
鳥インフルエンザには負けない。もちろん飼い続ける。ヒヨコ時代からまだ1羽も死んでいない。これは奇跡的である。2羽、逃げ出したことがあるが、1羽は当日に、もう1羽は2日後に捕まえることができた。メンドリ30羽、購入時のおまけ1羽、オンドリ2羽、合計で33羽。5月26日でまる2年が来る。鳥インフルエンザなどで1羽たりとも亡くすわけにはいかない
でも今日身辺整理をした。「見えない菌」と戦うわけだから、万が一ということも考えなければならない。身辺整理といっても、ちょっと物置を片付けただけ。春、夏、秋の農繁期はなかなか片付けができず、物置の中が「どんでんがえし」になっていたので、この農閑期を利用して片付けを始めた。今日は半分までしか進まなかった。ポリとか黒マルチとか破れたブルーシートなどは、まとめて産業廃棄物処理業者に1キロ50円で引き取ってもらう。去年、一昨年とも70キロ、3500円ほどかかっているので、今年もそれくらいになるだろう。田んぼの物置が片付いたら、家の納屋も片付けるつもりでいる。
ニワトリはとても元気である。ボクの姿を見つけると、止まり木から、まるで飛ぶようにして、鶏舎の入り口の金網の所に集まってくる。そして入り口の所で「ぐるぐるまわり」をしながら出迎えてくれる。
今、自分が最も重要視していることは「青菜を切らさないこと」。鳥インフルエンザと戦う方法は、これしか思い浮かばない。とにかく、太陽の光をたっぷり浴びた青菜をたらふく与えて、鳥インフルエンザ菌を「撃退」させること。青菜のビタミンや鉄分が、必ずや、鳥インフルエンザ菌と戦ってくれると思っている。だから、いつもよりちょっと多めに、そしてニンジンも3~4本は欠かさず与えている。
真冬でも9時頃から朝の太陽があたり始め、1日中、鶏舎内に太陽の光が差し込む。そして、真冬でも四面オール開放にして風通しをよくしている。たった4坪半の自由でしかないけれど、きっと戦ってくれるだろう。でも1度だけ負けたことがある。「コクシジウム」という病気だった。あの時は自分に慢心があったと思う。
病気の原因は
(1)エサ
(2)水
(3)気象
の3つしか考えられないと家畜保健衛生所の指導員に言われた。エサが腐っていたように思う。
我が家は兵庫県寄りにあり、鳥インフルエンザが発生した高梁市川上町は広島県境に近い。だから岡山県でもかなり離れてはいる。でも、川上町にはニワトリを飼っている2人の友人がいる。1人は100羽ほどで、もう1人は400~500羽である。400~500羽飼っている人は養鶏が生計の柱であるから、どうしているだろう。今はまだ電話はできない。
やはり1万羽以上飼う「高度資本主義的飼い方」はニワトリに残酷だと思う。鳥インフルエンザが発生したら、全部処分されるのだから、あまりにかわいそう。できうるならば、昔ながらの「30羽養鶏」に戻して、危険分散をして欲しい。
ボクがどんな飼い方をしているか、カテゴリーの中の「ニワトリ」を読んでもらえれば、わかると思う。画像もしばしば載せているので、どういう場所で飼っているかもわかってもらえると思う。こんな飼い方で、鳥インフルエンザに負けたりするだろうか。
一昔前型の飼い方をしている自分のニワトリが負けたりしたら、他の誰もニワトリが飼えなくなる。
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農業を始めてから、「農業高校へ行っておけばよかった」とか「大学の農学部へ行っておけばよかった」などと思ったことは1度もない。逆に、農業のことを全く知らなかったから、農業がとても新鮮に感じた。少しでも農業のことをかじっていたら、「農業のひらめき」はなかったと思う。 農業をする上で必要になったことは、必要になった時に教えてもらうなり、調べるなりしたらよいのである。あまり必要でないこと、日常の農業であまり使わないことを机上で勉強しても、役には立たないし、そんなものは覚えてもすぐに忘れる。パソコンを覚えるのと全く同じである。
大体、得意なことや、さほど不得意でないことは、学校などで教えてもらわなくても、雑誌や本などで独力で学ぶことができる。
農業上必要であるにもかかわらず、不得意なこともある。そんな場合は、できるだけ短期に、集中的に、何回も反復して、特訓を受けておく必要がある。そうしないと、できない、不得意、やめとこう・・・で、ずるずると5~10年が過ぎてしまうことさえある。ボクがその良い例である。学校は全く必要ないが、自分にとって次のようなことだけは、マスターする「機関」のようなものがあれば助かったと思う。
(1)紐結び・・・農業では必要な場面が結構よく出てくる。
(2)草刈機の刃の研ぎ方
(3)チェーンソーの刃の研ぎ方・・・チェーンソーが使えると便利なのに未だに使えない。
(4)ごく簡単なトリ小屋の作り方や簡単な雨よけの屋根の作り方
(5)竹や雑木を切る時のナタの使い方、購入すべきナタ、そしてナタの研ぎ方
(6)電気柵の張り方、どこで買ったらいいか。電気柵以外の簡便な防御方法
(7)ニワトリのつぶし方・・・淘汰の時、知っておくと便利
(8)キュウリやニガウリの簡便な支柱立ての方法・・・恥ずかしながら、未だに支柱作物が苦手。
(9)乗用トラクタの耕運の仕方、オイルの交換方法、簡単な整備
(10)大雨で田んぼの畝間に水がたまった時の排水方法
(11)春先の温床作り
机上の学習は必要なくても、現場で上記の場面に遭遇することは多い。自分の場合は未だに半分以上ができない。逆に不得意でないことは、教えてもらわなくても、知らん間にできてしまうのである。
農業の経験が全くないなら、ニューファーマーズ系ならスペシャリスト農家、有機農業系なら有機農家で1年間ほど研修を受けた方がよいかもしれない。これはあまり役に立たず、無茶苦茶でよいから「やりながら、わからない所を教えてもらう」というのが、最も近道だが、農業が白紙だと、どう無茶苦茶にしてよいのかもわからないかも知れない。
研修を受けるにしても1年が限度と考えた方がよい。準備期間をあまり長く持つのも考え物である。そして、独立してやり始めてから2年(3年もかけれない)ほどで「形にする」ことができなければ、もうタイムリミットと考えた方がよい。どんな世界に進出しても、資格試験をめざすにしても、大切なことは「期限付きで進める」ことだと思う。その期限内に「形にする」ことができなければ、自分には縁がなかったんだと考え、早く次の形態を考えた方がよい。例えば有機農業のワンパックなら、期限内に、野菜がうまく作れるようにならなかったり、必要数の顧客を確保できなかったりした場合である。そんな場合は、田舎暮らしは続ける(サラリーマンへの復帰は困難)にしても、農業以外の収入の道を探す(農業収入もアルバイト収入もあまり変わらない)等である。このへんの判断をすばやくして、だらだらと一つのことに固執してはいけないと思う。
自分は知恵が全く働かないタイプである。右脳だか左脳だか知らないが、どちらかが全く機能してくれない。無人島に取り残されたら、真っ先に死ぬタイプである。終戦後何十年も経過してから、グアム島のジャングルで見つかった横井庄一さんはとても「知恵者」だったんだろうと思う。
自分の場合は川に魚がいても、
(1)網がないから捕れない
(2)釣竿がないから釣れない
(3)エサがないから釣れない
と考えて発狂するかもしれない。
横井庄一さんなら
(1)網がないから、網を何とかして作ろう。
(2)竹がないが、釣竿は何を利用して作ろうか
(3)エサに代用できるものはないだろうか
というふうに考え続けるのだろう。
過疎の山村で住み続けるには、横井庄一さん的な能力があった方が都合がよい。それが全くなければ、
(1)すぐに人に依頼する
(2)手っ取り早くカネで解決する
(3)ずるずるとそのままにして先延ばしする
(4)そういう事態が多く発生するところに住みたくない
というような「悪循環」を繰り返す恐れもある。
農業も考えてみれば、サラリーマンという船が座礁して無人島に打ち上げられたような状態である。農業の現場では横井庄一さん型が望まれる。でも横井庄一さん型は、作物を作り上げるまでの能力。独立自営業の農業では作り上げた次の段階がまだまだ続くのである。
(1)作物をできるだけ手早に収穫する能力。
(2)ワンパックなら、納品書、送り状等の事務スピード。納品書と現物を間違えないようにして、スピード箱詰め
(3)その前に売り先を探す必要がある(営業力)。
自分の場合は作り上げるまでの能力で平均点をかなり下げ、収穫作業以降の作業で何とか平均点近くまで取り返し、百姓ボーダーライン上で何とか農業を続けているといった現状である。
ワンパックを「形にする」のはこれらの総合力である。1位めざして挑戦中→

画像は左からターサイ、冬越しのソラマメ、冬越しの小麦です。不耕起栽培は、1度畝立てをすると、それを崩さずに、作物の周辺に生えた草は鎌や草刈機で刈り、作物のまわりにその草を敷き藁代わりに置くという方法です。
この地にWさんが移住して来られて、もうすぐ1年がくる。何かWさんが、この地にフィットしているような感じがして、とてもうれしい。Wさんは自分より一回り以上年下であるし、これくらいの年齢の方が、こんな山村に継続して住み続けることができるなら、これは一つの模範例になるのではないかと思う。Wさんさえ了解してくれるなら、Wさんの春夏秋冬の自給自足の状況と、経済的側面を継続的にブログで紹介していきたい。
30代半ばというのは、職業人生の大きな節目になるのではなかろうか。まだまだやり直しのできる年齢であるし、第2の職業人生をスタートするのも、30代半ばという年齢に多いと思う。自分も突然農業がひらめいたのは35才の時であり、実際に転身したのはその2年後の37才の直前だった。農業がひらめいたのは幸運だったと今でも思う。確かに農業は、何の肩書きも何の地位も安定した収入も何にもないが、生きることの原点のような職業である。
迷える30代半ばの人たちに「こんな人生もあるよ」と、過疎の山村で生きるという、新しい選択肢を提示できたらいいなと思う。
(1)そんなに無理をしなくていい、そんなに稼がなくても生きていける道があるよ
(2)サラリーマンという組織からドロップアウトしても、何とか生きていけるよ
(3)60才のリタイアでなく、35才のリタイアという新しい選択肢もあるよ
(4)サラリーマンの脱落者でもよい。組織からの逃亡者でもよい。たった一人になっても生きていける道があるよ
(5)1年間、50~60万の生活費で、過疎の山村という手もあるよ
(6)65才からもらえる予定の国民年金も、10年後は年間50万ほどにしかならないだろう。その範囲内で生活せざるをえないのではなかろうか
Wさんがそんな生き様の模範例になってくれるといいなあ・・・。そしてずっと、その自給自足の方法を追跡取材したい。でも、こればっかりはWさんの人生だから、どう転回していくのかわからない。多分まだ、Wさん自身にも見えていないのだと思う。今はまだ、この地でとにかく生活していくことに精一杯で、あたりを見回す余裕はないだろう。暮らしていく間に、道ができて、試行錯誤しながら自分の道がだんだんと見えてくるようになるのではなかろうか。
農業だけやっていたのでは、活路は開けてこないと思う。塩見さんが提唱されている「半農半X」の、Xを見つける必要がある。自分が夢中になれるものだったらXは何でもよい。自分も、ワンパック宅配という農業形態の必要にせまられて始めたミニコミ(あめんぼ通信)が、16年という歳月の間に、いつのまにか自分の半Xになっていたことに気付いた。そして、昼間は農業、夜はあめんぼ通信(ブログ)という好循環な習慣ができ、自分がそれに夢中になることができている。Wさんの場合のそれは、今は年に6回、奈良の川口さんの自然農塾で漢方を学ぶことなのだろう。
ボク自身は、農業で稼げている人(生活がまわっている人)にはあまり興味がなくて、農業がなかなか軌道にのらない人、農業であまり稼げていない人、農業以外の収入で田舎暮らしをまわしている人に、より関心がある。自分がそうであるからだろう。
農業を主体にしなくても、何らかの形で50~60万円ほど稼げれば、山村でも生きていけるという道筋がブログで紹介できたらいいなと思うが、自分自身がそうできていないし、Wさん自身のこの地でのそういう生活も、緒に付いたばかりなので、これからWさんの生活がどう展開し、そして自分自身がそれをどこまで伝えることができるかだと思う。
いろんな人を取材させて頂くことも楽しいが、同じ人を繰り返し繰り返し紹介させて頂く事も意義深いと思う。
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Wさんがお借りした家は古い農家屋なので、古くからの農具が置かれています。左の画像は家の北側(裏側)ですが、中央あたりに、牛に田んぼを引かせるための「ウシンガ」という農具が見えます。これは自分も、使っているのを見た記憶が残っていますが、左上の刃がついた農具は我が家にも残っているのに、何に使う農具かよく知りません。その下に薪(割り木)が置いてあります。昔はどこの家にもこんな「割り木置き場」があった。当時はまだガスはなく、おかずやご飯炊きは「クド」に割り木を「くべて」いた。「くべる」という言葉を知らない若い人も多いでしょうが、「くべる」とは火を燃やすために「クド」に割り木などを入れることを「くべる」と言っていました。
真ん中の画像は家の西側です。「稲足」がたくさん置かれています。「いなあし」といいます。「いねあし」とは言いません。鎌で刈った稲を一度これに「はざかけ(稲足は、はざかけの長い棒を渡す時の3本足の役目をします)」して、天日乾燥させてから脱穀をします。これは「もろまつの木」です。稲足の多くは「もろまつの木」を利用すると聞いたことがあります。確か、もろまつの木はクリスマスツリーの木にも利用しました。この稲足はたいそう丈夫で長持ちがするので、多分この画像の稲足も少なくとも40年以上前に作られたものです。もっと古く50~70年の月日が流れているかもしれません。びくともしていません。
右の画像は農具置き場です。これは母屋の東側にある納屋の軒先です。これは現在でも使われている農具です。農具の形は45年前と全く変わっていません。この納屋は「藁屋根」だったことが、納屋の天井を見るとわかります。
古い農家屋を見ると、45年程前の自分の子供時代が思い出されて懐かしくなります。納屋に「ウシマヤ」だったなごりがはっきり残っています。「ウシマヤ」とは牛が飼われていた小屋のことです。45年ほど前までは、どこの家でも、たいてい1頭の黒牛が飼われていました。もっと以前は耕運用、その後は肉牛として飼われたようです。

無肥料なのに、りっぱなカブや赤ダイコン、赤茎ホウレンソウができています。前にこの田んぼを作っていた人は酪農家なので、堆肥がたくさん入っているんだと思います。不耕起栽培だから、草の中で育っているという感じです。ダイコンとカブはたくさん作付していて、まだかなり残っています。Wさんが、
(1)どうやって売るか
(2)どうやって、これらの野菜をうまく利用して、今期につなげるか
これはWさんの「営業力」次第です。売ることは作ることより難しいというのが、ワンパック農家の共通認識と思います。もちろんこれくらいの作付量では市場からは相手にされません。独力で売るしかありません。「売ること」に関しては助言のしようがありません。地道に「ただがむしゃらに」販路を探していくしかありません。自分の場合は、イタリア料理店からの口コミの紹介もありますが、それでも、顧客が多すぎて、ハーブや野菜が足らないという状況には、1度もなったことはありません。
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Wさんの田んぼは、画像でわかるように、かなり急勾配な場所にあります。しかし、田んぼ自体はさほど斜面ではなくて、おおむね平面です。
Wさんはお1人ですが、年間40万円ほどあれば、生活が楽にまわっていくと言われます。具体的に説明すると、
水代・・・上水道はなく、水は山の湧き水を引いているので無料。
暖房費・・・冬でも灯油などのストーブを使っていないので暖房費が無料。Wさんは化学物質過敏症なので、石油ストーブは使えない。
電話代・・・携帯電話は持っていない。電話代は月間1600円ほどですんでいるらしい。
新聞代・・・購入していない。
プロパンガス代・・・8キロボンベの買取で、年間2600円ほどで収まるらしい。
下肥・・・堆肥にしていると思ったら、衛生業者に取りに来てもらっていると言われる。年間2500円ほど。
インターネットのプロバイダ代金・・・年間に12000円。
ガソリン代・・・あまり遠出をしないようにしているらしい。年間走行距離は3000キロほどでガソリン代は26000円ほどらしい。他に車の任意保険料15000円、車の税金4000円、車検代50000円。
借地借家代・・・大家さんが安くしてくれて月間3000円。かなり大きな屋敷で日当たりもよい。
電気代・・・月間1400円ほど。
田舎暮らしで一番問題になるのはこの「ライフラインの金額の高さ」だと思うが、Wさんは、この点が徹底的に節約できている。携帯電話を持っていない(ボクも不必要なので持っていない)とか、新聞を購入しないとか、水代がかからないとか・・・。それと車をできるだけ使わないようにしていると言われる。
次に問題になるのは食生活であるが、化学物質過敏症なので、市販の物はあまり買っていないらしい。野菜は自分が作ったものであるが、Wさんはここに、特筆すべき特色がある。
(1)種の多くは自分で種取り
(2)肥料は他所から持ち込まない。無肥料栽培。
(3)田んぼは耕さない、不耕起栽培。草との草生栽培という自然農法
つまりWさんの考えは「時間はかけるがカネはかけない」というやり方。一般の農業者とは逆の考え方である。一般的に現代人は、多少カネはかかっても、時間をかけないということを重要視すると思うが、山の上の過疎の山村で生き抜くには、そんな平野部(従来の)考え方をしていては、生活がうまくまわらないと言われる。
Wさんは東京の一流大学を出た(農業者としては、そんなレッテルなど何の役にも立たないが)インテリである。知性と哲学があるからこそ、こんな山村でも生き抜いていけるのである。社会人を経て27才の時に入学し、入学した3日後に交通事故にあい、化学物質過敏症を発症した。そんな過酷な運命に見舞われなかったら、この人ほどの才能なら、一般社会で相応の地位に上っていただろう。その病気のために都会では住み続けることができなくなり、先の見えない日々をおくっていた頃、田舎暮らしの物件紹介の各県主催のイベントに出向き、千葉から高知へと転出していった。32才の時である。
朝の食事は抜きで、昼と夜の食事をする。去年は移って来て1年目だったので、米を作ることができず、食べる米がないので、今はサトイモを蒸して主食にし、野菜の青汁を毎日飲んでいるらしい。
年間40万円もあれば、ゆったりと生活していけると言われる。でも仙人のような生活をしているわけではなく、このうちの15万円は、2ヶ月に1回、奈良の川口さんの自然農塾で、現在は「漢方」の勉強をしているらしい。15万円というのは、年に6回の旅費と宿泊学習費らしい。だから40万円-15万円=25万円で、1年間生活をしているのである。これこそ「田舎暮らしの才能のある人」なのである。この集落では、家は点在していて、高齢化で人は少ないので、1日、誰とも話す機会がないことも多いと思えるが、
(1)孤独力に強い人。
(2)ちょっとだけ器用な人。Wさんはチェーンソーが使えるし、チェーンソーや草刈機の刃が自分で研げる。
(3)食事を楽しめる人。たとえば、米を食べなければならないという意識ではなく、米がなければ、サトイモやサツマイモを蒸したイモ類を主食にする。多くの野菜の調理を楽しむ。菜食主義ではないようだが、主体は菜食。
(4)質素にするのではなく、山村暮らしを楽しむという発想。
(5)ガスや灯油ではなく、主に薪(割り木)を利用している。風呂は割り木で沸かしている。亡くなった大家さんのお父さんが、数年間は使える割り木を残してくれている。
(6)肥料は入れないのだから買う必要はない。種は種取りしているので、買うのは少量。不耕起栽培だから、トラクタ類もいらないし、それらにかかる燃料代とか修理費もいらない。
(7)ホームゴタツも置いていない。寒かったら着込むと言われる。寝る前に風呂に入り、風呂上りはすぐに寝るらしい。
(8)ここではイノシシが頻発するので、電気柵は必須。電柵も器用に張る。この(8)と(2)は田舎暮らしの必須用件なので、苦手なら、徹底した反復訓練と指導を受けてマスターする必要がある。
(9)(1)の孤独力にも通じるが、このような過疎の山村で暮らすには、自分なりの確固とした人生観なり哲学なりが必要である。現在は、本を買ったり、図書館を利用したりしなくても、たいていはインターネットで調べたり、学習したりできる。情報を利用する力さえあれば、大都会に住もうが、山村に住もうが情報格差は生じない。
(10)卒業してすでに10年が過ぎているのに、中学レベルの5教科と、高校の数学なら家庭教師ができると言われる。すごい。週に1回アルバイトをすれば、月間で4万円。年収で50万円ほどになる。Wさんの暮らし方では、これだけ収入があれば十分なのである。
ライフラインにかかる金額は大都会も過疎の山村も同じであるが、Wさんのように、上水道を利用せず、下水道のない地域に住み(合成洗剤は使わない)、ガス、灯油をほとんど使わず、携帯電話を持たず、電気代はほとんど基本料金で収まり、必要な情報はインターネットを利用し、車の利用は控え、大家さんが親切で借家料は安くてすんでいる。
今、田舎の過疎の山村では、人を介して探せば、月間5千円ほどで貸してもらえる1軒家が相当あると思う。もちろん、田んぼは無料で貸してもらえる。ただし、イノシシやシカが頻繁に出没するので、電気柵は必須であり、電気柵でも防げない場合もあるようです。これにかかるエネルギーと手間とカネはかなりなものであると覚悟する必要があります。
Wさんは1人だからできていると考えることもできますが、夫婦で価値観が同じであり、どちらかが、家庭教師とかパソコンの個人教授ができたり、他のアルバイトの口があるなら、農業だけに依存しなくても、田舎暮らしの可能な道が開けてくるような気がします。
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ボクがWさんと出会ったのも「不思議な出会いの縁」を感じるが、まさかそのWさんが、この地に入植して来られるとは、5年前には想像もしなかった。そして、自分自身がこの地の○○さんと出会ったことも、思えば不思議な出会いだった。運命の糸に操られて、16年という空白の歳月を経て、またこの集落が自分の人生に再登場することになった。
「現代農業」という農業雑誌を見て、初めてこの地を訪れたのは、農業をスタートする前の、今から17年前のことだった。スタートする前の2ヶ月ほど、この地で有機農業の研修を受けた。指導をしてもらった○○さんは、出会いから2年も経たないうちに病気で亡くなられた。その後、16年もご無沙汰してしまっていた。
Wさんと出会ったのは、あめんぼ通信(あめんぼ百姓塾)というホームページを作ってもらってまもなく、当時、高知県に住んでいたWさんがメールをくれたことに始まる。5年後、そのWさんから、新たな移住地を探しているというメールが入った。単なる「メル友」だったのに、紹介したこの村をWさんが気に入り、引っ越して来られることになった。
今日、そのWさんの家に遊びに行って来た。引っ越して来られた日と、7月と、そして今日が3回目である。もっとしばしば顔を出して、話し相手になれればよかったが、忙しくて、この農閑期まで来れなかった。
今日、久しぶりにまたWさんを訪問して、「過疎の山村で楽しく田舎暮らしを組み立てることができる、田舎暮らしの才能がある人」という印象を強くした。田舎暮らしが向く人、向かない人、田舎暮らしの才能がある人、ない人があるように思う。
Wさんは、前住所地の高知県では、田舎暮らしがうまくいかなかったのだろう。うまくいけば当然その場所にとどまっただろうから。でも今日、田んぼを隅々まで案内してもらい、いろいろ話を聞かせてもらって、この人は「田舎暮らしにとても才能のある人」と思った。なぜかうれしかった。高知県で6年間の田舎暮らしの経験があるから、第2の移住地のこの村でうまくいっているのかも知れない。一朝一夕ではいかなかっただろう。そのWさんがこの地に来てまだ1年にもならないのに、すでに根をおろしているのが、田んぼの野菜や周囲の風景を見てわかった。自分が仲立ちしたにもかかわらず、その後、ろくに訪問もせず、そして、かなり不便なこの過疎の山村で、実際に生活がまわっていくだろうかと、半信半疑だったのに、生活をやってのけている。まだ40才という若さである。ボクの固定観念をふっとばすような、Wさんの「軽やかな自給自足」・・・明日に続く。
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1月下旬の今の時期の出荷作業はかなり手間取る。ネギやホウレンソウは霜で黄変した部分を取り除く必要があるし、摘み取り収穫の多いハーブは伸びが悪いので、夏の2倍ほど収穫に時間がかかる。「夏に稼いでおかないと、冬には稼げない」と話す友人がいたが、少し納得。でも出荷があるのはありがたい。お客様は神様です。
例年なら2月末まで送っているが、今年はアブラナ科四天王(ハクサイ、キャベツ、ダイコン、カブ)の失敗で、ワンパックは2月上旬で終わる。画像のように、野菜が残り少ない。左の画像のホウレンソウが少々と、真ん中の画像の、キャベツ、ネギ等である。お粗末な田んぼ・・・でも例年とそんなに変わらない。
出荷がない日は、取り立てて忙しい農作業はない。だから、田んぼに急いで出る必要はない。でも今朝はあまり霜が降りていなかったので、9時過ぎに田んぼに出た。タマネギの畝間の通路の草取りをしたり、キーウイの木の剪定を少ししたり、冬越しのソラマメの畝の草取りをして敷き藁をしたり、残りのヤーコンを掘ったりした。
冬の今の時期は、近所の家庭菜園の人は、あまり田んぼに出てこない。田んぼに出ても、収穫くらいで、農作業はほとんど何もない。だから、田んぼの見回りとか散歩がてらに出てきても、すぐに帰っていく。
田んぼに人影がちらほら見え出すのは、春一番の農作業である「春ジャガイモの植え付け」をする3月中旬頃からである。
自分の場合は全部で4反(40アール)ほどの田んぼがあるので、厳寒期でも、田んぼに出れば、何かとすることがある。フゴ一杯の青菜をニワトリに与えることも毎日の日課である。青菜が少なくなる時期なので、4反の面積があっても、フゴ一杯の青菜を集めるのに手間がかかる。多く与えていると、2月末頃までに青菜がなくなってしまう。次に青菜(雑草)が伸びてくるのは4月上旬なので、計画的に青菜をやる必要がある。例年なら、ハクサイ、キャベツの外葉やダイコン、カブの葉がいくらでもあるが、今年はそれらが少ない。
昼からどうしようかなあと思ったが、田んぼには出ずに、ブログに向かっている。外は穏やかなよい天気なのに、こんな真昼間から、こんなことをしていていいのだろうかと、後ろめたい気持ちもあるが、昼間にブログを打つのは久しぶりだから・・・。同じ2時間を費やすのに、午後1時半~午後3時半を費やしても、夜7時~9時を費やしても、同じことのように思うが、貧乏性の自分は、昼間は生産労働の時間と考えている。夜だったら、別にテレビを見ようが、酒を飲んでほろ酔い加減になろうが、キーボードに向かおうが、個人の勝手である。夜の時間帯は案外と長い。今は日が暮れるのも早いので、夕飯もそれだけ早く、夜7時ごろにはたいてい食べ終わっている。長い夜が7時~11時頃まで4時間もある。だからゆったりした気分でキーボードに向かえそうに思うが、あまりそういうこともない。一定のスピードで入力をしようと思う。
ブログ時間を夜だけに固定してしまうと、どうも、頭がコチコチになって、作文の雰囲気が同じになってしまうので、今日は思い切って、昼間の2時間をあてることにした。
野菜も残り少なくなった。昨日の出荷は、サトイモ1キロ400円、ニンジン1キロ200円×2倍=400円、ネギ約500g150円、ホウレンソウ450グラム250円、巻かなかった小さなハクサイ2個で200円、大きくならなかった小型キャベツ2個で200円、例年の3分の1ほどのダイコン4本で200円、ヤーコン1キロ300円、ロケット少々100円、合計で2200円+送料800円=3000円のワンパックだった。他に、イタリアンパセリとチャービル(グルメのパセリ)をサービス品として少し加えた。
イタリア料理店には、ローズマリー、チャービル、イタリアンパセリを中心にロケット少々、セイジ少々を出荷した。ディルは霜で傷んで出荷できず、ミント類もこの時期になると寒さで茶色っぽくなり出荷しずらい。セイジも霜で傷んでいるので、少量しか出荷できないし、ロケットは「トウ立ち」が早く、寒さにあたると、葉が紫色に変色しやすい。
ハーブはハウス物が出回っているこの時期に、露地で少々傷んでいても買い続けてくれる顧客がいる。ワンパックの場合は、個人でも業務用でも「ファン」になってもらうことだと思う。
秋冬作のワンパックの場合、とにかくアブラナ科四天王さえ失敗しなければ、他の秋冬野菜はまず失敗しないので、ワンパックが組める。アブラナ科野菜は保存がきくので、×2倍出しでも問題ないと思う。アブラナ科野菜には、
(1)その害虫に効かない農薬は使っても無意味。
(2)規定量は使用しないと効かない場合がある。
(3)失敗して蒔き直しは時間的、場所的に困難になることが多い。ずらし蒔きは害虫の多い作物には適切でないと思う。1回でぴしゃりと決める
(4)毎年のことだから、1ヶ月ほど前から、害虫(自分の場合はダイコンサルハムシ)と戦うシミュレーションを繰り返しておく。
今3時。ここまで書く(打つ)のに1時間半ほどかかった。今日はこれで終わり。その後、田んぼに出た。
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画像で見ると、冬枯れの柿の木に不思議な存在感がある。毎日のように柿の木を見ている(見ているというより、目に映っている)し、柿の木のそばをよく通るが、枯れ木のような柿の木に気を止めることもないし、それに「美」を感じたりすることはもちろんない。でもデジカメで写し、それをパソコンのスライドショーで見ると、冬枯れの柿の木が、生き生きしているように美しく見える。肉眼で見ている時は、全く印象が薄いのに、画像にすると目がひきつけられる。確かに、平面的な田んぼに対して、柿の木は、落葉樹で葉が全部落ちていても、空に向かって伸びているので、画像の中ではポイントになっている。デジカメで写し始めてからよく感じることだが、なぜ、肉眼で見るのと、画像で見るのとでは、こんなにもイメージが違って見えるのだろう。
自分は今まで、写真に「美」を感じたことはないし、写真にはほとんど関心がなかったので、カメラも持ったことはなかった。しかし、ノートパソコンを買った時、プリンターとデジカメとノートパソコンは3点セットのように感じたので、いっしょに買った。そして、デジカメの使い方を覚えるために、毎月1回出していたあめんぼ通信を、ちょっと趣向を変えて、画像中心にして見ようと思った。それでも4月、5月、6月、7月はまだ、月に1~2回、デジカメで写すだけだった。3~4日に1度、デジカメで写すようになったのは、ブログを始めてからである。風景が美しいからでもなく、デジカメがおもしろくなったからでもなく、単に、ブログに必要だからひんぱんに写すようになった。言葉だけのブログではどうしても、殺風景だし、情報伝達の手段として、画像は言葉以上にインパクトが強い側面もある。今の自分は、言葉と画像は、ブログの両輪だと思っている。でも情熱を注いでいるのは言葉の方であり、画像はあくまで、言葉を補う側面です。だから、デジカメで写す時は、単なる情報伝達の一手段と割り切り、20~25分ほどで、65枚ほどを写す。実際にブログで利用できるのは、そのうち9枚ほどであり、多くても12枚です。これが3~4日に1度、小走りで写す(実際には走ったりしませんが、急いで写す)理由です。
言葉は、ブログの訪問者さんが感じた通りに受け取ってもらえると思うが、画像は、事実と違って伝わる恐れがあるような気がする。その理由は、肉眼で見る野菜や田んぼ風景と、画像を通して見る野菜や田んぼ風景では、画像で見た方が、かなり美しく見えるからです。何の変哲もない景色が、画像だとこんなにきれいに見えるのかと思えることが自分には多い。冬枯れの柿の木の画像などが、そのよい例です。肉眼と画像とが違って見えても、その日厳選した3枚であり、1ヶ月にすれば90枚、1年にすれば、1080枚も残っていくと思うととてもうれしい。何か財産のような気がする。
1年や2年でブログに限界が来たり、ねた切れしたりすることはないと思うが、3~4年という期限付きでがんばってみようと思う。3~4年、同じ事を毎日続けたら、少し充電期間が必要になってくるだろうし、マンネリ感にも襲われるだろう。その3~4年の間に「何らかの夢のオファー」もなく、また挫折したとしても、新たな目的がまた自分の中に芽生えてくると思う。
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池の土手下の田んぼに植えている2本の梅の木のつぼみが、大分ふくらんできた。春の訪れを告げる最初の息吹がこの梅の木かもしれない。古典や漢文の素養がちょっとでも自分にあったなら、この梅の木の下にたたずんでいると、古の人たちが詠んだ短歌や散文の断片が頭に浮かんで来て、1000年の時を越えて、感情を共有できるかもしれないのに、あいにく自分には、古人の梅の歌の数々が何一つ浮かんで来ない。
去年までなら、この時期はまだ、梅の木に注目することもなかったが、今年は数日前から、梅のつぼみをブログに載せようと待機していた。この日曜日には、集落総出の、池の土手の草刈がある。土手がきれいになると、土手周辺の風景がきれいになる。この池の土手からは、自分の田んぼが一望にできるが、この時期には、田んぼに植わっている野菜がほとんどなくなり、更地同然である。トリ小屋と物置の錆び付いたトタン屋根だけが、土手の上からは、やけに目立つ。このトリ小屋と物置は4月で築16年になるので、そろそろ屋根のトタン板だけは交換の時期が来ている。どちらもところどころ雨漏りがしているから。
池のヒを抜くと、画像のコンクリートの所に流れ出てきて、自分の田んぼのそばの細い水路を水が走る。ヒが抜かれるのは、稲に水が必要な6月15日~9月20日頃の3ヶ月間ほどである。土手の堤防が修復されてから、画像のようなコンクリートになってしまったが、それ以前は「石」でできていた。石だった当時は、ちょっと腰掛けたりして、いっぷくしたりすることも多かったが、コンクリートになってからは、人間を寄せ付けないような気配になった。コンクリートはいつまでたっても、周りの風景に馴染んだり、とけ込んだりすることはなく、いつも自然に対立的である。
ボクが梅の木を植える前は、父はこの畑で長くサツマイモだけを作り続けていたようである。池の土手下のこの田だけは、土の土質が他の田んぼの土質と違って、どちらかといえば「山土」に近い土質であり、田んぼで作るサツマイモより甘くておいしいのが入るという理由による。自分も数年、この畑で作ったが、すぐに、この面積では足らなくなり、もっと広い田んぼで作るようになった。その時に、梅の木を植えた。この場所なら、木が大きくなっても、他の田んぼの日陰にはならないから。
去年は2本の梅の木とも、ほとんど梅が成らなかった。梅の花もあまり咲いてなかったように思う。でも、一昨年に梅漬けをたくさん作っていたので、梅干には事欠いていない。一昨年には梅酒も作って、眠れない夜に飲もうと思っていたが、またほとんど減っていない。梅に「隔年結果」があるのかどうかよく知らないが、去年の冬は厳しい寒さが続いたので、その影響もあったかもしれない。それに反して今年の冬は暖冬である。大寒のこの時期でも、田んぼで動き回ると、上着を1枚脱ぐような温度である。
前置きが長くなったが、ここから今日の本論。
「大卒のホームレスがごろごろ」という時代がすでに到来しているのだと思う。一昔前はホームレスといえば、中高年の男性というのが常だったが、今は、20代、30代、40代、いずれの年代にも、その危険性がある。
以前は、かっこよく、時代を先取りする「ヒッピー」とかの呼び名で言われていたのも、あれは、高度成長社会の単なるお遊びであり、格差社会では、ヒッピー=ホームレスである。
ホームレスというのは、産業革命が起きて、農地を手放した(手放さざるを得なくなった)農民が、都市という工場で働き、その工場で働くことができなくなった時に生じた。産業革命という歴史上の産物が、必然的に、ホームレスという状況を生み出してきたのである。だから今後も、失業や倒産によって、多数のホームレスが出続ける。それは、自分の力では防げない。そのシステムの中にいる限り、絶えず、ホームレスの危険にさらされるのである。
現代では、都市と農村(田舎)の境界線がなくなった。単に住む場所が違うというだけである。方言などもほとんど使われないし、地域(田舎)、地域(田舎)の特色なども消えてなくなり、都会人も田舎人も全国一律の感覚である。一昔前の人が持っていた、都会人に対するあこがれや、ある種の劣等感のようなものも、今の田舎人は全く持っていない。熱病のように、一時期、都会にあこがれるのは、若い時だけである。都会では、ネギ1本買うのにもカネがいるが、田舎でも状況は全く同じである。キュウリがどういう形で成っているのか、ナスビがどのような形で成っているのか、田舎でも若い世代のサラリーマンは何にも知らない。もちろん、いつ蒔いて、どうやって育てるかなど、全くトンチンカンでわからないし、興味もないというのが、大多数の現実である。
とにかく、農業どころではないのである。自給自足などとっくに壊されているし、正規のサラリーマンにもぐりこまないと、食っていけない。1~2回転職をするともう、正規のサラリーマンに採用される口は少なくなる。この国に、敗者復活戦などないのである。仮にあったとしても、よほど優秀な人でないかぎり、敗者復活戦で復活することは不可能である。正規雇用の数は今後まだどんどん減っていくのではなかろうか。
すでに農業も、定年帰農者だけのものになりつつある。ボクが農業を始めた17年前より、現在の農業環境はかなり悪化している。理由は
(1)大型台風の頻度が多くなった。そして、多雨や過乾燥など、気象の変化が激しくなった。
(2)害獣、特にイノシシやシカの被害が近年ますます多くなっている。岡山県下でも、国道2号線から上では、ほとんどの地域にイノシシが出て、ますます頭数が増えている。被害はすでに県下の8割を越えている。
(3)農業にいい時代は来ない。できがよければ価格は下がり、不作だと、緊急輸入されるし、作っても盗まれてしまう。米が不作だった年に全国的に米泥棒が多発したが、野菜も、高騰すればすぐに盗みが横行する。野菜は需要と供給のバランスによって決まる市場価格ではなく、政府の統制価格に近い。

よその柿まで欲しいとは思わないが、最近は集落でも、柿をちぎらないで、成ったままにしている家が多い。何か、もったいないような気がする。自分は10月の中旬頃、少し色付いたころから、田んぼでおやつ代わりに食べ続ける。
今は、大人も子供もあまり柿を食べないようだ。ボクが子供の頃には「稲刈り」のおやつも柿だったように記憶している。今はパンとかお菓子とかリンゴとかミカンなどスーパーに行けば何でもあるので、柿をそんなに食べないのだろう。
自分の場合、この「ちぎらない柿」を一つの目安としていることがある。それは、ヒヨドリの襲来に関してである。1月の中旬頃には毎年、渡り鳥のヒヨドリが集団でやってきて、3月の中旬頃までの約2ヶ月間、当地に滞在して、畑の青菜を食い散らかす。そのヒヨドリがここ数年来ていない。気候の変化なのか、温暖化が関係しているのか、環境が悪化しているのか、去年も一昨年も来なかった。そして今年もまだ来ていない。ヒヨドリは、キイー、キッキーと甲高い声で鳴くし、たいてい集団なので、かなり目に付く。当地に来ても、山の木の実とか、柿とか、アクラの木の赤い実など、山ぎわに食べる物がある間は、畑にまでは舞い降りて来ない。これらの物を食べつくすと、畑に舞い降りてきて、菜っ葉を食べ始める。だから、画像の柿が食べられてしまうと、ヒヨドリ避けの資材を野菜に被せる必要があるが、柿が大丈夫な間は野菜も大丈夫なのである。その目安に柿がなってくれている。
ヒヨドリが来ないと一手間かからないわけだから、とてもありがたいが、毎年のように来ていた渡り鳥が来ないと、何かあったんだろうかと心配にもなる。
ヒヨドリ避けをする必要があるといっても、1月中旬頃にはすでに、青菜が残り少なくなってきているから、そんなに手間がかかるわけではない。ロケット、ホウレンソウ、ハクサイ、キャベツ、ブロッコリー、冬越しのエンドウ類と春キャベツだけである。
右の画像は、集落内からみた田んぼ風景である。山すそのお墓の下に、自分が作っている40アール(4反)ほどの田んぼがある。
真ん中の画像にもお墓が見えるが、これも集落のお墓である。ボクの集落には○○という姓と○○という姓が多い。姓によって、集落のお墓がこのように2箇所に別れている。田舎に行くと、このようなお墓が多い。一つの墓地に同じ姓が多いのである。2世代前までは、集落内での縁組が多かったようである。理由は
①2世代前にはまだ自転車もなく、人は徒歩で行き来していた。
②田植えは手植え、稲刈りは手刈りだったので、とにかく人手が必要だった。
③地域内で縁組した方が何かと好都合なことがあった。
等が考えられるが、姓が異なる縁組はなかったようである。我が家でも、祖母は同じ集落内から嫁いでいるし、祖父の姉は同じ集落内に嫁いでいる。我が家は祖父の姉が嫁いだ家から分家してできた家だから、祖父の姉は、いとこ同士の結婚のようである。そして、祖母の姪と祖父の姉の息子とが縁組しているといった具合で、とにかく2世代前までは、親戚同士で縁組が続いていたようなのである。集落にはこのような縁組が多く、あの家とあの家は親戚というのが、やたらと多い。なんかややこしいのである。横溝正史の推理小説に出てくるようなおどろおどろしい世界とまでは言わないでも、何か事を起こそうとすると、集落内の親戚からの横槍が入りそうである。でも今は、集落内のそんな関係もほとんど崩れている。近い縁組などはしなくなったし、稲作も集落内で2割ほどになっているし、ほとんどがサラリーマンをしているので、顔を合わすのは、集落の出仕事や行事の時くらいになっている。子供もめったに見ない。
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左の画像は、Mさんのキャベツ畑、真ん中の画像はハウスを利用した納屋、右の画像は納屋に収納している農具。稲作も3反(30アール)ほど作っているらしい。
自分と比較して、できすぎる。できる人はできるんだろうなあ。どんな世界でも「適性がある」ことと「能力がある」ことはちょっと違う。「好きこそ物の上手なり」という言葉があるが、適性があって、好きであれば、ある程度のレベルにまでは達するが、それをビジネスにしようとすると、そこに「能力」が加わってくる。農業者でも、かなりのビジネスにできる人、なかなかできない人、いろいろである。
3年間のブランクがあったが、「ブログで紹介させてほしい」と電話をすると、心よく訪問を受け入れてくれた。3年前すでに、ビジネスラインにのっていると思ったが、今回はますます軌道にのっているように思えた。同じ農業者として「嫉妬」の気持ちも一瞬、生じた。Mさんよりすでに10年も長く農業をしているし、年齢も一回りほど年上なのだから、若い農業者に「嫉妬」などという感情が起こるはずはないのに、自分ができなかったことを、Mさんが短期間にやってのけているからだろう。自分も十数年の歳月の間に、試行錯誤しながらも、比較的得意と思える方向に、無意識のうちに舵取りをしてきて、自分なりのオンリーワンを築いてきたのだから、もうちょっと、自分に自信を持てばよいのに、今回のこの感情は何だろう・・・。
3年前にも、田んぼを見てすぐに思ったことだが、ハウスを建てたり、ビニールを張ったり、各種の農具を使ったりと、なかなか器用で技術系の人だなあと思ったが、今回また同じことを感じた。でもこれはできる人もたくさんいるので、そんなにMさんが際立っているわけではない。もう一つ今回感じたのは、作ること以外に「営業力(売る力)」もあるという点である。イチゴはほとんど「地場(地域)」ではけているらしい。「地域の人が買ってくれる」というのは、かなり難しいと自分は思っている。イチゴという作物の特殊性もあるかもしれないが、地域の人との人間関係もある程度できていないと、なかなか買ってはくれないと思う。地域と言っても、近くの「道の駅」や「スーパー」も含めての地域であるが、100メートルハウスのイチゴのほとんどを「地場ではいている」という力はすごい。今は1日おきに収穫をしているらしいが、全て収穫するのに2時間ほどかかると言われるイチゴの多くを「地場の直販で売り抜いて」いるのである。産地化されていないし、これくらいの作付では量が出せないので、市場出荷では、あまり相手にしてもらえないし、半値ほどになると言われたが、なるほどと思った。
イチゴをちぎってくれたので、口に入れてみた。「あれ、甘い」と思った。クリスマスのケーキにのっている、全く甘みのないイチゴを食べ慣れていると、この時期のイチゴはまずいという先入観もあったが、Mさんのイチゴは違っていた。品種は「紅ほっぺ」という品種らしい。甘くて、ちょっと酸味があって、表面がしゃんとしていてつぶれないので、今はこの品種が気に入っているらしい。ハウスの中には、イチゴの葉を剪定したりする時の作業腰掛椅子や、収穫用のスチール棚、それに、高設栽培の実験でもしているのかと思った「鉢植えのイチゴ」。これは赤く色づいたイチゴを鉢ごと売るらしい。なかなかアイデアもある。天井部に電気が設置してあった。イチゴも電照菊みたいに、今の時期は電気も使うらしい。1月は灯油をたいて「加温」しないと、イチゴは色付かないのではと思ったが、この地では加温なしでも二重ハウスで色付くらしい。ハウスの中には3600本ほどのイチゴが植わっていて、植えるだけで3日ほどかかると言われる。ハウスの天井部のビニールは2~3年に1度替えるのかと思ったら、イチゴは毎年らしい。ビニールの値段だけで10万円と聞いて、自分には右から左に動かせない「1資材の金額」だと思った。ハウスは11月上旬に張って、6月には片付けるらしい。だから、台風シーズンにはビニールは張っていないので、ハウスが壊れる心配はない。
自分の場合、こういう壮観なハウスを見せてもらうと圧倒されてしまう。とてもじゃないが真似はできない。書きながら、それぞれのオンリーワン農業でよいのだから・・・と1人うなずく。
今後作付してみたいのは、果樹のイチジクらしい。イチジクはカラスや蜂を防御するネットなどで覆う必要があると思うが、やってのけれる人だろう。現在はイチゴの他に、5反ほどの面積に、ハクサイ、キャベツ、カリフラワー、ブロッコリーも作付している。夏場には、ニガウリ、トウモロコシ、トウガンなどを作ったらしい。当地で産地化されているトウガンなどは市場出荷もするが、主に「直販でさばける」範囲内の作付にとどめているらしい。特定の作物だけに絞らない方が、労力が分散できて楽だと言われる。
農具やハウスは主に中古を利用したので、初期投資金額はそれほど多くなく、200万ほどと言われる。わからないことは地域の人に聞きまくって、最初の数年は言われた通りにやっていたが、数年経過してから、なるほどなあと思うことが多かったらしい。
他の地域に入ったニューファーマーズの人は、例えば、トマト団地であったり、ピオーネ産地であったり、ナスビ産地であったりして、作付の自由裁量の幅が少ないようだが、ここでは、自分が好きな作物を作れるのがよいと言われる。当地に入植して丸7年、まだ40才である。
農業にどうしても転身したいが、とても迷っているあなたがいたら、まずは、農業への入り口を間違えないで欲しいと言いたい。この訪問記の①でも書いたので、同じことの繰り返しになるが、
(1)岡山ニューファーマーズのような形で入るか(特定作物のスペシャリスト型)
(2)日本有機農業研究会が発行している「有機農業者マップ」などを参考に、そこで1年ほど研修を受けてスタートするか(多種類を作るワンパック型)
(3)農業を前面にするのではなく、アルバイトなどをしながら、「田舎暮らし」とか「農業もする小さな田舎暮らし」を目的として、生活の糧は農業以外で稼ぐか
この3類型のどれが自分に合っているか、どれに向いているか、どれに適性があるか、よく考えて、よく調べて、よく現地訪問をして、入り口を間違わないようにして欲しい。そうしないと、あなたのオンリーワンが築けない。
全く計画性がなかった自分でも、9回目の農業への転身の時だけは2年間の準備期間を持った。
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多種類の野菜を作っていると、長年の間に、作る野菜に好き嫌いが出てくる。しかし、それぞれ、大量に作る必要がないから、作り続けることができている。どんな野菜が自分にむいているか、いろんな野菜を少なくとも4~6年くらいは作ってみないと判らないと思う。
県が進めているニューファーマーズの研修の場合、スタートする前に、果樹を選択するか、野菜を選択するか、花を選択するか、そして、それぞれ、どの果樹を選択するか、どの野菜を選択するか、どの花を選択するかを迫られる。したことがないのだから、本人たちに選択を求めても無理である。県が産地化を進めている地域や作物、あるいは、行政や農協が判断して、ビジネスとして成り立ちそうな作物を提示して、その中からの選択を勧める。
2年間の研修を終えてスタートし、2~3年の間に、かなりの生産をあげれる人もいるようである。問題は、はたしてそれを何人の人が、やってのけれるだろうか・・・と言うことである。いつも表面に出てくるのは、成功者だけである。失敗者のことが論じられることはない。ニューファーマーズの場合、いわゆる「いろんな作物を作る教養課程」をとばして、いきなり「個々の専門課程」に入るのだから、自分の目指していたものとは違う・・・ということが出てきそうな気がする。それでも、このような研修の場合、途中からの作物変更は、むずかしいのではなかろうか。
ニューファーマーズ制度は、行政や農協が中心となって、その地域で産地化されている作物を、高齢化や就農人口減から守るために、そして、広域農道が整備され、小さな田んぼが大きな区画に圃場整備され、あるいは畑潅水施設の整備された畑を荒廃させないために、新たに就農希望者をつのって、その方たちを援助する制度であり、もしくは、新たに産地化するために、その地域の先進的な農業の「核になる農家」を育てるという趣旨の「新規就農者確保対策事業」だから、ブドウ産地やトマト団地を作ろうとしているのに、そこでピーマンを作りたいとか、いろんな種類の野菜を作りたいとか、花を作りたいと、気が変わっても、それはできないと思う。それでは、360万円の支援制度の意味がないからである。あなたの好き勝手な農業をするために、360万円ももらえるわけはないのである。
ニューファーマーズ系から入ると、有機農業系に比較して、初期投資の金額がかなり大きくなると思う。うまく軌道にのれば、有機農業系よりはるかに、生活は安定するだろうし、農業収入も高水準になるかも知れないが、3~4年の内に「形にする」ことができなかった場合、初期投資が大きいだけに「引こうに引けない」状態におちいる危険性もある。
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今、取材させてもらって帰ってきたところである。同じ瀬戸内市のMさんである。1時半頃から3時半頃までの2時間、お話を聞いたり、田んぼを見せてもらったりした。取材と言うような、えらそうな立場ではないが。
誰の田んぼ見学をさせてもらっても、不思議と2時間ほどの時間内で収まる。収まるように心がけている。
Mさんはちょうど3年前の今頃、田んぼを見せてもらい、お話を聞かせてもらった方である。自分が田んぼ訪問をさせてもらう人は「有機農業系」の人が多く、「岡山ニューファーマーズ出身」の方はMさんが初めてである。人それぞれ、向き不向きや、得意不得意があるから、できればいろんな農業形態の方を紹介させてもらおうと思う。
今日見せて頂いたことは、今、作文中であり、Mさんの了解をもらってから、後日紹介させて頂きます。今日と明日の2日間は、3年前に訪問させてもらった時の記事を紹介します。なお、画像は今日の画像です。
(2004年、1月)
知人の紹介で、家から20分ほどの、瀬戸内市牛窓町に入植されているMさんの、イチゴハウスを訪ねた。Mさんは、「岡山ニューファーマーズ」の出身ということで、ニューファーマーズの制度について聞きたかったのと、どういうきっかけで農業を志したのか、聞いてみたかった。
イチゴのハウスに入って2~3分見せてもらっただけで、もうそれ以上見せてもらう必要はなかった。ボクのレベルはとっくに超えていた。
ニューファーマーズで2年間実務研修を受けて、独立後、まだ、まる2年が過ぎていないのに、早くも「ビジネスラインに到達しかけている」ことが、はっきり見て取れた。この世界では、相手の田んぼを見せてもらえば、同じ農業者なら、すぐに、相手の技術レベルがわかる。めざしている方向が違うし、自分を卑下しているわけでもないが、Mさんのように、都会育ちで、全くの非農家出身でも、2~3年のうちに「形になる」「形にできる」人もいる。同じ土俵には上がりたくない。農業の中にも、いろんな土俵がある。
Mさんは農業を始める前、フラワーデザインの仕事をしていた。結婚式場や百貨店のイベント会場などで、花を飾る仕事だったらしい。若い頃から動植物が好きで、25才の頃から、将来は独立して、花を売る店か、その先の、花を作る仕事につきたいと思っていた。33才の時、岡山ニューファーマーズに応募するが、その前に、数年をかけて、岡山県がしているような制度を、全国30ヶ所ほど、実際に現地調査されたらしい。ここからして、ただ者ではない。この若さで、他の人はそこまで用意周到に準備できるだろうか。
家と土地がセットになっているのがなかなかなかったらしい。子供さんが病弱だったため、病院が近く、学校も遠くなく、買い物等にも比較的便利な、「あまり過疎地でない田舎」を探した。最終的に、現在の入植地を選んだ。岡山ニューファーマーズでは、2年間の実務研修に入る前に、実際自分がやりたい農業の農家に住み込みで、1ヶ月の体験研修と言うのを受ける。その後、2年間の実務研修を受けることになる。この1ヶ月の体験研修で、何割か、ふるいにかけられるのではなかろうか。自分のめざす作物を作っている農家へ、住み込みでの1ヶ月間の体験研修だから、「農家のすさまじさ」が身にしみてわかるだろう。現役世代の農業に、「牧歌的」とか「やすらぎ」などはない。作物をカネにする必要のない農業(定年後、楽しみや自給のためにする農業)と、カネにする必要のある農業とでは、全く異なる職業と考えた方がよい。仮に、体験研修を、半信半疑で、あるいは無我夢中で通過できたとしても、次の2年間の実務研修期間に、また何割か、ふるいにかけられることになるだろう。2年間の実務期間中は、月15万円の報酬が出る。15万円の内訳は、県が3分の1の5万円を負担し、受け入れ町村が、3分の1の5万円を負担し、残りの3分の1を受け入れ主体の農協が負担するらしい。農協で半日働いて、残りの半日は、自分で自由にしてよいらしい。だから、実務研修に入った段階から、実際にスタートとなる。やりながら、わからない所は、農協の指導を受けたり、実務研修先の農家の指導を受ける。半日分の労働報酬が15万円という考え方である。2年間、無事に実務研修を終えるとすると、合計で360万の報酬を受けたことになる。半日分の労働報酬の見返りと考えれば、どうということはないが、その実務研修を終えてからの、完全に独立してからの2年間に、360万稼ぐことは容易ではないと思う。実務研修の前の1ヶ月間の体験研修の段階で「単身赴任」は通っても、2年間の実務研修も「単身赴任」では、やる気があるのかどうか疑われる。少なくても、2年間の実務研修が始まった1~2ヶ月後くらいまでには、家族共々、移住している必要がありはしないだろうか。岡山ニューファーマーズの制度は「妻帯者」しか応募できないらしい(現在は単身者も可能になったらしい)。体験研修でふるいにかけられるのはまだしも、実務研修の期間に、いわゆるミスマッチ(自分の想像していた農業、あるいは、めざす農業と違う)を感じると、すでに都会を引き払って移住してきているわけだから、本人も含めて、家族共々、続けることができなかった・・・という挫折感は大きいのではなかろうか。また都会へ戻る、あるいは、どちらかの両親を頼ると言っても、この不景気で、現実は厳しい。
でもボクは、実務研修の期間中に見切りがつけれたのは、まだ早い段階での決断でよかったとも思える。いざ実務研修を終えて、いよいよ独立すると、いろんな目に見えないカネがいっぱいかかり出すし、生活費もかかる。農具や物置、ハウスに張るビニール等、ある程度の設備投資にも、かなりのカネが必要になる。サラリーマンのように「身一つ」というわけにはいかない。初期投資のかなりおおきな「個人事業」なのである。
一般に農業への入り方は、
(1)岡山ニューファーマーズのような形で入るか(特定作物のスペシャリスト指向)
(2)日本有機農業研究会が発行している「有機農業者マップ」などを参考に、そこで半年~1年ほど研修を受けてスタートするか(多種類を作るワンパック型)
(3)農業を前面にするのではなく、アルバイトなどしながら、「田舎暮らし」とか「農業もする小さな生活」を目的として、生活の糧は農業以外の手段で稼ぐか
自分は、何を一番やりたいのか、何に一番適しているか、入り口できちんと、心の整理をしておく必要がある。
岡山ニューファーマーズには、「有機農業部門」はないそうである。しかし、考えてみれば、これは当然かもしれない。一般に、有機農業では、農協や市場を通さず、直接、消費者に売るという販売形態である。だから、箱代とか、販売手数料等、その後、農協に何らの利益ももたらさない。加えて、化学肥料、農薬、除草剤をほとんど使わない農法だから、それらの資材を買うこともごく少ない。そして、地域の先進的な農業をリードする人材を育てるという、行政や農協の趣旨から考えてみても、有機農業は、やはり、個人の趣味、生き方としての、個人プレイの農業と認識されるのである。農法にしても、きちんとしたマニュアルができているとは言いがたく、百人百様のやり方をしている。
まだニューファーマーズの方をあまり訪問していないので、安易に分類できないが、ニューファーマーズには「技術系の人」が適しているように思う。有機農業系では、文系、理系は問わない。
ニューファーマーズから入ったMさんは、ニューファーマーズの「壁」をすべて越え、独立後、もうじき丸2年が来る。体験研修から通算すると、丸4年を迎えようとしている。借地、借家、そして、全く見知らぬ土地に来て、38才の春を迎えようとしている。
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野菜の技術的なことを書いても、やったことのない人は理解できない。でもわかりやすく書いたつもり。左と真ん中はレタスの育苗床である。
(1)レタスの種を買ってくる。ホームセンターあるいは通信販売で購入。通信販売には、タキイ種苗、サカタの種等がある。1度、通信販売で買うと、年に2回、カタログを送ってくれるので、利用価値有り。ネットで検索という手も有る。
(2)種を蒔く場所は、雨で湿気ないように、少し鍬で高畝を作る。
(3)種を蒔く前に肥料を入れる。自分の場合は「メタン菌液肥」を10倍ほどに薄めて、前日か前々日に施しておく。
(4)畝の土の表面をちょっとならして(水平にして)、種をぱらぱらっと落とす。
(5)種を蒔く時期、これが最も大切。地域によって違うので、あなたの地域での最適期を覚えて「暗記」しておく。暗記しないと役に立たない。
(6)画像は冬越しのレタス。ガーデンレタス(早生品種)、丸レタス(中早生品種)、コスレタス(中生品種、炒め用)の3種類を蒔いたが、丸レタスの発芽が悪かった。真ん中の拡大画像はガーデンレタス。
(7)種を蒔いたら、フルイでふるって、細かい土を種の厚さだけかぶせる。
(8)その上に焼きすくも(クン炭、市販している)をふってから、ジョロで水をする。焼きすくもは雨でたたかれるのを防いだり、寒さ避けになる。
(9)野鳥に突付かれるのを防ぐため、青いトンネル支柱を脅しにしている。これで完了。
レタスは霜に弱いが、小苗の時は強い。自分の場合は冬越しのエンドウと同じ日に蒔くことにしている。3月上旬に定植する。2月は寒いので活着が悪い。
右の画像は春キャベツである。また画像に自分の影が写ってしまった。写らないように撮ったはずなのに・・・。カメラは不得意。ブログをするために、必要にせまられて買った。
キャベツも左のレタスの画像のように、小苗で冬越しという手もあるが、10月3日頃蒔いて、タマネギと同じ頃に定植して、定植した状態で冬を越させた方が、害虫(青虫)の被害が少ない。欠株が多いが、ネキリ虫の被害が多発した。これでもかなり「植え次(欠株に補充して植えること)」をした後である。
(1)極早生品種・・・4月15日~5月15日収穫
(2)中早生品種・・・5月15日~6月20日収穫
この2種類で2ヶ月間、春キャベツが食べれる。産業廃棄物である黒マルチをして定植しているが、これをしないと、5月下旬頃から草に覆われる。草取りの手間がなかなか取れない。
合計で120本ほどしか定植していないが、これくらいの本数なら、手で害虫(青虫)を捕殺できる。2月末頃、青虫を捕殺してから蝶(青虫の親)避けのネットをキャベツの上から、べた掛けしておく。
レタスには害虫がほとんど来ない。何でだろう、今でも不思議。
一時、「インターネット百姓塾」などを考えたこともあったが、やっぱり農業は「急がばまわれ」で、田んぼの土の上で、身体で覚えることが最も近道だと思う。まだ今なら、田舎に行くと、60才以上の方ならたいてい作っているので、教えてくれます。でもこれが、今後10年経過してからだと、家庭菜園も、どうやっていいかわからない「田舎育ちの田舎人」が多くなると思います。恥ずかしながらボクも36の年まで、ピーマンやナスビが「どういうふうな恰好で成っているのか」全く知りませんでした。とにかくサラリーマンで落ちこぼれないようにと、農業どころではなかったから。今は、田舎人でも50才以下ならそんなレベルです。
たかが農業でも、スタート時点のちょっと、人に教えてもらえるかどうかで、3年かかることが1年で覚えられることもある。農業は温度や気象が関係するので、その季節のその時期の1~2日だけという農作業もあり、多くは「1年に1度だけ」の農作業だから、その時期を逃すと、また1年という期間を待たないと、同じ経験をすることができない。ここが商工業の世界と異なる。商工業の場合は「1ヶ月」単位だから、農業より12倍のスピードである。つまり農業は、カネは12分の1しかならず、時間は12倍待たされる。
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また、鳥インフルエンザが発生した。今度は宮崎県である。1~2年に1度のペースで鳥インフルエンザが発生し始めたようだ。我が家には、家畜保険所は来ていない。32羽だから、家庭菜園規模と判断しているのだろう。
「野鳥との接触」が言われているようだが、自分の場合はもともと「放し飼い」はしていないのだから、野鳥との接触はない。でも、大量の野菜くずや、ハクサイやキャベツの外葉や、雑草を与えているわけだから、野鳥の糞が、それに混じってトリ小屋内に紛れ込むことは考えられる。でも、太陽の光をたっぷり浴びた青菜は、ニワトリの元気の源だから、これは止めるわけにはいかない。
元々自分は放し飼いにする気はなかった。だから、ちょっと広めのトリ小屋の中で「密飼い」にならないようにしている。地べたで飼う場合、一般に、坪に10羽までと言われているが、ボクは坪(畳2畳)に8羽も飼っていない(4坪半のトリ小屋で32羽飼っている)ので、ゆったりしたスペースだと思っている。小屋の外に放し飼いにすると、1世代前に飼われていたような「牧歌的風景」が楽しめるし、ニワトリも喜ぶと思うが、夕方にエサやりをして、小屋の中に追い込むことをしないと、タヌキ等の害獣に狙われる。実際にボクは、初めて導入したニワトリが、ハトよりちょっと大きいくらいになった時、トリ小屋にタヌキが侵入し、一晩のうちに全滅させられた。
エサは画像のように、トリ小屋の床の上に、コゴメと購入エサをばらまいている。エサ箱は設置していないが、エサ箱は有っても無くてもどちらでもよいと思う。。画像に見える鍋に、コゴメと購入エサを合わせて軽く一杯になるくらいの量を毎日与えている。トリ小屋の床にばら撒いた後の残りを鍋ごと床面に置いているだけである。
家から出る食べ残りは、お皿に取って田んぼへ持参し、トリ小屋の床面に置くとニワトリがつついて食べる。我が家の食卓テーブルのお皿とニワトリがつつくお皿は同一の物であるが、どうせ洗うのだし、全然、汚いと思ったことはない。
トリ小屋の床は「神聖な場所」である。エサをばら撒くし、青菜を投げ込む。ニワトリの糞もある。ニワトリは自分の糞も多少は食べているようである。もちろん野菜くずや雑草に付いた多少の土も食べているようである。その神聖な床面にボクは土足で出入りしているが、田んぼだけで履く地下足袋の土足だから問題はない。
ニンジンの外観不良分をたくさんやれば、糞はニンジン色。ムラサキ芋のクズをたくさんやれば、糞はムラサキ色。ニワトリの場合、タマゴもウンコ(肥料)も同等の価値である。前日食べた物が、翌日にはタマゴもしくはウンコとして表現されるのは、人間と全く同じである。神聖なトリ小屋の床の上のもろもろの物を食べて排出されたタマゴ。それは数日後には、自分や家族の胃袋に納まる。つまり、タマゴを頂くことは、トリ小屋の床面の物を自分の口に入れることと同じなのである。だから、エサには注意を払う。エサは
(1)コゴメ、コゴメがない時はヌカ
(2)購入エサ
(3)家から出る食べ残り
(4)青菜
安全性の見地から言えば、購入エサがちょっと問題であるが、購入エサはニワトリがよくタマゴを産むように配合された飼料だから、それも多少は与えないと、タマゴをあまり産んでくれない。青菜をたくさん与えるのは、青菜でニワトリの胃袋をふくらませるという、エサ代の節約の意味合いが大きいが、安全性に疑問の残る購入エサの、「中和」「解毒」「相殺」という意味合いも大きい。人間でも、肉をたくさん食べたら、肉を「中和」「解毒」「相殺」する意味で、たくさんの野菜サラダを食べる必要があるが、それと同じ意味です。
人間でもニワトリでも、太陽の光をさんさんと浴びた青菜をたっぷり食べることが、健康と元気の源なのに、ほとんどのニワトリは青菜を全く食べさせてもらえない。これではウイルスに対して抵抗力などつくはずがない。集中治療室的なウインドレス鶏舎に閉じ込めて外部との接触を断つ方法ではなく、自由な大地に放してあげてください。太陽の光を浴びた青菜をたらふく食べて、鳥インフルエンザウイルスと戦うのです。青菜が武器です。閉じ込めるのではなく開放するやり方です。開放するには、一昔前に飼われていた「庭先養鶏」である「20~30羽養鶏」に戻す必要がありそうです。これは資本主義システムとは相容れない方法です。むしろ逆行です。しかし、大規模、効率、採算、コンピュータ管理の高度資本主義的システムに固執していては、いずれ鳥インフルエンザに敗北します。10万~100万羽養鶏は確かに、高度資本主義的システムの理にかなってはいますが、ごくわずかのウイルスの浸入によって、一夜にして10万~100万のニワトリの命が消されてしまいます。ウイルスと戦うには、30羽養鶏の方がすぐれているように思います。資本主義的システムから小さな地域内自給システムに切り替えていくしか、鳥インフルエンザのようなウイルスと戦う方法はないと思います。
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先日、近所の稲作農家から、すくも(もみがら)と稲ワラをもらった。本当に助かっている。最近は生産者米価がとても安いが、稲作を止められたら、すくも(もみがら)や稲ワラがもらえなくなる。今は1俵が12000円ほどである。10アールあたり、よく取れても8俵ほどらしいから、96000円。1ヘクタール(100アール)作っても、たった96万円。これから、機械の減価償却費(これが極めて高い)、乗用トラクターの油代(1ヘクタールを年に3回ほど耕運すれば、油代もかなり高くつく)、水代(これもかなり高いらしい)、肥料代、農薬代、除草剤代、草刈機の油代(夏の畦草刈りが大変)、種もみ代、軽四の車検代、保険代、税金、作業用衣料費、機械の修繕費(コンバインは稲秋が終わると点検に出した方がよいらしい)を差し引くと、1ヘクタール以下の作付なら赤字になるらしい。誰も損してまでは作らない。これは、自分の人件費は考えないでの話しである。「買った方がはるかに安くつく」というのは、家庭菜園だけでなく、米にもあてはまるのである。父母の世代では、「瑞穂の国の稲穂」に特別の思い入れがあったかも知れないが、次の世代では、もうそんな愛着などない。
自分の場合は、70アールほど、近所の親戚の稲作農家が作ってくれているので、とても助かっている。でも70才を越えているので、いつまで元気で作ってもらえるかどうかわからない。作ってもらえなくなったら、年に3~4回は乗用トラクタで耕運する必要がある。何もしなければ、たった1年で背丈くらい、草が伸びる。草刈をすることを考えたら、耕運した方が随分と楽である。
田舎では「土地は負債」という考え方が、だんだんと増えつつある。田舎の土地は売れない。売りたくても、周辺農家の了解(印鑑)がいるので、まず売れない。
隣の田んぼが草ぼうぼうなら、ほうっておけるが、隣の田んぼで米か野菜を作っていれば、礼儀として、その周辺の草刈だけはしておく必要がある。ほうっておいたら、「すまんですが、ちょっと草刈をお願いできんでしょうか」と言われると思う。
当集落でも、荒地がだんだん増えている。食べ量の野菜だけ作るのだったら、面積はそんなにいらないから、残りの8~9割ほどの田んぼは不必要なのである。
ボクが子供の頃には、集落の多くの家で、稲作の裏作として麦も作っていた。麦畑にはよく「ひばり」が巣を作っていた。2年ほど前までは、麦は結構作られていた。麦を作付すると補助金が出ていたらしい。その補助金が下りなくなると、麦は消えて、表作の稲作だけになった。新たに稲作を始めたという話は聞いたことがないし、いったん止めると、稲作は復帰することは困難である。
稲作の風景が消え去る日も近いのではなかろうか。いったいどうなるのだろう。
(1)地域から稲作風景が消えると
(2)稲作の用水路は単なる家庭の排水路となり
(3)集落の人はすでにほとんどサラリーマンであり
(4)家から直接、車で出勤するので、顔を合わすこともなく
(5)道普請や池の土手や通学路の草刈で顔を合わすくらいであり
(6)子供の数も、集落42軒で、小学生が男女合わせて5人以下となり
(7)外で遊ばない(遊ぼうにも少なすぎて遊ぶ友達がいない)ので、集落の子供の顔もわからない
(8)家は単に「寝に帰る」だけの場所になりつつあり
(9)自分も後16年で古希。生きているかどうかも定かでない。
稲作農家がまだ健在であるということは、野菜農家にとって、とてもありがたい状況である。すくも(もみがら)と稲ワラは、どちらかといえば、もちろん、すくも(もみがら)の方がありがたい。すくも(もみがら)は、
(1)ニワトリ小屋の下敷き、及び、巣箱の下敷きに利用
(2)サトイモや冬越しハーブ類の寒さ避けに利用
(3)種蒔き後に、強い雨によって土の表面がたたかれたり、強い日差しをさえぎるために利用
(4)サツマイモの種芋やハヤトウリの種ウリの越冬の寒さ避けに利用
(5)焼きすくも(クン炭)にする。この利用価値が最も高い。育苗時には、「すくも」の状態で使うより「焼きすくも」の状態で使った方が肥料効果や保温効果がすぐれる
稲ワラは、なければ池の土手草などで代用できる。
(1)ウリ科野菜の下敷きに利用
(2)サトイモ等の草押さえや湿り気保持に利用
(3)畝間に置いて、草押さえに利用
稲ワラは腐りやすいが、足らずは、3月上旬に蒔く緑肥「エンバク」を利用する。敷き藁には、稲ワラより麦ワラの方がよい。
すくも(もみがら)は、3月上旬までにクン炭(焼きすくも)にして、残りは、もみ袋に入れて保存する。クン炭は、風のない暖かい日を選んでするのがポイント。
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すでに廃刊になってしまったが、「百姓天国」という雑誌があった。この雑誌は、多くの農業人に発言の場を提供してくれた、すばらしい雑誌であるとともに、ボクはこの雑誌で、何人かの尊敬する農業人と出会った。これから紹介するTさんとは、実際にお会いしたことはないが、百姓天国誌に寄せられた次のような記事は、自分にとって忘れることのできない記事となり、自分も将来、この命題と戦い続けなければならないと思った。
『長引く不況の低迷で、現在推定600人以上の野宿者が、京都市内の河川敷や路上、駅構内、周辺などに生活を余儀なくされています。以前は大工、調理人、きこり、電気工事や土木建築に従事していた人など、職業は多彩です。しかし、リストラや倒産、仕事がないなどの理由で「家」を失い、新たな就職活動にさまざまな障害が生じ、野宿生活が常態化していきます。
こんな状況の下、昨年一人の野宿者(63歳)が、ある農村の地域住民となりました。「もうこの歳になったらどこも雇ってくれないです。今後は自分で物を作る仕事に就きたい」と、目を輝かせて語ったAさん。お世話くださった方と共に、田畑を耕し、今はいきいきとした毎日を送られるようになりました。食べることと寝ることが保障されれば、人間の原点である「農」と向き合って働きたい。或いは、持っている技術を活かしたい人がいます。疲れ果てた生が再び生き返るようにと、私たちは願っています。もし、農村での仕事がありましたらお与えください。はじめは村の生活習慣や気候風土など、さまざまな事に関しての研修を受けながら働き、ゆくゆくは何らかの形で、生活の自立を考えて行けたらと願います。また農繁期などある期間のみ仕事をさせて頂けることでもありがたいです。下記へご連絡ください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 京都 夜まわりの会 T 』
一世代(30年)前には、農村の余剰人口を、都市が吸収した。今度は逆に、都市の失業者を、農村が吸収していく時代に入ったと思う。しかし現在では、農村地帯も、都市生活者と同じ消費経済にまきこまれてしまって、自給自足的な生活がほとんど成り立たなくなった。
(1)野菜を作るには、種代も肥料代もかかる。自給用くらいなら、買った方がはるかに安くつく。
(2)ライフラインにかかる費用は都会と全く同じである。
すでに、田舎と都会の考えられる区別(違い)が見当たらない。
かつて、1人の日本人外交官が、第2次世界大戦前のヨーロッパ大陸のユダヤ人に、脱出へのパスポートを発行し続けたが、今、農村へのパスポートは、定年帰農者にしかないように思う・・・。
(1999年、8月)
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左の画像はNさんの台所で飼われているウサギ。出入り自由なのに、台所に出てこないらしい。真ん中の画像は自分といっしょに買って分けたニワトリ5羽。右の画像はNさんの仕事部屋。
50才前後が、精神的に最も苦しい時期かもしれない。年配の方がそう言われるのを聞いたことがある。自分のように54才が近くなると、あまり冒険は考えれなくなる。今までやってきた延長線上でやろうとする。後10年ほどだから・・・。でも50才前後だと、まだまだやれる、まだ方向変換もできると考える。50才で経済的に安定しておれば問題ないが、そうでない場合は、現在のビジネスの収入アップを考えるだろうし、あまり展望が見出せなければ、50才だったら全く別のビジネスへの転身を考えることもある。
でも今の社会は「固まってしまって」いて、企業へ勤めたいのなら、30代、40代、50代では、もう多くは期待できない。これが30年前だったら、50代でも正社員ですぐに採用してもらえた時代である。現在なら、20代で、きちんとした企業へ入れなければ、30代以降ではもう入れないように思う。だから、倒産や人事異動等によって不本意ながら離職した人は、それからが大変である。「自分で事業を起こす」といっても、一体何ができるだろう。
自分の50才前後も、振り返ってみれば停滞していた時期である。53才になってから停滞から抜け出した気がする。ノートパソコンの購入→ブログとの出会い→ブログの開設→ボールペン下書きでは間に合わなくなり、いきなりキーボード入力をするようになり、書く量が飛躍的に増えた→ブログの創作活動が楽しくなった(時々苦痛)。こういうプロセスをたどって、去年はかなり活動的な1年になった。49才(13年目)、50才(14年目)、51才(15年目)、52才(16年目)の4年間は、農業の大きな転回もなく、生活も変化が少なく、あまり記憶に残らない4年間が経過した。本気で農業形態を変更したいのなら、最後のチャンスの時期だったが、変えることができなかった。その理由は
(1)マルミさんに定期収入があり、自分は、自分の身の回りの支出とライフラインの支出を追っかけているだけでよかった。この点に経済的「甘えの構造」があったかもしれない。でも、身の回りの支出とライフラインを追っかけるだけでも、かなりハードに農作業をこなさないと、それだけの収入にならなかった。
(2)農業形態を変更することは、あめんぼ通信が不必要になること。あめんぼ通信を止めたくないという強い潜在意識が働いたようだ。
50才前後というのは、人生で最も厳しい年回りのように思う。「最後のあがき」のようなものが、50才前後にはある。54才が近くなった自分の場合は、収入の範囲内で、つつましく生活するという行動パターンになりつつある。そして、
(1)子供には農業は勧めない。もししたいのなら定年帰農型(楽しみのための農業)を勧める。
(2)自分のようにガツガツした農業をしてはいけない。しようと思わなくても、生活のためにガツガツするようになる。
(3)だからあなたには、空の雲を楽しめる、周囲の風景を楽しめる、小鳥の鳴き声を楽しめる、余裕のある農業をしてほしい。つまり定年まで待ってほしい。
今日、農業をしている友人と電話で話した。彼はボクより一回り以上若い。同じ100万を稼ぐのに、農業で稼ごうとするなら、いつもばたばたすることになる。農業以外のことで100万を稼ぐ知恵を働かせて、残りの時間で農業を楽しんでほしいと・・・。どちらも同じ田舎暮らし。

左と真ん中の画像はNさんの木工機械。右の画像はNさんの家庭菜園。
続きは明日にさせて頂きます。
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以前は、久米南町に住んでおられたが、6年ほど前に、ここ赤磐市に移られて家を建てられた。これはNさん手作りの家である。2~3年で農業に見切りをつけて木工を主体にされるようになった理由がわかるような気がする。
Nさんが農的暮らしを求めて、兵庫県から岡山県に入植された時はまだ28才という若さだった。現在49才だから21年前のことである。日本有機農業研究会が発行する「土と健康」誌に出ていた紹介記事を見て、岡山県中部の久米南町に来られた。
その紹介記事を書かれたのはHさんで、一足早く久米南町に入植されていた。Hさんも、2~3年で農業に見切りをつけ学習塾講師に生活の糧を求められた。2人とも最初は農業をするつもりで当地に来られたが、すぐにそれぞれの道を歩み始めた。
Hさんは56才である。数学が得意で、英語の雑誌も購読されているので、いまだに英語が読めるらしい。すでに学生時代から塾のアルバイトをしていて、卒業後は学習塾を開かれた。Hさんのお兄さんが酪農で岡山県に入植されており、その影響もあって、早くから田舎暮らしにあこがれていたようだ。Hさんがこの地に入植されたのは33才の時だからすでに23年が来る。Hさんはすでに結婚されていたが、Nさんは当地に入植後、「自然食通信」という月刊誌を通じて今の奥さんと知り合われたらしい
ボクが初めてNさんやHさんを知ったのは「雲の会」という、都会から岡山県に相前後して入植して来られた人たちが、お互いに情報交換したり、親交する場になっていた喫茶店での月1回の例会の時だった。この例会にさそってくれたのは、当時すでに八塔寺に入植されていたNさんだった。出会った時にはすでに、Nさんは木工、Hさんは学習塾に主たる収入を移されていた。
農業では生活できないと判断されてからも、引き続いて田舎にとどまることができたのは、2人とも、木工、学習塾という、特別の才能に恵まれていたからだと思う。他に稼げる手段がなければ、「農業に固執」せざるをえなかったのではなかろうか。2人とも退路があったのである。
外側から見る農業と、実際にやってみる農業には、いわゆる「ミスマッチ」があるのだろうか。ボクが子供の頃には家は葉タバコ栽培をしていたので、農業がどんなものかは大体想像ができた。そして、葉タバコ栽培のような農業は自分には難しいと思った。どんな農業形態にしようか、いろいろ迷ったが、元手がいらず、自分にもできそうな農業形態は、今やっているワンパック方式だけだった。他の農業形態はどれも、なにか自分の「苦手な事」があった。自分の場合のミスマッチは、手取り200万は稼げないかもしれないが、150万~200万くらいにはなるだろうと考えたことだった。でもそれはかなり甘い判断だった。
Nさんはまだ49才であり子供さんも小さいので、木工でもう一踏ん張りする必要がありそうである。他で木工をしている人といっしょに個展を開いたりされているが、売ることはなかなか難しいらしい。次の画像はNさんの木工作品です。

続きは明日にさせて頂きます。
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夢は「農業ルポライター」である。でもこればっかりはなれるかどうかわからない。このブログでも「田んぼ訪問」という形で、何人かを紹介させてもらっているが、多くは友人である。これからは、友人以外の人も訪ねてみたい。そして、
(1)農業に転身した理由
(2)どんな農業形態をとっているか
(3)営業の方法
(4)自給自足がもし本当にできているなら、その方法
(5)農業の現状、今後の夢
(6)これから農業を始めようとする人へのメッセージ
これらのことを聞かせてもらいたいなあと思う。
あまり農業で稼げていない人、農業に転身した後、主たる収入を農業以外の仕事に求めた人、特定の専門作物をもっていない人、30代か40代で脱サラして始めた人、農家の跡取りではなく農業への新規参入者、そんな農業者に興味がある。
次のような方にはあまり興味がない。
(1)特定の専門作物を持って大規模にやっている人
(2)農業への投資が大きい農業の人
(3)定年後、趣味や楽しみで農業を始めた人
やはり、自分と農業の背景が違いすぎると、イメージが広がらない。でも親しい人もいるので、その方たちを紹介させてもらおうと思う。
17年近く同じスタイルの農業をしていると、あまり代わり映えがしなくなるし、先も見えてくる。年収もあまり変わらない。現状を打破しようと思えば、何か夢を持って、それに向かって突き進むしかない。そして、自分自身ばかりに目を向けず、他の人のやっている農業を書かせてもらい、それを提示していかないと、読者さんの役にはたたない。自分のやっていることばっかりでは、内容が乏しすぎる。
自分の生活圏の人・・・自分が感じる生活圏とは、鳥取県 島根県 広島県東部地域 四国4県 兵庫県 大阪府 京都府 滋賀県 和歌山県 奈良県 三重県であるが、この地域の中の「気になる農業者」や「気になる地域の農業者」を、年に1~2回、あるいは数年に1回、継続的にルポしたいという夢である。
でもそれにはある程度の資金が必要である。往復の旅費も必要だろうし、ルポさせてもらう人の手間や時間を取るわけだから、それ相応のお礼も必要である。その資金を何らかの形で稼げなかったら、県外までは出かけることはできない。今まで通り、近場の友人たちの「田んぼ訪問」を書かせてもらう現状でとどまるだろう。
いつも挫折しているので、「数年後、農業ルポライターに転身したい」という夢も、夢で終わるかもしれない。でも農業はいつも自分に夢を与えてくれる。
明日は、主たる収入を農業から木工に移した赤磐市の友人を訪問予定。1年に1度、農閑期のこの時期の訪問を楽しみにしている。明日はそのルポをアップするつもりです。
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人生はいつも「足し算」だったのに、いつのまにか「引き算」で計算し始めた自分に気づく。母の死んだ年だと、後8年(62才で死亡)。父が死んだ年だと、後22年(76才で死亡)しか生きれないと思うと、あと何年、あと何年と、引き算になる。
20代や30代の時だったら、まだ遠い先のことに感じていた「死ぬる」ということが、少しずつ少しずつ、現実問題として、考えさせられるようになる。日頃は意識していなくても、新聞等で、経歴とともに年齢とかが表示されていると、けっこう、年がいっとるなあと思いながら、ふと我に帰って、自分もそういう年なんだと気づかされて、愕然とすることがある。
20才の時、30年後の50才の自分を、想像することも、イメージすることも、どういう生活をしているかも、何の職業についているかも、かいもく見当がつかなかった。
30才の時も、同様だった。
その50才を越えて思うことは、自分の精神年齢が、20才くらいで止まってしまって、ほとんど「進歩」していないということ・・・。ということは、70才になった時も、多分、今と精神構造があんまり変わらないんじゃなかろうか。
死をイメージしながら、日々の生活をしていかなければならない年令に入りつつある。母と父の中間の年令、70才まで生きれるとすると、もう16年ほどしか生きれない。だから、人生が足し算から引き算に変わったと感じる次第・・・。
人生が引き算になったからといって、どうしたらいいかなど、そんないい知恵など浮かばない。日々の生活にいつも追われている。
経済的にめぐまれなくても、田んぼに出ている時は他のことを忘れられる。生きること、生活すること、農業をすること、あめんぼ通信を書くことは、自分の中で一体化している。とにかく、したたかに、細々と、農業を続けること・・・。
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雪景色になるのは、当地では年に1~2回くらいしかないのに、昨日は炭焼きの画像を優先したので、自分の田んぼの雪景色が写せなかった。これはNさんの小屋がある周辺の雪景色です。右の画像はNさんのトリ小屋です。フォークリフトで物を運ぶ時にのせる「パレット」を利用したトリ小屋です。パレットの周囲は金網か網で覆い、屋根はトタン板か、シートを置いています。ウコッケイとニワトリで合わせて12羽います。
ハウスの周囲を金網で囲い、上部はシートを被せて、それをトリ小屋にしている人もいます。
農業者も千差万別です。不器用な人もいれば、器用な人もいます。しかし、農業における稼ぎ高は、器用、不器用はあまり関係ないようです。文型、理系もあまり関係はないようです。
自分の場合は、ハウスが立てれなかったし、特定の専門作物も持てなかったし、規模を広げることもできなかった。
スタートから7年間ほどは無我夢中で過ぎてしまい、8年目~11年目にかけての3年ほどが、自分のその後の農業展開の「分岐点」になったような気がする。この3年間は、ハーブとか、ドラム缶炭焼きとか、百姓塾を、どんなにかしてサイドビジネスにしようと試行錯誤を重ねた時期である。つまり自分の場合は、この時期に農業本体に顔がむかず、農業本体の周辺で稼げないか、そればっかりを模索していたようだ。農業本体ではもうこれ以上稼げないとということが、自分の中で暗黙の了解になっていたのかも知れない。
農業本体を大きく転回させていく人は、この時期に特定の専門作物を持って技術力を上げたり、規模を拡大したりするようである。この時期に農業を撤退する人はあまりいない。農業から撤退する人はすでに3~4年目あたりで、主たる収入を、農業から農業以外へと移しているようである。つまり、農業歴3~4年で、自分が農業の世界で稼げるであろう金額が見通せるようになるのである。だから第1の転身はこの時期にくる。その時期は通過したが、自分に第2の転機が訪れたのが上記の8~10年目だった。自分に農業本体のセンスがあれば、この時期にワンパック宅配を止めて専門作物をもったり、ハウスで集約栽培をしたり、特定の作物の規模を拡大したりしたはずであるが、やっぱり農業本体があまり得意ではなかったのだろう。自分は農業を文系の視線で攻めたが、理系の視線で攻めることができなかった。
でも8~11年目の時期の自分自身の攻防があったから、現在も農業界にとどまることができている。つまり個人の家庭に送るワンパックから、業務用のイタリア料理店に送るワンパックに主体を切り替えることができたのである。個人の家庭に送るワンパックだけだったら「ジリ貧」になるだけだったと思う。現在は家族構成が2人とか多くて3人だから、野菜のワンパックを送っても「使い切れない」という状態が起きるような気がする。それと10年ほどの間に家族構成の変化(子供の進学とか結婚、単身赴任等)もあり、長年買い続けてもらうことは難しい。だから、常に営業を続ける必要があるが、この営業が難しい。
個人用から業務用にワンパックの切り替えはできたが、売上金額は個人用も業務用もあまり変わらない。
11年目の末にパソコンを購入し、13年目の末に、それまでのあめんぼ通信をまとめて1冊の小冊子にしてからは、以後毎年1冊の小冊子にするようになった。つまり、冬の農閑期にまとめる小冊子中心に農業がまわっていくようになった。小冊子の商業出版のトライに挫折を感じてから、努力目標がブログに変わった。
農業に向いていると思うが、農業本体の能力はあまり伴わなかった。「好きこそ物の上手なり」という言葉があるが、好きであることと能力があることとは違うように思う。たくさんの農業形態の中の、ごく小さな1ジャンルであるワンパック宅配しか、自分のできる農業形態はなかったのである。結局、どんな農業者も、長年している間に、知らん間に、自分の得意な方向に舵を切っているようである。収入になる、ならないにかかわらず・・・。自分の農業収入の枠内で自分の生活をまわしていかなければならない。
Nさんはとても器用な方で、理系のセンスが高いが、農業本体ではあまり稼げないタイプである。得意、不得意は正反対であるが、農業本体であまり稼げないという点はよく似ている。でも農業自体は好きで、農的生活にどっぷりつかっているのである。ただお互いにもう若くない。65才までは現役を続けるといっても、すでにカウントダウンが始まろうとしているのである。いくら大器晩成型と自分を鼓舞してみても、残された50代はどちらも後6年ほどなのである。この間に何らかの結果を残さなければ・・・。
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昨日、和気町のNさんから「ドラム缶炭焼きをするから来ないか」という声かけをしてもらった。ドラム缶炭焼きの起承転結をブログに載せたいと、先日訪問した時に頼んでおいた。
近所のモモの木を焼くことにした。木をチェーンソーで切ることからスタートです。炭焼きをするには、チェーンソーとかナタとか手斧が使いこなせた方がいいです。これらの道具が使えない人は炭焼きに向きません。だから自分は10回ほど焼いてリタイアしてしまいました。
Nさんは、以前の入植地の色川(和歌山県、那智勝浦町)で、山林組合に勤められていたので、チェーンソーの扱いには慣れています。右の画像のような、懐かしいリヤカーも、地域の誰かにもらったようです。このモモの木も近所の人が切ってと言うのを気軽に引き受けて切り倒しています。先方も助かるし、Nさんも炭焼きに利用できるというメリットがあったわけですが、今、炭はなかなか売れません。炭を利用する機会がほとんどなくなっています。Nさんは七輪などで「家の暖房」に利用しています。

色川へ入植されたのは40才の時で、それまではチェーンソーやナタや手斧とは無縁の世界で生きて来られたのに、上達が早いというかセンスがいい。「必要にせまられたから・・・」と言われるが、素地はあったのだと思う。
炭焼きはドラム缶に詰める材料を用意するまでが大変である。1人でするより、集団でわいわいやった方が楽しいかもしれない。リンク「炭人」は多くの炭焼き人とリンクしているので、興味があればそちらも見てください。
あのモモの木1本で、ドラム缶窯一杯半ほどの材料になるらしい。冬場の農閑期に楽しみで焼くにはドラム缶窯くらいの大きさが適していると思う。今日は、すでに割ってあったドングリの木と、先ほど切り倒したモモの木を割ったのと、両方利用してドラム缶に詰めたが、これらの用意だけで2人で2時間半ほどかかった。

材料の木を詰める前のドラム缶窯です。ドラム缶の周囲は保温のために土で覆い、土留めにトタン板で囲んでいます。ドラム缶を寝かせた背面に材料を入れる投入口(22センチ×25センチほど)があり、そこから材料を入れます。

焚き口で火を起こす。その時の気象や、材料の乾き具合などで、口焚きの時間は変わってきますが、今日は2時間半ほどでした。Nさんの場合は物置の中にドラム缶窯が設置してありますが、露天より、このような雨よけがあった方が、天候の影響を受けない、よい炭が焼けるようです。ドラム缶窯の煙の出口の温度が75度くらいになった時に口焚きを止めます。この後、炭化が始まります。空気穴を少し残して焚き口をふさぎます。3時頃からモモの木を切り始めて、ドラム缶窯の口焚きが終わったのは夜の8時半頃だった。家に帰ったら夜の9時半をまわっていた。

今朝は雪だった。昨日は、真ん中の画像のような状態にして家に帰った。炭化が終わりに近づくと、煙が透明になりやがてなくなります。煙が切れたら、空気穴を残していた焚き口を右図のように完全にふさぎます。次に排煙口もレンガ等で完全にふさぎます。一昼夜ほどして窯が冷えたら炭を取り出します。
ここ6年ほど自分で炭焼きをしていないので、説明がうまくできませんでしたが、これがドラム缶炭焼きの一連の流れです。
ドラム缶炭焼きも趣味では長く続かないと思います。Nさんは暖房とか煮炊きなど、生活の中に炭を取り入れているので、農閑期には何回か焼かれています。
いつかまた、炭が脚光を浴びる時が来るだろうか。
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左の画像は、入り口から身を乗り出して雑草を食べようとしているニワトリです。真ん中の画像は、オクラの足元に蒔いたスナップエンドウです。右の画像はナスビの足元に蒔いたグリンピースです。
学校を出て最初に勤めた会社の経験から、自分はサラリーマンという社会は向かないと思った。しかし、サラリーマンをするしか、稼ぐ手段がなかった。転職の繰り返しになった。まさに悪循環の十数年だった。この挫折の連続が、個人でできる「農業」という仕事につながった。「農業では食えない」ということも見通せたが、サラリーマンは、もうしたくなかった。○○回も転職した自分が、あめんぼ通信は16年間、1度も途切れていない。住む世界が違えばこれだけ変われるものである。
転職を繰り返す人は、サラリーマンが向かないのだと思う。がらりと環境を変えた方がよい。しかし現在、独立して個人でできる仕事は、限りなく少ない。向かなくても、サラリーマンをしなければならないという宿命を人は背負って生きていく。
農業では、百種類の仕事をしなければならないから「百姓」と言うらしいが、自分のように、不得意なことの多い人間でも、あまり無理せずできる、あるいは苦もなくできるという仕事もかなりある。その無理せずできる部分を強調したり、それを特にアピールすることで、農業を継続することができている。
農業においても、自分の得意な分野、自分の土俵でしか、カネにすることはできない。しかし農業は、あらゆるタイプの人を受け入れてくれる大きな包容力のある職業である。でも農業を継続するとなると、現役世代ではある程度の収入にする必要がある。農業をスタートして3~4年のうちに、農業の世界で当人が稼げる金額が見えてくる。
①50万も稼げない人
②やっと100万前後になる人
③200~400万になる人
④500万以上稼ぐ、農業における才能豊かな人
仮にあなたが農業の世界に転身したとして、どれくらい稼げるかは数年やってみてわかると思います。やっぱり農業では食べれないからといって、元のサラリーマンの社会に簡単に復帰できるほど現在の社会情勢は甘くありません。だからできれば、農業に新規参入する前に、どれくらいなら自分に稼げるだろうか、見通す必要があります。休日などを利用して、できるだけ多くの農業者の田んぼを訪問してみるとよいと思います。一口に農業といっても、
①野菜
②果樹・・・剪定とか誘引などの技術的要素が高く、棚などが必要な果樹もあるので、「器用さ」が要求されそうです。
③稲作・・・米価があまりに安く、機械に元手がかかりすぎるので新規参入は難しいと思います。
④畜産・・・ニワトリは入りやすい形態だったのですが、鳥インフルエンザの発生以後、敬遠されているようです。ボクがしているような楽しみとしての20~30羽養鶏ならいつでも飼えます。
①の野菜は千差万別です。露地で大規模にするか、あるいはハウスで集約栽培にするか、どんな作物を専門作物にするか、あるいは自分のように少量多品目栽培のワンパック形態にするか等ですが、もしワンパック系に進みたいなら、有機農業研究会が発行している「土と健康」誌や「有機農業者マップ」等を見て、自分が進みたい県の農業者を探して、何度も訪問して田んぼを見学させてもらったり、お話を聞かせてもらったりすることです。
従来型の農業なら、今は各県に「就農支援制度」がかなり整ってきていると思います。岡山県にも「岡山ニューファーマーズ支援制度」があります。
どういう農業形態を選択するにしても、田んぼ訪問をして、田んぼの前に立った時、あなたのそれまでの人生経験を総動員して、それが自分にできるだろうか、考えて考えて考え抜いてみてください。自分も農業を始める前に、ハウスで花栽培をされていた方を、農業改良普及センターの所長に連れられて訪問したのですが、お話をうかがったり、10分ほどハウスを案内してもらっている間に、自分にはとてもできない農業形態(こんな能力はない)だと感じました。
楽しみのためにする定年帰農型の農業と違って、作物をカネにしなければならない現役世代の農業は本当にきびしいものがあります。今から17~20年ほど前に、有機農業的生き方や暮らし方を求めて、県外から岡山に入植して来られた、現在52~57才の方を6人知っていますが、現在も農業を生業とされている方は2人しか残っていません。この厳しい現実を、農業をどうしようか迷っているあなたに覚えておいてほしいと思います。
農業を始めてからは、地域で感じていた「疎外感」も、あまり意識しなくなった。別に地域の人と親しくなった、親しく会話するようになった・・・と言うわけではない。この疎外感はどこから生じていたのだろうと考えてみると、やはり「土」と離れ過ぎた生活を続けてきたことにある。他人(人間)からの疎外感ではなくて、土に触れることのなかったことによる疎外感であるということが、少しずつわかってきた。「土着性」というのは、人間の本能であると思う。カネにならないというストレスは相変わらず受け続けているが、毎日、田んぼで、カエルやクモなどの小動物、あぜの草花、木々の緑、小鳥の鳴き声、などに囲まれているので、孤独感もない。疎外感や孤独感は、親しい友人によっても癒されるが、一日のほとんどの時間を過ごす田んぼで癒されることが多い。
サラリーマンが週末に、自然に触れるために郊外へ繰り出すのは、やはり「土への回帰」を求めてのことだろう。生まれ育った地で農業ができている(農業を継続できる環境にある)ことは、ありがたいものである。36の年まで、結構過激なサラリーマン生活を送ったので、なおさらである。
都会で生まれ育った人は、「故郷」をどのようにイメージしているのだろうか。生まれ育った場所や、長く住み続けている場所は、それがたとえ大都会のマンションだったとしても、そこが故郷になるのであろうか。都会が故郷としてイメージしづらいのは、その風景や周りの建物が10~15年の周期で一変してしまうからだと思う。イギリスやフランス、ドイツ、イタリアなどのヨーロッパにおいては、都会でも、古くからの町並みや、伝統ある建物が大事に保存されていると聞く。そういう場所なら、大都会でも、そこが故郷と言える人が多いと思えるが、日本のように、取り壊されて一変してしまうと、自分の居場所や自分の存在そのものが、根こそぎにされたような錯覚を覚えるのではなかろうか。
田舎の集落では、家は新しく建て替えられ、道路は舗装され、池や川は護岸工事が施され、新しい工場ができたりしても、見渡す風景、見慣れた光景は、大体、昔のままである。近所の一代前、二代前に亡くなった人の顔もうっすらと、まだ記憶に残っているというのが、田舎の集落である。人の生き死にがあり、住む人は変わっても、二代前のその家のおじいさんやおばあさんは、どういう歩き方で、どういうしゃべり方をしていたということまで、子供心に覚えている。今から45年ほど前は、集落の半分近くがまだ農業をしていた時代なので、顔を合わすことが多かった。現在は、集落のほとんどの人がサラリーマンをしているので、集落の「出仕事」の時くらいしか、顔を合わすことがない。まだ20代、30代だと、同居している親が、これらの行事に出てくる場合が多いので、すぐ近所なのに「顔もよく知らない」ということが、田舎の集落でも多くなった。
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定年になってから、時々縁農に来てくださっていたIさんは岡山県北の出身であり、3人の男兄弟の長男であり、実家は末の弟さんが継がれているらしい。卒業すると同時に3人とも県外へ出られたが、末の弟さんだけは、都会は性に合わないと言って、5年後にUターンされたらしい。誰が家を継ぐなどとは兄弟間で一度も相談をしたことなどないのに、成り行きでこうなったと言われる。最後の勤務先は兵庫県であり、十数年前に瀬戸内市に土地を購入して家を新築された。7年ほど前に、都会の人を対象に神戸近郊で百姓塾を開きたいと思って、町内の友人に相談した時にIさんを紹介されたのがお会いしたきっかけである。その後お会いしていなかったが定年前にメールをもらっていた。
土地を買い、家を新築されたわけだから、経済力もそなわっていたのだろう。子供さんはすでに独立されて夫婦2人で住んでおられる。Iさんは著名な所へお勤めだったが、同期卒業の方もそれぞれ安定した職業生活を送られた世代であるらしい。それぞれの方の努力もさることながら「良い時代」を生き抜いて来られた世代の人たちだと思う。自分の場合も転職してもすぐ次の会社が見つかった時代だから、今よりかなり生きやすい時代を生きてきたが、転職ばかりしていたので、経済的には超低空飛行だった。だから、「家を建てる」とか「ローン」などは論外だった。「家賃を払う」も考えられなかった。自分が生まれるちょっと前に建った家があったので、家のことを考える必要がなかったのはありがたかった。
ボクはIさんの末の弟さんの意識に近い。都会には自分の居場所を見つけることができず7年後に地元に戻ってきた。都会では浮き草みたいな浮遊感が続いていた。地元に帰って岡山市内の会社に勤め始めたが、何回も転職を繰り返した後、突然ひらめいた農業に転身して3~5年ほど経過してからやっと、足が地についたように感じた。40才を過ぎた頃だった。「40にして惑わず」という言葉があるが、自分の場合はやっと40才にして、自分の職業らしきものに出会えた。つまり40才頃がいうなればスタート地点だった。
地元で農業を始めたからといって、「こよなく愛した故郷・・・」などという意識は全くない。逆に自分の故郷はあまり好きな場所ではない。でも仕方がない。そんなことを言っていたらどこにも住む場所がない。ほどほどに妥協しなければ、アイデンティティを持つ場所も定まらないままに人生が終わってしまう。
農業を始めたことで、それまでの浮遊感はなくなった。土着と言うのかも知れない。やっと人並みに自我が保てれるようになった。
自分の農業形態の収入的限界を感じていた8~10年目の頃、ハーブ、炭焼き、百姓塾、イベント収入(ハーブティ、ゆで卵、1斗缶で作る鑑賞炭)、家庭菜園ヘルパー、他のアルバイト等、いろいろ模索したが、うまくいったのはハーブだけだった。一時、百姓塾をサイドビジネスにしようと、かなりの営業活動をしたが、全くもってだめだった。当時、兵庫県に勤められていたIさんを紹介してもらったのはこの時期である。
子供が働くようになり、自分の年令も古希まで16年ほどしかないと強く意識するようになった去年あたりから、農業以外の収入の道も、農業形態の変更もあまり考えなくなった。自分のアイデンティティが形成できていったのは作文のおかげである。都市生活者に届けるワンパックには、野菜以外に何らかのメッセージが必要と思って始めたあめんぼ通信が、今は確実に自分の農業をささえてくれている。
分家して4代目の我家、代々の農業。3代目の父は経済的理由で、50代に入る頃から、主たる収入を「日稼ぎ労働」に移さざるをえなくなり、逆に自分はサラリーマンとして挫折を繰り返すという経過をたどった後の30代後半に農業に転身することとなった。
故郷そして農業は、自分自身を見失なわないでいられる唯一の場所である。Iさんはその場所を末の弟さんに任されて、自身は縁もゆかりもない瀬戸内市に新天地を求められた。県外から入植して来られた友人たちもそうである。一代で築き上げるという経済力、精神的パワー、人間関係力、など彼らはすごい。ボクは地域にしろ、家にしろ、田畑や農具にしろ、事前にレールがすでに敷かれていた場所だから、身一つをそこに置くだけでよかった。でも彼らは何もない所からスタートしている。彼らが地域や集落に自他ともに融合していくには、それ相応の年数がかかるだろう。でも廃村に近いような山村の集落では、ある種の排他的な空気はかなり薄れ、若い入植者や都会からやってきた定年帰農者たちが、その地にとどまり続けてくれることを期待するようである。元々の居住者は、廃村という事態に追い込まれるようになって、それまで築いてきたアイデンティティが、故郷の喪失とともに流亡してしまうことを察知したのである。
自分は、故郷のない、あるいは故郷を後にした、もしくは故郷を探している、さまよえるアイデンティティを持った異域の人と出会うことが多い。それは自分がどんな組織や地域に属しても、いつも異域の人であるからかも知れない。

年末から、田んぼの畦岸にタンポポの花が咲いている。「ひだまり」のような場所ではなく、寒風が通り過ぎる所なのに、暖冬のせいかもしれない。咲いているのはこのタンポポだけだから、この周辺に咲くような条件が整っていたのだろう。当地で畦岸にタンポポが満開になるのは4月の中旬過ぎです。無数のタンポポが咲きほこる畦岸はとてもきれいです。畦岸がきれいなのは4月中旬のタンポポの時期と9月中下旬の彼岸花の時期だけで、他の時期は、伸びなくてもよい草が勢いよく伸びて、草刈に追われます。
畦草といっても、都会の人は「草」を見る機会もないと思います。草など、あなたの人生に全く関係ないし、草の名前など覚えることもないと思います。ボクも十数年も農業を続けていながら、草の名前をほとんど知らないのです。春の七草も言えないし、秋の七草も言えません。覚えようとする気もあまりありません。
野菜と同じように、畦岸の草も春夏秋冬、変わっていきます。春夏雑草、秋冬雑草と分類した方が適切かも知れません。でもいちいち気にして見ているわけではないので、春夏雑草が秋冬雑草にいつ頃から変化するのかはっきりとは知りません。5月の草の伸びはまだぼつぼつといった程度ですが、5月末頃から、6月、7月、8月、9月上旬の3ヶ月半ほどは、草刈に追われます。この時期にはニワトリの青菜には全く事欠かないが、年が明けて1月、2月、3月の3ヶ月間はニワトリの青菜が少なくなります。ニワトリは32羽で、田んぼ面積は全部で4反(40アール)で、田んぼ枚数は18枚あり、畦岸もかなり多いが、それでも青菜が足らなくなります。秋冬雑草は春夏雑草と比較して、ほとんど伸びないし、例年なら豊富なハクサイ、キャベツの外葉やダイコン、カブの葉が今年はアブラナ科野菜の虫害のため、あまり与えることができません。
畦岸の秋冬雑草はほとんど伸びないが、田んぼの中の秋冬雑草は結構よく伸びます。その理由は田んぼには野菜の「残り肥え」が豊富だからです。真ん中の画像は、その田んぼに今たくさん生えている雑草です。この雑草は群生するし、ニワトリに今与えている草のほとんどはこれなので、この草の名前くらいは知っておこうと思い、以前調べたことがあります。「ホトケノザ」という雑草です。1ヶ月ほど前にはレンゲ色をした花が満開でしたが、今は花は咲いていません。本には「日当たりの良い畝や畑に多い。全体に赤紫色を帯び、群生する。茎の上部につく葉は半円形で左右で茎を抱いている形を仏の座る場所に見立ててている。また約2センチほどの淡紅色の唇型の花が葉の上に立つようにして咲く姿も“仏”を連想させる。春の七草の本当のホトケノザであるコオニタビラコとは全くの別物で、食べてもまずい」と書かれていた。こんなにきれいな雑草も少ないので、ちょっと目立つ雑草です。この雑草と、多少はとれるハクサイやキャベツの外葉と、豊作のニンジンを葉つきで毎日3~4本与えています。だから画像のような、とてもきれいな羽色をしています。羽色がきれいなのは、繊維質が十分に足りているからだと思います。たった32羽で、40アールも田んぼの面積があっても、3月末頃には青菜が足らなくなるくらい、ニワトリは青菜を好みます。
あなたの人生にとって、畦草のことなど全くどうでもよいことです。実際、自分も若い時代の20年間ほど、畦草などどは無縁の世界で生きていました。関係なかったのです。でも農業を始めると、いやがおうでも目に付きます。畦草刈りをする必要があるし、畦草をニワトリに与えることも多いからです。50年ほど前までは、田んぼを耕すために、どこの家でも黒い使役牛を1頭飼っていたが、草食動物の牛には、どうしても田んぼの畦草だけでは足らなかったので、早朝から競争で「共有の土手草」などを鎌で刈っていたらしいです。時代が変われば変わったで、すでに誰も土手草などには見向きもしません。
何ヶ月も何年も草を見ることもない人間とは、いったい何なんだろう。通勤や通学のいつも通る道で、ちょっと草を気にして探してみてください。草がありますか。どんな草ですか。どんな土から生えていますか。土はどんな色をしていますか。自分がいかに自然から隔絶した場所で生きているかわかると思います。でもやっぱりそんなことは、あなたの人生に関係ない・・・。
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農業は冬にはあまり仕事がない。温度が低いので、種をまくこともできないし、作物も寒さでちぢこまってしまい、日中の暖かい時間帯にごくわずかしか大きくならない。ハウスを持っていれば、ハウスの中は暖かいので、露地と違って成長のスピードは多少速いが、それでも秋や春のようなことはない。
冬の野菜は12月中旬頃にピークを迎えるが、そのピークの状態から少しずつ劣化しながら、2月末頃まで寒い田んぼで出荷されるのを待つ。市場出荷方式なら、その作物が最も良い状態の時に、全量出荷できるが、ワンパックの場合は、各顧客の出荷予定日に、少しずつ少しずつしか出荷できないので、その間に霜害が出たり、雨などのいらぬ水分を吸って病気が発生したりする。この出荷ロスを2~3割は覚悟する必要がある。
それって損・・・と思うなら市場出荷方式に切り替えればよい。市場出荷方式では、ハクサイでもキャベツでも重量やサイズが2LとかMとか2Sなど段階ごと定まっているし、ある程度の量(箱数)も出す必要がある。そのためには規模も大きくする必要があるし、とにかく外観が悪い野菜は相手にしてもらえない。それがあなたにできるのなら、ワンパックより市場出荷方式を選択した方がはるかにカネになると思う。自分の場合は、大規模に作るとか、外観やサイズや重量のそろった野菜を作ることがあまり得意ではないので、今のワンパックを続けています。環境や安全のためにワンパックを続けているのではありません。まず生活(経済)があって、その次の段階が環境や安全への配慮(意識)だと思います。
農業者と一口にいっても、それぞれ能力にかなりの開きがあります。真似ようとしても能力的に真似ができないことがほとんどです。そんな特別の技術力を持った人だけが、今の農業界で生き残っているような気がします。「自分の得意と思えることだけで手がいっぱい」という状態にできるだけ早くもっていき、あなただけのオンリーワンの状態が形作れた時、あなたのオンリーワンがあまりカネにならないオンリーワンなら、いずれ継続することがきびしくなります。
ワンパックを選択したのは、この農業形態しか自分にはできそうになかったからです。ワンパックの性質上、農薬や化学肥料はできるだけ控えています。虫食いで外葉がレースのようになったハクサイや、二股になったニンジンでも、自分の場合は平気で出します。でもそれには限度があって、自分基準で、これくらいなら顧客も理解してくれるだろうと思える範囲であり、それ以上にひどいのは即ニワトリ行きです。一種類を多量に作るのではなく、多種類を作るという、自然に即した作り方をしていると、無農薬でもたいていの野菜はできます。ただし「アブラナ科野菜」は無農薬で作るのは極めてむずかしいです。3~4年は無農薬で作れても4年を越える頃から虫害が多くなります。そのため自分の場合はアブラナ科野菜は①ハクサイ ②キャベツ ③ダイコン ④カブの4種類に絞っています(ブロッコリは少々、春作ではコマツナを少々)。アブラナ科野菜以外では、①ジャガイモ ②タマネギ ③ナンキンに毎年のごとく病気が発生し、収量は1~3割落ちるが収穫は可能です。他の野菜やハーブにはこの17年間、あまり困っていません。一種類をそれほど多量に作付しなければ、無農薬でできる野菜の方がはるかに多いです。しかし、秋冬作においては、ワンパックにしめる「アブラナ科野菜」の比重が大きいので、これを完全無農薬でいこうと思うと負担が大きすぎます。初期に1~3回の農薬は使った方がよいと思います。安全性とは絶対的なものではなく、他と比較してどうかという相対的なものと自分は考えています。①水の問題 ①どんな鶏糞や牛糞を使っているかなど肥料成分の問題 ①当人が作るようになる前、その田んぼはどういう使われ方をしていたか等も問題です。
完全を求めようとすると、無理が生じやすいし、固まってしまって、かえって安全から遠ざかるような気もします。
そんなに肩肘はって安全を追求しなくても、あなた自身を信じて顧客は続けてくれます。小さな個人農家が送るワンパックの場合、半年も野菜を購入(月に1回として6回)すれば、どんな作り方をしているか、どういう人が作っているかくらい、届けられた野菜から判断できると思います。無農薬野菜を扱っている大きな流通業者のワンパックより、小さな個人農家のワンパックの方がはるかに「土の香り」がするし、その地域の気候風土(旬)まで届くが、大手のワンパックの場合、全国の契約農家の無農薬野菜を寄せ集めたワンパックだから、土の香りも季節感もばらばらです。
有機農業研究会が出している有機農業者マップ(リンク参照)等には、小さな個人農家のワンパックが多数出ていますから、大手のワンパックよりそちらをお勧めします。岡山県にも「おかやまエコ読本」という本が出版されており、県下の有機農業者が多数紹介されています。どの県にも今はこの類の本が出ていると思うので、もしワンパックを購入してみたいと思ったら、希望する県の県立図書館や市立図書館に電話して、そういう本が出ていないか聞いてみるのも参考になります。
個人農家はその地域にかなりの農家のネットワークをもっているはずですから、将来の食糧危機?や、将来の田舎移住(定年帰農)や、次代の子供たちに土のある生活を伝えるために、「田舎の親戚作り」を40代、50代くらいからぼつぼつ始めてみるのもよいと思います。小さなワンパックの購入があなたの未来に違った展望を開いてくれるかもしれません。現にそういう方法で田舎移住を実現された方を何人か知っています。
田んぼには今、12月中旬にピークを迎えた野菜が、今か今かと出荷されるのを待っています。でも今年はアブラナ科野菜がひどい虫害を受けてよいのがない。①白菜→レースの様、重さが例年の半分 ②キャベツ→重さが例年の半分 ③ダイコン→3~4本で例年の1本 ④カブ→壊滅、農薬を2回も使ったのにこの有り様、使用量が少なかった ⑤ニンジン→たくさんあるので×2倍 ⑥ホウレンソウは害虫が来ない。菜っ葉なので×2倍は出せない ⑦ロケット→ホウレンソウと外観がそっくりのハーブ。生食、おひたし、炒め物と利用範囲が広いが茎が少し硬くなっている。⑧サトイモ→旬は10月。味は徐々に落ちているがこれは仕方がない ⑨ネギ、シュンギク→シュンギクは霜に弱いので大寒以後は出荷できなくなる ⑩秋ジャガイモ→当地では2期作できるが、収量は春の半分以下。あまり作っていない。⑪ヤーコン→7月上旬の2週間の過湿が不作の原因。過湿を嫌う。少しは出せるだろう。とにかくワンパックという形にはもっていくつもり。
2月末まで出荷予定だが、今年は2月上旬で終わりかも知れない。業務用のハーブの注文は、忘年会やクリスマスで12月は多いが、1月の中旬を過ぎるとぐんと少なくなる。
農作業は急ぎの用はないが、12月にする予定だったのに雨天続きでできなかった次のような作業がある。
(1)麦蒔き準備のための耕運
(2)乾いたら急いで稲ワラを頂く
(3)すくも(もみがら)を軽四に4杯ほど頂く→クン炭(焼きすくも)にする
半日は農作業をして身体を使うようにしている。
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田んぼのすぐ上にお墓があるが、平生はなかなか上がれない。お盆前、正月前、春と秋のお彼岸くらいである。当集落でも、山すそに墓地にする余分のスペースはなくなっている。土葬は25年ほど前で終わった。墓地にするスペースがいくらあったとしても、土葬の場合は、「埋め穴を掘る」という作業に、集落の人の手間をとるし、それはかなり重労働であるし、山すそは岩盤もかたく、掘っていて怪我でもされたら大変である。どこの田舎でも25年ほど前を境に、土葬から火葬に移ったのではなかろうか。土葬から火葬に変わっただけで、日本人の死生観まで変えてしまった。単なる変化ではなく、それまでの人間の深層意識を覆す歴史的大転換になった。
土葬にすると魂は土に還っていくと思う。火葬にすると、魂は還る場所がなく、空中を浮遊するような気がする。火葬しか知らない人は、こういう感覚は思いもつかないだろうし、火葬というのは、至って常識であり、疑問を挟む余地はないかも知れない。自分の場合、祖父は土葬であり、その2年後に亡くなった母は火葬だった。25年ほど前のことであり、集落がちょうど土葬から火葬に変わる頃に亡くなったので、こういう形になった。土葬というのは、まだ生きているような死体であるが、火葬では骨になってしまったのを見てしまうわけだから、実はとても残酷なことである。でも現代人はすでに火葬を当然のこととして、それ以上の思考を進めない。祖父の土葬のときはそうでもなかったが、母の火葬の時は衝撃だった。その後の父や祖母の時はすでに火葬を当然と思ったのか、そうでもなかった。
つい50年ほど前までは、日本人は何千年にもわたって「土葬」をしてきた。つまり、土をかぶせて、土に戻してきたのである。土着信仰とは、死せる魂は土に戻り、やがてまた、土から新たな命が芽生えてくると信じて祈ったのである。現在の日本人はすでに、生きている時から「土」に拒否され、死んでからも「土」に拒否されているのである。生きている時も死んでからも「土」から離されてしまった人間の魂はいったいどこへ行くのだろう。宇宙のゴミになるのだろうか。塵となって空気中を浮遊するのだろうか。まるで土に戻らない産業廃棄物のポリみたいである。土に還る(戻る)から、土からの再生(芽生え)を信じたのに、土に還らなくなったら、魂の再生(輪廻転生)を考えることができない。
やがては人の命は土に戻ると考えていた50年前の人は、帰依するところや、拠り所は「土」だった。美しい土、豊かな土、自分をはぐくんでくれた土、恵みの大地。でも今その大地は、化学物質で汚染され、産業廃棄物のような土になり、再生不可能のようなアスファルトで覆われてきている。美しい土に触れて湧き出る喜びを感じるのは、それは60才になり、やっと大地の上に帰ることが許され、初めてダイコンの種を土の上に落とした時かも知れない。自分の場合はどうだったんだろう。初心を忘れてはいけないはずなのに・・・。初めて地下足袋を履いたとき、なにかこそばゆいような、自分には似合わないような、土からの跳ね返りがあるような、素足でいるような、何か土に笑われているような、でもそんなことにとらわれる余裕はなかったのだ。職業として農業を始めたのだから、とにかく形あるものを生産しなければならないのだ。
今は死ぬと葬式費用が60~90万ほどかかり、先祖墓を立てるとなると200~300万の値段がかかるらしい。前の代が墓を立ててくれていればよいが、自分の代で先祖墓を立てるとなると大変である。
自分は名刺に「土に還る日まで一介の百姓でありたい」と書いているので、死んだら土に還ると思っているが、火葬では、土に還るというイメージがどうしてもわかない。死んだら「無」だから、野菜へのご恩返しに、骨粉(とてもよいリン酸肥料)として田んぼにばらまいて・・・と子供に頼んでおいても、そんな勇気は持ち合わせないだろうし、ボクの依頼など考慮することなく、自分たちの体面や親戚への体裁や世間への申し開きや、仏に対する恐怖心等から、社会的な常識をあまり逸脱しないような方法しか選択しないだろう。
本来が土着性なのに、土から離された生活を余儀なくされたために生じた「浮遊する自我(アイデンティティ)」と、火葬に変わったために土に還れなくなった「浮遊する死せる魂」は同一のものである。
これでは「輪廻」や「転生」という概念も人間の心に宿らなくなる。中には巨大宗教集団に入れ込む人もいる。でもそういう宗教を信心しても現世の自我(アイデンティティ)は開放されないし、まして来世の魂などあると信じること自体が、土の上の生活から離されたゆえの「煩悩」である。死んだら土に戻っていく。そして土からまた新たな命が芽吹いてくる。昔の人の土着信仰はこうだった。ただひたすら祈り、ただひたすら念じるだけだった。信仰的には昔の人の方がはるかに高い位置にいる。万物の神は土に宿す。
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