延々と続いてきた自給自足の生活が破壊されてしまった。カネを稼がないと電話代、電気代等のライフラインや国民年金、国民健康保険、生命保険、火災保険、車両関連費等の固定的支出が払えない。大都会に住んでいても、このような山村に住んでいても、生活にかかる経費は何ら変わりない。

 
 田舎で自給できるものは、すでに何にもない。野菜や米は経済的側面からだけ考えれば、作るより買った方がはるかに安いシステムの中に田舎の人も住んでいる。カネがないと田舎(山村)でも生きていけなくなっている。田舎は賃仕事の場所が少ないから町に働きに行かざるをえない。都市近郊の田舎在住なら賃仕事に通勤できるが、山村では通勤ができない。

 
 人家は100~200メートルほど離れて、2~3軒ずつ、あちこちに点在している。
この角石畝の集落はすでに空き家が多く、住人の平均年齢も70代の半ばらしい。このまま経過すれば、いずれは廃村になってしまう。集落で道普請(道沿いの草刈り等)をするにも人手が足りないこういう村では若いWさんの入植は歓迎されるだろう。友人のNさんが和気町に入植されたのは40代の半ばだったが、Nさんは農業以外にも収入の道を確保する生活力があった。角石畝はアルバイトをするには少し不便な土地である。でもWさんは以前の入植地で6年ほどの稲作と野菜の農業経験がある。四万十川源流域と角石畝は気候がそれほど違わないらしい。初霜の降りる時期は角石畝の方が遅いらしいので、ここの方が多少暖かいのかも知れない。

 
 初めての訪問地「角石畝」で、Wさんは何を感じて帰ったのだろう。ボクとの出会いがなければ、角石畝はWさんにとって縁もゆかりもない土地だったはずである。実際、Wさんの新しい入植地に関して、ここまで深く自分が関与する事になるとは思ってもいなかった。Wさんが自力で捜すだろうくらいに思っていた。でも何か自分を動かすものがあった。ほとんど関係がなくなっていた角石畝が、何回も頭の中で素通りした後に止まった。電話をしたのは9月10日だった。今日は10月1日だから、ほんとにとんとん拍子だった。あとはWさんの決断待ちである。早急に結論は出さず、後悔の残らないような選択をしてくださいと家主さんが言われていると電話で伝えた。

 
 農業をスタートする前、36才の時、初めてこの地に足を踏み入れた時、「お化け」でも出てきそうな山奥に感じた。家主の奥さんも今日同じ言い方をされたのが、おかしかった。でも今回は山奥と思わなかった。それは自分がいろんな山奥を経験してきたからだと思う。同じくらいの標高にある、備前市 吉永町 加賀美、それに赤磐市 吉井町 是里、そして御津郡 建部町 角石畝と、初めて訪問した時は、いずれの場所にも度肝を抜かれた。平野部に住んでいることは、それに比べれば、ぬるま湯につかっているようなものである。

 
 自分の場合は、家つき、土地つき、農具つき、先生(父)つきだったので、農業をしようと思いつきさえすれば、いつでもスタートできる環境にあったが、農業では生活できないというのは衆目の常識だった。スムーズに企業組織の一員として溶け込んでいける自分であったら、生きる事にこんなに苦労を背負い込まず、家族を落胆させ、不安と失望の道連れにする事はなかったのにと思う。結局自分の場合、企業組織では勤まらないという絶望的状況に追い込まれるまで、農業が脳裏にひらめくことはなかった。明日の自分が見えなくなった時に始めて農業という職業の選択肢もあることに気づいた。

 
 他の人もそれぞれ、いろんな形で農業と出会ったのだろう。でもWさんのように非農家出身なら、まず入植地の選定をする必要がある。これが第一の大きなハードルである。いろんな出会いや、何かのきっかけで入植地が決まる。一度入った入植地を出て、新たな入植地を探す人は少ない。最初の入植地を運命的なものとして根を生やそうとする。もう一度入植地を探すエネルギーや時間は多くの入植者には残っていない。

 
 自分が時々会っている農業者の多くは入植者である。元々の農家(田舎)の人は農業をしなくなった(できなくなった)ので、農業をしている現役世代と言えば入植者が多くなっている。縁もゆかりもない土地で農業を始めるにはタフな精神がいる。彼らはゼロから、自分には家も土地も農具も地域の人間関係も備わっていたのだから。でも農業人生は同じく30年ほどである。自分には農業後継者はいないし、入植者にも農業後継者は見受けられない。どちらも同じ一代限りの農業を展開している。


 北海道開拓農民、満州農業移民、南米農業移民、それぞれが苦難の歴史として記録されている。そして現代版、山間地(過疎地)への農業移住(入植)。自分には真似が出来ない。

 農業を選択せざるをえなかった、止むにやまれぬ理由・・・、そんなところに共感して訪ねて行く。


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新天地を求めて (1)


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 今日から4日間で、Wさんがこの地に入植された経緯を書かせてもらいます。Wさんのことは、1月26日、1月27日、1月28日、1月29日の4日間の更新で書かせてもらいましたが、今日からのは、この地に入ることになったいきさつです。一昨年の9月、10月に書いたものですが、自分にとっても記念碑的な作文です。
 
 
 新たな入植地を探すことは困難を伴う。そして、とにかく入植して数年経過してみないことには、その地が本当に自分にとってよい選択だったかどうかもわからない。一か八かのような選択を迫られる。入植地を転々とするわけにもいかない。多くの人が1回目もしくは2回目の入植地を天命として受け入れているのだろう。

 
 千葉県から高知県の四万十川源流域に入植されていたWさんと初めて知り合ったのは、「あめんぼ通信」というホームページを開設してまもなくのことだった。「あめんぼ百姓塾へ入るにはどうすればよいのですか」というメールををくれた最初で最後の人だった。以後、時々あめんぼ通信をメールの添付ファイルで送っている。すでに4年半がくる。そのWさんからつい最近メールをもらった。

『ご無沙汰しています。いかがお過ごしですか。僕は農地を返すことになりました。僕の農法、自然農では、集落が申請している中山間地の補助金が下りないのだそうです。現在、営農できる転居先を捜しているところです。
 
今年は、色々と予期せぬことが起き続けていますが、「だから人生はおもしろい」と開き直って生きています。一段落ついたら、またご連絡します。』

 
 通常はメールのやりとりだけで、電話をすることは少ないが、事情が事情だったので、電話で確認してみた。新しい入植地を捜さざるをえなくなった・・・と言われる。どうしてもそうせざるを得ないのなら、自分も岡山県内で心当たりを捜してみると言って電話を切った。

 
 すぐに思い出したのは友人のNさんだった。Nさんも和歌山県東牟婁郡那智勝浦町色川(リンク参照)から、第2の入植地として岡山県和気郡に入植して来られたので、同じく2回目ということで、参考意見が聞かせてもらえるのではと思った。Nさんの電話番号をWさんに伝えた。また、東京の有機農業研究会の事務局のUさんに電話をして、熊本県と長崎県の有機農研のメンバーで、誰か入植の世話をして頂けるような方はいないか、もしおられるようなら、Wさんにファックスを入れてほしいとお願いした。熊本県と長崎県と指定したのは、次の入植地として、その方面を考えているとWさんが話していたからだ。でも世話をして頂ける方はいなかったらしい・・・。Nさんや有機農研の他に、岡山県内の友人や知人7人ほどに電話をして、入植地を探している人がいるが、どこかよい場所はないかと依頼した。
 待っていたがよい返事はなかった。入植地などの仲介はなかなか、よだつ(面倒な)ので、ワンクッションおくとあまり親身になってくれない。

 
 よい入植地が見つかればいいがなあ・・・と「思う」ことではなく「具体的に何かをしてあげることだ」という名言を思い出し、ボクが紹介できないのに、友人や知人が紹介できるわけがないと思いなおし、もう一度、自分の心当たりを頭の中で反芻していた時に、電話してみようと思いたったのが、「喜多鶴会」の代表者だったMさん方だった。

 
 会社を辞めて農業をスタートする前の2ヶ月ほど、有機農業の研修に行かせてもらったのが、我家から片道50キロほどの御津郡建部町角石畝のMさん方だった。車の往復だけで疲れてしまい、結局十数回訪問させてもらっただけで長くは続かなかった。1年ほど経過してから、非礼をおわびするための電話をすると、Mさんはすでに亡くなられていた。

 
 研修中は、昼食を食べた後、屋敷の周辺をよく歩き回った。裏山に通じる道には、矢印の小さな標識があり「桃源郷」と書かれていた。そこはまさに、この世の桃源郷と思えるような、浮世から隔絶した場所にあった。集落といっても人家はまばらで、昼間でも一歩道を間違えると、まるで迷路に迷い込んだごとく、どこであるかがわからなくなった。Mさんは片道6キロほどの急勾配な道のりを、ふもとの職場(農協)まで歩いて往復されていたらしい。屋敷から見渡せる風景は絶景だった。まるで雲の上から見渡しているような風景が眼下に広がっていた。こんな所で生まれ育ったら誰もが詩人になれそうな気がした。
 第2次世界大戦後の高度な文明の発達さえなければ、下界から隔絶されたようなこの地で、豊かな「自給自足」が営まれ続けていただろうと思うが、大きな時代の波は、次の世代の人たちがこの地にとどまり続けることを許さなかった。次の世代の人は山をおりて平野部に家を建てたり、あるいは岡山市内、県外へと就職先を求めざるをえなかった。


 角石畝(ついしうね)の集落でも、日本各地の山里の集落がそうであるように高齢者だけが残った。Mさんが亡くなられてまもなく奥さんも倒れられた。勤務の関係で当時は四国におられた息子さんの所に身を寄せられた。以後、Mさんの自宅は、盆、正月に帰省される以外は空家となった。

 
 あれからすでに15年の月日が経過した。たった2ヶ月ほどの出会いで終わってしまったが、Mさんは角石畝の集落や喜多鶴会(無農薬野菜栽培集団)のメンバーの畑を案内して見せてくれた。裏山で20羽ほどのニワトリを飼い、家の前ではウサギをたくさん飼われていた。後日、ケージでニワトリを3000羽ほど飼っていたことがあると聞いて、そのギャップに驚いたが、農協の組合長までされた方だから、近代農業をリードし続けて来られた時代もあったのかも知れない。でも第一線を引退後は、ご自身の生まれ育った幼い時代にかいま見た角石畝の美しい農の原風景に立ち返り、少羽数のニワトリや、有機農業に帰っていく必然性も持ち合わされていたのだろう。


 Mさんが亡くなられたと聞いてからお墓参りに行ったのと、6~7年前に、当時の風景が懐かしくなって、無人の屋敷の周りを歩き回った。15年間に訪問したのはこの2回だけである。でも自分には特に印象深い土地だった。

 
 近くに住むMさんの弟さんの家に電話をして、Mさんの息子さんの電話番号を尋ねた。息子さんは突然の電話にも心よく応じてくれて、Wさんのことを話すと、すでに何ヶ所か雨漏がしているし、座がぐらぐらしている場所もあるので、修理をしないと入れないと言われた。そして、同じ角石畝の集落にあり、1年半ほど前にお母さんが亡くなられて空家になった家の息子さんの電話番号を教えてくれた。

 
 翌朝さっそく電話をすると、今日は家にいるのでどうぞとおっしゃったので、岡山市内に建てられている家を訪問させてもらった。どちらの方も生まれ育った家を離れて、岡山市内や市内への通勤圏に家を新築されている。生まれ育った角石畝の実家は「別荘」のような存在だった。

 
 借家の件は前向きに検討させてもらうが、集落の人の同意も必要なので、今度帰った時に話をしてみると言われた。さっそく、この吉報をWさんに電話して、9月は農作業が忙しいが、10月の上旬にはちょっと手があくので早めに1度見学に来られるようにと勧めた。ここまではトントン拍子に話が進んだ。この後はWさんがこの地を訪問して、どんなインスピレーションを感じるかにかかっている。

 Wさんは化学物質過敏症という病気である。電話で、標高300メートル以上の所に位置し、都市部からかなり離れている場所を希望していると聞かされていた。その場所は水島コンビナートから100キロ以上離れているのですかとも聞かれた。

 
 自分の人生の中で、一瞬のごとく通り過ぎた角石畝という集落であるが、こんな形でまたWさんを当地に案内できることがうれしい。イノシシは出ると思うが景色のいい場所であると電話で伝えた。今後この話がどう進展するかわからない。でもボクは今から、久しぶりにまた角石畝の集落を訪ねることを楽しみにしている。もう集落へ上る道を忘れてしまったような気もするが、Mさんの屋敷から眺めた遠くの山々が、以前と同じような風景で自分を待ってくれているだろうか・・・。


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就職

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 左の画像は、ナスビを鋸で切り、その足元に蒔いた5月取りのグリンピース。真ん中の画像は、オクラを鋸で切り、その足元に蒔いた5月取りのスナップエンドウ。マメ科なので、肥料をやらなくてもよく成る。どちらも11月9日に蒔いたが、暖冬で大きくなりすぎている。今後、強い霜が降りると傷みやすい。右の画像は春どりキャベツ。黒マルチは農業現場から出る多量の産業廃棄物であるが、なかなか手離せない。
 
 
 自分には、働くとか就職に対する気構えが、最初から欠けていた。何をしたいかとか、どういう会社へ入りたいかという気持ちも定かではなかった。卒業の時点で、人生のビジョンも何らの計画も、どれも皆欠けていた。だから目的意識もなく、勉強もしなかった。ただ何となく4年間の大学生活が過ぎていった。受けた会社5社ほどがすべて落ちた。オイルショックの年の翌年だったからなどと言い訳などできない。自分の場合、どこの会社の入社試験も半分も解答できず、適性検査も受けたが、見当違いの人材だったのだろう。とにかく、その時点で「一生勤める」とか、「終身雇用」という意味をちょっと自分は理解していなかったようである。まるでお客さんのような感じであり、単なる腰掛け、何回か職場は変わるだろうくらいに思っていた。学校を卒業して初めて入った会社に一生勤めるなどとは及びもつかなかった。でもこの年になって世間を見渡してみると、大多数の人は卒業して初めて入った会社に行き続けているのだということがわかった。自分のように支離滅裂に何回も入退社を繰り返した人も少ないようである。自分の年令では30代前半までは経済の高度成長、バブル期だから、まじめに勤め続けていれば会社も大きくなり、給料も毎年アップし続けて、それなりにリッチな20代、30代が送れたようなのである。でも逆に自分は入退社を繰り返したので、経済的にも精神的にもとても不安定な10数年を経過させてしまった。会社を変われば変わるほど「落ちていく」という悲哀も味わった。自分にもチャンスはいくらでもあったのである。そのチャンスに自分がうまく乗れなかった、もしくは乗ろうとしなかった・・・ただそれだけのことであるが。


 工業高校を卒業する年には、地元の駐在所のおまわりさんが何度も足を運んでくれて、警察官の採用試験を受けてみるように何回も進めてくれた。両親は警察官の試験を受けてみて欲しかったようである。後になって何度かそのことを話していたから。でも自分は、警察官ほど自分に向かない職業はないだろうと思った。その後、1浪して大阪の私立大学の商学部に進学し、大阪で就職したが、26の年に大阪を引き揚げて、家に戻った。地元に帰って来た時に、地元の町役場に入れるチャンスもあった。でも、この町役場も自分にはとても向かない気がした。両親はこの時も、ボクが町役場を希望しなかったことを、とても残念がったようである。それを希望すれば、安定した生活が待ち受けていたかも知れないのに、選択できなかった。両親もボクの選択を見逃すより他になかったのだろう。その10年後、母はすでに亡くなっていたが、マルミさんが町役場の介護ヘルパーの採用試験に受かった。父はとてもうれしかったのだろう・・・知人の誰かれとなく、そのことを吹聴したようである。父の死後、高齢の父の知人たちの介護訪問をしていた時に、「あんたかなあ、貢さんとこの若嫁さんは・・・」と言って、町役場に採用されたことを、父がたいそう嬉しがって話していたと何人かのお年寄りに聞かされたようだ。

 
 2人の娘に、職業人としての、どういう未来が待ち受けているのか、それはわからない。自分は無茶苦茶な生活をサラリーマンを止めてしまう36の年まで続けたから、どうやって今の社会を泳いでいったらよいなどという先見の明など、もちろん持ち合わせていない。



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リレーゾーン

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 父が72才、73才、74才の時、もう残された時間は少なく、最後の追い込みの状態に入っており、まもなくタスキの受け渡しが近かった。でも父は、そのタスキの受け渡しゾーンに、タスキを受け渡す人を見つけることができなかった。まだ誰も待機していなかったのである。その時、突然、受け渡しゾーンに36才のボクが立っているのが見えた。37才、38才、39才のちょうど3年間だけがタスキの受け渡しゾーンだっ た。タスキを受け渡す人がいなかったら、そこでタスキはつながれることなく投げ出されていたはずである。父にとって、タスキの受け渡し(つまり農業技術の受け渡し)ができたことは、喜ぶべき事だったのか、悲しむべき事だったのかそれは知らない。でもボクの場合は、間一髪の差で、タスキが落とされることなく自分の肩に渡ったので、1~2年の時間ロス(技術習得ロス)をしなくてすんだ。36才の終わり頃、農業に飛び込み参入をしていなかったら、もう少しぐずぐずして時間が経過していたら、父の死に間に合っていなかっただろう。


 
 それまで20年以上の間、自分は農業とは無縁の生活をしていたし、手伝いもしなかった。手伝ってくれとも父は言わなかった。だから、田んぼの場所さえ、すでにどこが自分の家の所有田であるかさえ、はっきりとわからなくなっていた。小学校の頃までは、田植えや稲刈り、天日乾燥のムシロをしまうのを手伝っていたと言っても、それからすでに25年ほどが経過していたのだから。


 
 ナスビやピーマンはどういうふうなかっこうで成っているのか、ジャガイモやタマネギはどのようにして収穫するのやら、ニンジンやダイコンはいつ蒔くのやら、皆目わからなかったし、知ろうともしなかった。当時は、農業は年寄りになってからするものだと思っていた。

 
 働く場所がない・・・、どこに行っても続きそうにない・・・、何をしたらいいのかわからない・・・、この先どうなるのだろう・・・と絶望的な状態に追い込まれていた時、突然脳裏にひらめいたのが農業だった。この時始めて、2年間の準備期間を持った。わずかの貯金も底をついていたので、とにかく100万くらいはためないと、身動きできなかった。35才と36才の2年間である。

 
 一応、農家の長男でありながら、農業の事は全くの白紙だった。就農準備期間中も、父がしていた稲作と少しの家庭菜園は全く手伝わなかったし、農業をするとも言わなかったので、会社を辞めてからすぐには、家の田んぼに出るのが、なぜか怖いような気がした。近所の人の目もいやだった。でも背中を押されるような気持ちになって、田んぼに出るようになってから1ヶ月もするうちに周囲の状況に慣れてきた。最初はけげんそうに見ていても1~2ヶ月もすれば、自分も周囲も、その違和感に「慣れて」くるものである。スタートした3月、4月、5月、6月あたりが、一番きわどい状態だった。農業をする上で危機的状況があったとすれば、自分の場合はスタート時点のこの4ヶ月だけである。7月2日に農業用軽四を買い、それ以降は農業にのめりこんでいくことができた。田んぼのありかを確認したり、持ち山の境界線を覚えたり、草刈機を始めて使ったり、カエルやバッタに感動したり、とにかく情けない、とんでもないレベルの「農業後継者の出現」だった。父は細々と自給用の家庭菜園と50アールほどの稲作を続けてきていたので、たいていの野菜の作り方は知っていた。自分にはそれで十分だった。

 
 でも、早くも今度は子供へのバトンリレーを視野に入れる必要にせまられている。すでに53才。自分が農業をスタートした時、父は72才。つまり、あと20年ほどでリレーゾーンに入ってしまう。リレーゾーンに入っても、自分の場合もタスキを渡す人がいなくて右往左往するかもしれない。自分がリレーゾーンに入った時、長女は42才、次女は40才。その年まわりになると、自給用の野菜ぐらいは作ろうと思い始めるかもしれない。こればっかりは、本人がする気にならないと、はたの者が、やいのやいのと騒いでも農業はできない。土に対峙した時に、癒されるかストレスを感じるかは、人それぞれである。

 
 
父の亡くなった年令から考えて、自分も後20年ほどしか農業はできないのだなあと思う。死は突然来るかも知れないし、ガンの告知のように、余命がある程度はっきりした期日指定になることもある。その時に泣き叫んだり、取り乱したり、世間や社会を恨んでみたり、自分の運命をひがんで見たり、誰かに八つ当たりもできない。死を受け入れていく・・・それは無理。受け入れられない。その時になってあわてふためかないように、こうやって、せっせと作文を書いておこう。


 30代の半ば頃まで、お粗末過ぎるほど行き当たりばったりで、農業を始めてからは、がむしゃらにやってきたが、この職業はカネには縁のない職業だった。でもすでに長女も次女も働き出した。ボクは今まで以上に、自分の目の前のハエを追い払うだけでよくなった。ライフラインの支出を追っかけることと、野菜以外の食費の支出を追っかけることである。でもこれでは今までと同じく貯金通帳に残高が少ない状態が続く。農業に定年はないので、元気でいさえすれば65~70才くらいまで出荷野菜を作り続けることも可能であるが、リレーゾーンに入るまで自分は働き続けなければならないのだろうか。ナムアミダブツ・・・ナミアミダブツ・・・

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里山の風景

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  県外から入植して来られた友人たちの住む山村に遊びに行かせてもらうのは自分の楽しみの一つである。ひなびた田舎家や、音をたてて流れる谷川、まだ残っているよく手入れされた段々畑、初めて訪れる山深い集落は、古きよき時代の日本の原風景でもある。崩れ去ろうとしている日本の山村と山河、失われ行く郷愁、滅び行く運命、去り行くものはいとおしい。


 里山の風景が維持されるのも後15年くらいのように思う。近々、団塊の世代が定年を迎えるが、彼らの多くは子供の頃に手伝わされた農業体験があり、農の原風景を頭の中に持っている。耕す土地が近くにあれば、定年後は家庭菜園にいそしむようになるかも知れない。定年後に家庭菜園が楽しめる期間は、平均寿命等から考えても15年ほどである。

 
 団塊の世代の定年から15年後に定年を迎える世代は、農業体験も農の原風景も持ち合わせていない。この間の15年は特に日本が大きく変わった日進月歩の15年である。教えてもらおうにも近所に誰も農業などしていないし、すでに親も亡くなっている可能性が高い。つまり、15年後の田舎に「農の風景」が維持されているかどうかは疑問である。

 
 ボクの集落では、平均年齢70才ほどの男女が家庭菜園に精を出している。田んぼに出てくる顔ぶれは決まっている。毎日出てくる人、3~4日に1度出てくる人、たまに出てくる人などそれぞれである。配偶者が亡くなったり、病気だったりする場合は70才を過ぎた女性でも草刈機を使っている。草刈機は、使い慣れるまでは扱い辛くて、少々危険な農具だと思うが、背に腹は変えられずと言うか、誰もしてくれる人がいないと、それまで全く使ったことがなくても、70才近くなってから使い始める女性が身近に何人もいる。


 自分の田んぼは一番奥まった場所にあるので、田んぼの行き帰りや田んぼからも家庭菜園の人が自然と目に入る。遠くからでも、その人が今どんな農作業をしているかは、姿格好で大体わかる。別に見ようとして見ているわけではなく、ちょっと農作業の手を休めたり、収穫でいったりきたりしている時など、自然に目に飛び込んでくる。自分が農業を始めてからこっち、毎日のように田んぼで見かけていた人がすでに何人も亡くなられたが、新たに田んぼで見かけるようになった人は一人もいない。


 この国から農の風景自体がどんどん少なくなっていくと思う。そのうち田んぼに農業会社の管理棟が並び、その中で、水耕栽培だとか、ニワトリのウインドレス鶏舎に似た無菌室状態の空間で無農薬野菜なるものが作られたりするのかもしれない。確かにそういう建物の中だと、イノシシやシカに襲われる危険性は少なく、2本足の害獣も容易に侵入はできない。農の風景がそんな「密室」の中に閉じ込められる可能性も否定できない。現に45年ほど前の田舎では、どこの家の軒先にも20~30羽ほどのニワトリがいたが、今ニワトリは、刑務所的管理棟(身動きできないケージという檻、トリのアウシュビッツ)に閉じ込められてしまい、一般の人の前から姿を消した。
 
 
 45年前の庭先の土の上に戻りたいと、いくらもがいても戻れないケージのニワトリのように、人間も、本来が土着性なのに、土(農業)から離れないと生きていけない(生活できない)ようなシステムの中にすでに取り込まれている。


 今、岡山県下の7~8割ほどの家庭菜園では、イノシシの防御のために、トタン板や電気柵という檻の中で作られている。そして、防御してまで家庭菜園を続ける事がばかばかしくなっている人も多い。買った方がはるかに安くつくのだから、経済的見地だけなら、もう止めてもよいという気にもなる。
 
 
 山村は今、時代から取り残されたような空間になり、平均年齢が70才を超える高齢化が進み、廃村の危機にある。そんな山村にぽつんぽつんと入植している友人たちを訪ねる。途中、車を止めて谷川のせせらぎを聞きながら、コンビニで買ったおにぎりとあんぱんを食べ、缶コーヒーを飲みながら、しばしたたずむ。



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毎晩3~4時間ブログ

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 梅の花がほころび始めてきた。でも去年の今頃は「ブログ」という言葉を知っていただけで、どこにそのブログが載っているのかも知らなかった。今使っているノートパソコンも買っていなくて、デスクトップの「ウインドウズME」だった。そして、毎年1冊の小冊子にしていた「あめんぼ通信」の商業出版をめざして、それまでの4冊をまとめ直している最中だった。そうしてできあがった原稿を4社ほどずつ順番に4回ほどに分けて郵送した。「公募ガイド」等をみながら、毎年5社ほどに送っていたが、去年は勝負をかけて17社に送った。結果はすべてボツだった。夢の商業出版を期待していただけに、かなりへこんだ。しばらくは作文を書く気になれなかった。


 
 出版社に送るには、A4版で縦書きというルールがあって、自分のあめんぼ通信はいつも横書きだったので、それを縦書きに直す方法や40字×40行(つまりA4版1枚に原稿用紙4枚分)とかに直すことが自分ではできず、地域で無料のパソコン教室を開いておられる人に依頼した。それが縁で、その人と親しくなり、自分も無料のパソコン教室へ通わせてもらうことになった。


 
 それまで5年間ほどパソコンは使っていたが、月に1回、あめんぼ通信を清書する時だけの利用だった。野菜やハーブの顧客のワンパックには月に1回、あめんぼ通信を入れていた。B4版の裏表で原稿用紙換算で15枚ほどは書いていたので、1年間で180枚ほどになった。冬の農閑期に40枚ほど書き足すと220枚ほどの原稿量になったので、それを毎年1冊の小冊子にするとともに、5社ほどの出版社に送っていた。去年それが4冊になった時、百姓天国前編集者であるMさんの指導を受けながら、新たな1冊にまとめ直して前述の17社に送った。去年の4冊目は小冊子にはしなかったが、それ以前はMさんのお世話になり毎年80~90冊ほどを小冊子にしていた。自分が小冊子に支出できる金額は毎年8~9万円くらいまでだったが、その範囲内でMさんが収まるようにしてくれたので、毎年小冊子にすることができた。商業出版のような、きらびやかな表紙ではなく、A4版の半分のサイズの小さな小冊子だったが、「毎年1冊の本という形」になることがとてもうれしくて、毎年1月の1ヶ月間は作文に没頭していた。13年目が過ぎた農閑期に初めて1冊の本という形にすることができてからは、まとめ方とか、どれくらいの枚数を書けば1冊の本になるとか、つぎはぎの原稿の並べ替え等の要領がわかってきて、1年に1冊のリズムができた。1冊の本にするまでに13年かかったが、最初の1冊を形にする時が最もエネルギーがいった。公募ガイドを見て、初めて小冊子にした原稿を3社の出版社に送った。3社とも、商業出版は難しいが、費用が折半の「企画出版」を持ちかけられた。ほめられたので、その時カネがあったなら、自分の記念にと投資したかも知れない。でも、3社とも、提示された金額は100万円を少々越える金額だった。どんなにほめられてもそんなカネはどこにもない。でもこれが「出版社の甘言のテクニック」だった。出版の価値が十分あるとか言われたら、初々しい「原稿の初出版を目指している人」は、ついその気になって
しまう。ボクはそういう人に助言したい。1冊目は客観的に自分の原稿が評価できない。とにかく2冊目の原稿が書きあがるまでは、絶対に出版社の口車に乗ってはいけないということである。2冊目が書けた時に初めて、1冊目の内容のレベルが自分でも少し客観的に眺めることができる。3冊目、4冊目と書いていけば、最初の1冊目がどんなにお粗末であるかが見えてくるようになる。とにかく初めて書いた原稿に、どんな形であれ100万も投資することは禁物である。功成り、名を遂げて、カネに困らない人が、単なる「自己自慢」で書く自叙伝のようなものにいくらカネをかけようとその人の自由であるが。


 
 90冊で9万円ほどの小冊子であったが、最初の1冊を手にした時、これは自分が書いた本なんだと思うと、まるで舞い上がるような気分になった。その後毎年80~90冊を小冊子にしてもらったが、20冊ほどは押売りできても、残りは売ることができなかったので配った。多分、もらった人はかなり迷惑だったんじゃないかと思う。


 
 横書きを縦書きに直してもらった、地元のパソコン教室に3月の中頃から通わせて頂くようになったが、その先生に、「パソコンのシーラカンス」とか「パソコンの縄文人」と言われるくらい、最近のパソコンに無知だった。7万円も出せば、最新のパソコンが手に入ると言われて、さっそく買うことにした。4冊目は結局小冊子にはしなかったので、その代金をそっくりパソコンにまわすことができた。これは毎年小冊子を依頼していたMさんが、そうするように勧めてくれたから踏ん切りがつけれた。Mさん(すでに廃刊になったが百姓天国という農業雑誌の前編集者)には毎年原稿指導もしてもらい、今でもその指導内容を時々、頭で反復するくらい自分にとってありがたい助言だった。


 
 地元のパソコン先生が勧めてくれたのは、DELLの「インスパイロン1300」というノートパソコンだった。インターネットで注文すると69000円ほどで買えるという、その金額にまず驚いた。4年間無料保証とか、その他の付属品を付け加えると9万円ほどになったが、それでも安いと思った。プリンターとデジカメは岡山市内の○○電気で買うように勧めてくれた。ノートパソコン、プリンター、デジカメの合計で14万もしなかった。今この3点セットは、ブログを毎日更新する上でフルにフルに活躍してくれている。


(1)ウインドウズMEは、長時間すると目がかすんでいたが、今回買ったのは長時間しても目がさほどかすまない。


(2)キーボードの高さが低くて打ちやすい。


(3)ノートパソコンなので、気軽に持ち運びできる。


 一番ありがたかったのは、今まではボールペンで下書き→パソコンで清書というパターンだったが、下書きなしでいきなりパソコン入力いう習慣がつけれた。これはブログのおかげかも知れない。毎日更新の予定をたてたが、毎日更新しようとすると、下書きをしていたのでは、とても間に合わない。今、振り返って思うに、ブログを始める前まで「いきなりパソコン入力」ができなかったのは「単なる習慣という癖」の仕業だった。入力スピードと頭に言葉が浮かぶスピードのアンバランスに困ることもなかった。要はそうする必要性にせまられなかったので、ただずるずると、下書き→清書というパターンが崩せなかっただけだった。ただし、入力スピードがあまりに遅いと、言葉が浮かぶスピードとのアンバランスができてしまう。自分の場合は十数年前に、あめんぼ通信のためにワープロを買った時、ワープロ教室に通い、早打ちの練習をしていたので、ワープロからパソコンに移った時も「キーボードの壁」というのはあまりなくて、入力スピードは普通の人よりちょっと早くできるという最低限の下地があったから、ブログを始めていきなりパソコン入力という必要性に迫られた時に、何とか対応できた


 
 下書きなしで、いきなりパソコン入力ができるようになると、もう作家気分になった。「ブログは毎日更新しないと見に来てくれない」という意識もあり、毎日更新を始めると、書く量が飛躍的に増えていった。1週間も寝かせて読み直しする余裕はないが、できる限り前日までに書いて、当日にまた何回か読み直してから公開するようにしている。


 地元のパソコン教室には3月中旬頃から9月末頃まで通わせてもらった。


(1)ノートパソコンを買ってもらい


(2)フレッツADSLという電話回線のことをを教えてもらい


(3)無線ランの接続をしてもらい


(4)IP電話にするように勧めてもらい


(5)教室ではいろんな基礎知識を教えてもらった。


 でも、日常的に自分があまり使わないパソコン操作の説明もあり、教えてもらっても次の時にはもう忘れてしまっているということも多くなった。今必要なブログの使い方だけわかったらよいと、だんだん考えるようになった。大変お世話になったのに失礼かなあと思いつつ、地元の無料のパソコン教室は「卒業」させてもらうことにした。
 
 そのちょっと前に新聞で、パソコンに詳しい高校生がいるのを見つけていた。今度は「マンツーマン」で、ブログの使い方でわからなかった所だけを、ピンポイントで教えてもらおうと思った。その高校生に出会えたことはとてもありがたかった。ブログの使い方でわからなかった所をメモして、それを教えてもらっているが、まるで、かゆいところに手が届くような感じで、すべてに回答してくれる。その時にわからなくても、調べて次の時には回答をしてくれる。今も時々教えてもらっているが、パソコン通の「スーパー高校生」である。


 
 去年の3月にはまだ、単にブログという言葉を知っていただけだった。5月末頃、インターネットで、「ブログとは」、「ブログを読みたい」と検索して、始めて他人のブログを読んだのに、今ではブログランキングで40~50位くらいをキープできている。毎晩3~4時間ほどキーボードに向かっている。そして、四六時中ブログのことを考えている。




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ニワトリの交尾

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 ニワトリの画像を何回も載せながら、交尾の写真がなかなか撮れなかった。今回初めてうまく撮れた。でも交尾の終わり頃の画像である。ニワトリの交尾は3~5秒で終わってしまうから、シャッターを構えた時にはすでに終わっていたり、その瞬間には、オンドリは羽を大きく広げて、羽をふるわせて、メンドリに被せるようにするので、撮れたと思っても画像がぶれていたりする。今回も交尾の動きに気付いてからすぐにシャッターを向けたが、あっという間なので、その瞬間はなかなかうまく撮れない。トリ小屋の中に10分ほど待機していれば、その現場に出くわすが、シャッターチャンスのタイミングが取れない。


 
 ニワトリの交尾はかなり頻繁である。タマゴを産み始める(初産)時期と、交尾が始まる時期と、オンドリが鳴き声を発し始める時期は、ちょうど同じ時期である。今回導入した33羽に関しては、初産の日と、交尾を始めて見た日と、オンドリの鳴き声を始めて耳にした日は同一日だった。


 
 エサがお粗末(主に菜食)なので、通常はヒヨコから半年経過すれば初産を迎えるのに、今回のはそれより1ヶ月近く初産が遅れたが、オンドリも同じように成長が遅れたのであろう。オンドリの「初鳴き」というのは感動的である。初鳴き後は、毎日鳴き始める。毎日鳴き始めるといっても、そんなに頻繁に鳴くわけではない。1時間に1~2回だと思う。気分のよい時とか、縄張りを誇示する時とか、1羽のオンドリが鳴くと、競争のようにして、もう1羽のオンドリも鳴く。
 オンドリの鳴き声はかなり響くので、家の周囲で飼うと近所迷惑になると思う。犬の鳴き声よりはるかに牧歌的だと思うが、立場が異なると牧歌的な鳴き声でも騒音になる。自分の場合は、集落からかなり離れた田んぼの一角で飼っているので、昼間はオンドリの鳴き声は聞こえないが、世間が静かになる深夜から早朝にかけては、オンドリの鳴き声がよくとおる。我が家まで直線で400メートルは越えていると思うが、丑三つ時などには、はっきりと聞こえる。オンドリは夜でも昼でも関係なく鳴く。何か昔読んだ童話で朝オンドリが鳴き出す前に1000本の刀が作れなければ・・・というような物語があったように記憶していたので、早起き鳥のニワさんだから、てっきり「一番鳴き」は午前4時頃かも知れないと思っていたが、午前2時とか午前3時でも平気で鳴く。多分、月夜だとか、害獣の気配とかでも鳴くのかも知れない。かえって居所を知らせるようなものなのに。


 
 45年前、ボクが小学校の低学年の頃には、45軒ほどの集落のほとんどの家でニワトリを飼っていたが、オンドリを見た記憶がない。オンドリの鳴き声も耳にした記憶がない。この時代にはどこの家でもニワトリを飼っていたので、オンドリの鳴き声がうんぬんではなく、「飯のただ食い」が敬遠されたのだろう。有精卵の価値より「飯のただ食い」のウエートが大きかったと思う。それくらい「ひもじい時代」だった。有精卵かどうかは、外観ではまず判断できないから、タマゴが良い副収入になった時代に、有精卵などかえって損だったのだと思う。
 自分はオンドリの「飯のただ食い」を気にしたことはない。というのは、エサは稲作農家からもらっている「コゴメ」と青菜(雑草やクズ野菜)が主体で、購入エサは1ヶ月に1袋(20キロ、1400円前後)ほどだから気にならない。それよりも、「オンドリが(も)いるというトリ小屋の中の風景」が心や気持ちをなごませてくれるし、絵になる。


 
 オンドリはメンドリの数に対して5%と言われている。だから、40羽で2羽が適当らしい。10%もいたら、闘鶏をして死んでしまう。ボクはそれを知らずに、ニワトリの飼い始めに4羽も入れたことがある。現在はメンドリ31羽にオンドリ2羽であるが、4坪半(畳9畳)の広さでは、これくらいの羽数がちょうどよい。オンドリは2羽が限度である。すでに闘鶏の決着はついていて、羽の白っぽいオンドリより、羽の茶色っぽいオンドリの方が強い。白っぽいオンドリは一定の距離以上には近づかないが、エサに夢中になっている時などに、必要以上に接近することがある。そんな時は、白っぽい方がいち早く察知して離れるか、気付かなかった時は、茶色っぽい方から口ばしの一撃をくらう。最初の頃に何回かバトル(闘鶏)をしていて、すでに決着がついているので、今はバトルはしないが、常に白っぽい方が遠慮している。1羽にしてもよいが、1羽だと万が一途中で死んだ時にメンドリだけになってしまう。有精卵にもならないし、それはやっぱり殺風景である。


 
 産み始めの頃の交尾は頻繁だったが、今はそんなに目に付くほど多くない。どれくらいの確率で有精卵になっているのかわからないが、現在の産卵率は2~3割であり、3~4日に1個ほどしか産んでいないことになるから、有精卵の確率は初産の頃と同じように80%~90%は越えていると思う。特定の相手が決まっているということはなさそうで、先日は、交尾が終わったと思ったら、もう一方のオンドリが続けて同じメンドリにのっかったので、ちょっとびっくりした。


 
 真ん中の画像は4つ並んだ巣箱の一番右の箱から1羽が産み終えて出ようとしているが、一羽がまたその巣箱に入ろうとしている。よく見ると、もう一羽その巣箱に入っているのが見える。他の箱が空いているのに、同じ巣箱に入ろうとする。


 
 右の画像には、ダイコンのクズやニンジンが見えるが、翌日には跡形もなく平らげている。




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御津町のYさんを訪問

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 あれ、ヤギさんがいないと思ったら、前と違う場所につがなれていた。Yさんの田んぼを訪問させてもらうのはちょうど2年ぶりである。1歳半になるという2人目の赤ちゃんも生まれていた。


 左の画像の山の裾野にハウスが見える。あの場所でいろんな種類のニワトリを飼っている。黒いニワトリや羽がきれいなニワトリがいるのでアップしたかったが、今は鳥インフルエンザが問題になっているので、同業者としてあまり近づかない方がよいということもあり、周辺で長居はしなかった。


 真ん中の画像はキャベツやソラマメが植えられている。このあたり一帯の田んぼは、きちんと碁盤の目のように圃場整備されていて、1枚の田んぼの面積が大きい。まわりは水田地帯である。冬越しの春キャベツやソラマメやタマネギを5月末に収穫後は、田んぼ(稲作)に戻すのだろう。夫婦2人で畑作100アール、稲作120アール、ニワトリ200羽ほどを飼っている。まだ34才。2年前にも、何でこんなに手がまわるんだろうと思ったが、あの時よりまだ面積が広がっている。
 
 右の画像は、家の門先にある育苗ハウス。これから定植する苗箱が並んでいる。電熱温床ではなく、踏込み温床だった。


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  トリ小屋がある方とは逆方向の山の裾野にもハウスがある。ハウスの中ではタカナ類がすくすくと育っていた。定植が遅かったから害虫の被害をまぬがれているようである。右の画像はタラの芽である。3月、4月もワンパックを休まず、1年を通して届けているらしい。ハウスの中ではレタスやコマツナ、ホウレンソウ、ミズナ、コカブ等、何種類かの葉野菜ができるし、画像のタラの芽や、育苗ハウスの一角にはウド、他にシイタケもあるので、3月、4月でも比較的種類がそろうらしい。
 
 ハウスの中で育てることといい、山菜類といい、経験年数は短いのに、すでに技術力はかなりの高さである。ミツバチも飼って蜜を取るらしい。そのためにレンゲも15アールほどすでに蒔いている。


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 上の画像は、トリ小屋の近くの田んぼである。この田んぼだけで、広さは30アールほどある。稲作ではなく畑作なので、田んぼというより畑といった方が適切かもしれない。Yさんの大きな強みは、稲作と畑作を交互に作付できるということである。これができれば、まず連作障害は起きない。でも、稲作と畑作の両方を作るということは、労働的にもきついし、稲作には大型機械が要るので、初期投資の資金も大変である。まだ34才という若さだから投資できるのだろう。


 稲作と畑作がきちんと輪作できれば、害虫は少ないだろうし、田地と畑地の草は種類が違うので、草の生えようも少ないと思う。そして、周囲はほとんど稲作で、畑作をしていないのだから、畑作特有の害虫も少ないのではなかろうか。だから完全無農薬でも虫食いの少ない野菜ができている。いわゆる畑作地帯ではなく、近くに家庭菜園もないという絶好の場所で、しかも稲作と畑作の輪作も心がけているのだから、完全無農薬が十分可能だろう。地中の害虫も、ぞろぞろはってくる害虫も、飛んでくる害虫も、少ないのではなかろうか。


 日本有機農業研究会の幹事でもあり著名な、埼玉県、小川町の金子美登さんの所で研修を受け、その後、金子さんの紹介でアジア学院に行き、そこから海外へ派遣されたりした後、地元の倉敷市に帰り、地元で就農できる場所を探した。人づてで、この御津町を紹介されて移り住んだのが29才の時であり、現在5年経過した34才。金子さんの霜里農場等で研修を受けた期間を合わせると、すでに農業経験は通算9年ほどになるそうだが、他の誰よりも農業への転身が早い。国立大学の工学部卒という学歴を20代の半ばであっさり捨てている。実家は非農家で、自身は小さい時に農業を近くで目にしていたこともなければ、もちろん経験もない。


 農業ができすぎる人だと思う。非農家出身でも、このように農業をビジネスにできる人もいて、そういう人を何人か知っているが、やはり彼らは、ごく少数派だと思う。こんなにやってのけれる人は少ない。


 できる人の農業は、他の人の参考にはあまりならない。どんな世界にも、びっくりするぐらいできる人はいるものだが、農業の世界でも同じである。果樹とか施設園芸とか酪農とか稲作とか野菜産地の農家には、ずば抜けた農業人が存在するのを知っているが、有機農業界でも、そういう人が岡山県内だけでも何人かいる。何かだんだん格差が広がり、敷居が高くなるような気もするが、夏の田んぼの「突撃取材?」をまたお願いして帰った。


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定年帰農者の楽しみ

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   3年前に始めて国内で発生した鳥インフルエンザの騒ぎ以降は、定年帰農者の「楽しみとしての20~30羽養鶏の道」をふさいでしまったような気がする。

 
 原因がまだわかっていないので、やっぱり怖い。自分のところが発生源にだけはなりたくない。


 タマゴに特定の顧客はいないが、野菜やハーブの顧客は、自分のニワトリが発生源になったりしたら、もう買ってはくれない。もちろんニワトリももう飼えない。でもこればっかりは防ぎようがない。一般的には2つの考え方があり、


(1)さらに厳重に外部との接触を遮断した状態に、ニワトリを閉じ込めること。


(2)上とは対照的に、太陽の光がさんさんと入り、風通しのよい鶏舎で、青菜をたっぷり与えること。できれば広い遊び場があること。


 相反する考え方ではあるが、鳥インフルエンザと戦うには、どちらかの方法だと思う。(1)にするなら、より多くの消毒や抗菌剤の多用につながると思う。大規模に大羽数を飼う方法は、効率や採算の面では確かに良いシステムだろうが、動物の命の安全や、卵や肉の安全を考えたら反比例する。まるで工場生産である。でも自分のような飼い方をしていたのでは、採算もへったくれもあったもんじゃない。単なる趣味と言われても仕方がない。大規模養鶏が否定されたら、世界的に「タマゴ飢饉」が生じる。


 左の画像は、タマゴを産んで巣箱から出ようとしているところ。4つ巣箱があるが、なぜか、一番右の巣箱だけにタマゴを産んでいることが多い。すでにタマゴを産んでいる巣箱に入るというのがニワトリの習性かもしれない。
 
 真ん中の画像は、エサをばらまいてから、入り口の外から写した。エサをばらまくと、エサに注意がいって、ちょっとなら入り口の扉を開けていても、逃げ出したりしない。一定の生活圏というものもあるのか、扉を開けておくと、一瞬、きょとんとした状態で「おやっ」というような表情をする。


 エサは鳥小屋の地面にばらまく。別にエサ箱を置こうが置くまいが同じである。ニワトリは、少々は土や自分の糞も食べるようだから。


 鳥インフルエンザが岡山県に発生したからといって、そんなに、ニワトリにかまってはいられない。ニワトリだけに時間をかけることはできない。いつも通りの世話をするだけである。でも今はとても気になる。ニワトリは、


(1)ブログにいつもネタを提供してくれる。「有蓄小農複合自給」という自分の農業の柱でもある。


(2)田んぼにニワトリがいる風景はなごむ。


(3)出荷できなかった「くず野菜」をすべて食べてくれる。自分が丹精込めて育てた野菜のどんな一片たりとも無駄にせずに、ニワトリが平らげてくれるのが、とてもうれしい。


(4)家から出る多少の食べ残り(あまり出ないが)も、ニワトリがきれいに食べてくれる。


(5)何といっても、自分が育てているニワトリのタマゴを食べれるのがうれしい。


(6)1年に1度しか前だし(トリ小屋から外に出す)しないが、鶏糞は、とてもよい肥料になる。でも菜食主義で育てているので、窒素分が少なく、実際の所は肥料効果は少ない。


(7)時々鳴くオンドリの声になごまされる。メンドリは鳴かないが、タマゴを産んだ時とか、お昼時とか、気分のよい時などに、「コウーコッコッー」と、目立たない声で少し鳴く。


(8)「リサイクルの要」になってくれている。牛(主に草食)や豚(雑食)はちょっと図体が大きくて手に負えないし、ヤギは昔から我が家では飼ったことがないので詳しく知らないが、ニワトリほど雑食ではなく草食だと思う。ウサギ(草食)もよいが、ウサギは穴を掘って、小屋の外に逃げ出しそうな気がする。この中ではやっぱりニワトリが一番飼い易い(利用範囲が広い)ように思う。


(9)5年間飼う(あと3年ちょっと)予定なので、その頃には肉はしわくなっていて食べづらいが、いざ食糧難という事態になれば、タマゴだけでなく、肉も食べれる。ボクが子供の頃には「家でつぶしたニワトリ肉」は、めったに食べれないごちそうだった。


(10)約半年間で、タマゴを産みだす成鶏となるが、ヒヨコ時代の2~3ヶ月間はとてもかわいい。2年前にブログを始めていたら、ヒヨコが載せれたのに。


(11)45年ほど前までは、どこの家でも軒先のような所で20~30羽ほど飼っていたが、今は誰も飼わなくなったので、家のまわりでは飼えない。菜食主義にして、風通しがよければ、鶏糞はほとんど臭わないが、「臭うという先入観」を持っている人が多いから。


(12)ニワトリを飼っていると、2泊はあけづらい。家人に頼んでも、自分のトリ小屋は外からエサを与えるのではなく、小屋の中に入ってエサを与えるので、慣れていないと怖いかもしれない。オンドリがいるのでなおさら。今回導入した時は作戦を考えて、2羽のオンドリにはヒヨコ時代に「エサをやる時にちょっと触る」というスキンシップをとったので、とびかかってきたりすることはなく、とてもやさしいオンドリであるが。



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池の水

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 先日の日曜日に、集落総出の、池の土手の草刈があった。だから土手がきれいになった。1年に1回、この時期に草刈をする。小学校を卒業するまでずっとこの池で泳いでいた。「すり鉢型」の池だが、水が上流から流れ込む地点は急に深くはなっていなかった。しかし、高校生の頃、この池の上流に牧場が誘致されて以後は池も川も全く以前の様相はなくなった。牧場がつぶれた後、長らく放置されてから、県の事業で「美しい森」に変わった。2億円ほどの造成工事だったと記憶している。確か、竹下登が首相だった頃に「ふるさと創生事業」の一環として全国にこの種の事業が、ばら撒かれたらしい。


 
 牧場ができる以前は、この池と、上流にあるダムと、そのもう一つ上流にある池の3つで、このあたり一帯の稲作の水は賄われていたが、牧場を誘致した時に山を切り開いてたくさんの木を切ってしまったので、保水力がなくなってしまった。それ以後は、池二つとダム一つでは、稲作の水が賄えなくなった。そのため、岡山三大河川の一つである、近くの吉井川から、水を引っ張って、この池に「ポンプアップ」する設備ができた。この池の水がきれいでないという理由がわかってもらえたでしょうか。日照りが続いて稲作用の水が足らなくなった時は、ポンプアップされる。つまり上流から流れてくる水だけではないということです。


 
 ああ、土建国家日本。土建業者は牧場の開発で儲け、山の保水力がなくなり、大雨で池の堤防の一部が水漏れし、堤防の大改修で儲け、吉井川からポンプアップする施工で儲け、牧場跡地の「美しい森」造成事業で儲け、牧場や美しい森へ通じる道を拡大改修することで儲けた。


 
 現在の自分は、池の水にあまり依存することはない。家の簡易水道(山水)の水を16リットル容器に入れて持ってきて、収穫した野菜はジョロで打ち水(出荷日のみ)し、ニワトリの飲み水に使っている。その他、夏野菜の散水は、田んぼに掘った「井戸水」を利用している。メタン菌液肥に使う水も井戸水をポンプアップしている。井戸を作る前には、この池の水に依存していて、夏に日照りが続いた時、稲の水係りの人と、ちょっともめてしまった。結果的にそのことが井戸につながったが、あの時、井戸を作って(27万円かかった)おいて(井戸の水源が見つかって)、現在、本当に助かっている。
 
 
 池の水は、稲に水が必要な6月15日~9月20日頃の3ヶ月間しか「池のヒ」は抜かれないので、田んぼのそばの細い水路に水が流れるのはその期間だけである。でもここ7~8年は、秋冬作に最も水が必要な9月中旬~10月中下旬の1ヶ月間に「秋雨前線」が停滞せず、雨がほとんど降ってくれない年がしばしばある。この時に井戸水が大活躍してくれる。それと、メタン菌液肥はいつでも必要な水が確保できないと作れない。


 
 この井戸水も「いつもきれいな水」というわけではない。1年中、水が枯れることはなく、使いたい時に十分使えるだけの水はあるが、深さが4メートルほどの簡易井戸であり、6月15日~9月20日の3ヶ月間は、井戸から5メートルほど離れた所にある田んぼのそばの細い水路の水が、地中の水道(みずみち)を通って井戸に多少流れ込むようである。だからこの3ヶ月間は水位が少し高くなる。


 
 夏に日照りが続く場合には、池の水は稲作が優先されるので、畑作の場合は、水をどうやって確保するかという問題が生じてくる。野菜産地の場合はたいてい「畑灌設備」ができていているので、日照りは困らない。多雨が困るだけである。


 
 農業を始めたばかりの時は、水のことまで頭がまわらないと思う。自分が井戸を作ったのは9年目の秋だった。肥料のほとんどが「メタン菌液肥」になったのは13年目頃からだった。


 
 メタン菌液肥のことを最近書いていないのは、11月~3月中下旬頃まで、メタン菌は休眠しているからです。メタン菌は35度の時、最も活動します。よく画像に写っている物置のそばのブルーシートの下に500リットルタンク2つと50リットルタンク8つがあります。10月末にタマネギや春キャベツの元肥に利用した後は、他に肥料を施すことはほとんどなく、次は3月中下旬の春ジャガイモを植え付ける頃からまた液肥を利用します。


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プロフィール

水田祐助

Author:水田祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在55才、農業歴19年目。農業形態は野菜とハーブのワンパック宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ30羽。25年ほど農業とは無縁だったが、ボクが子供の頃は、家は葉タバコ農家だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

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