あめんぼ通信

春夏秋冬の野菜やハーブの生育状況や出荷方法、そして、農業をしながら感じたことなどを書いていきたいと思います。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
このページのトップへ

年の瀬

20061231110216.jpg  20061231110255.jpg  20061231110326.jpg


 もう随分昔のことになるが、ワンパックをスタートした頃に野菜をお届けしていた老夫婦が、応接間に通してくれて、いろんな話を聞かせてくれた。その話の中で今でも時々思い出し、記憶に残っている言葉がある。それは「人は10年、家は20年、国は30年」という言葉である。一つのことを10年がんばれば、展望が見えてくるということを言われたのだが、自分はもうじき17年が経過する「ワンパック宅配農業」に展望は見出せていない。農業という職業自体が「斜陽産業」であったこともあるが、選択した「農業形態」も適切でなかったかもしれない。でもこの農業形態しか、やっていける自信が持てなかった。
 当時、何回も転職を繰り返していた自分は、「農業」という職業が頭にひらめいた瞬間、何か天に昇るような気持ちだった。我が家は元々農家であり、50代になってから、生活のために外に働きに出るようになった父も、50アールほどの稲作と食べ糧の家庭菜園は続けていた。なのに、「独立自営業」としての農業がひらめかなかったのは、「農業では食えない」という意識が自分のすみずみまで根付いていたからである。転職を繰り返していて、組織で働くことにかなり苦痛を感じていた。だから、独立してできることはないか、寝ても覚めてもそればっかりを考え続けていた。そんな時の突然のひらめきだったから、とてもうれしかった。こんな身近に「独立自営業」がころがっていたのに何年も気づかなかった。


 農業に転身してからも、サラリーマンの時と同じくらい努力してきた。ただ、農業は高度資本主義社会では、ビジネスとして成り立たない職業の一つだという認識が自分に不足していた。ニワトリを例にとって考えると、このことがよくわかる。40年ほど前までのニワトリは、家の軒先の土の上で20~30羽ほどを飼うという形だったが、40年後の現在は鶏舎棟という会社組織の管理棟の中で、土から離され、縦、横、高さ数十センチのステンの檻のなかで、後ろにも向けない身動きできない状態で、口ばしだけ、生きるために必死に動かしてエサを食べる「タマゴを生産する道具」と化している。今のニワトリはこういう飼い方をされている。効率、能率、採算、個数管理、エサ管理、コンピュータ管理、大規模、科学的、衛生的という資本主義の概念が、従来の飼い方を淘汰したのである。野菜はまだそこまではいっていない。①キュウリを作るには40年前と同じく60日かかる。②キュウリを作るにはかなりの面積がいり、その間その設備は他に転用できない。という時間回転率と設備回転率がいまだに変えられないために、利潤を生じない。だから企業は今のところはまだ農業にあまり新規参入しない。「低開発国からの輸入」という手段を取った方がはるかに利益になるのである。こういう理由で、農業は高度資本主義社会では「斜陽産業」である。興起産業になるには、野菜がニワトリのようなコースに入った時である。その時農業は、農作物をカネにする必要のない定年帰農型(家庭菜園型)と、企業が大規模に作るニワトリ管理棟型に二極化していくだろう。現に、ビジネスとして成り立っていると思える個人の大規模農家でも後継者はほとんどいない。理由は①それでもサラリーマンの年収よりかなり劣る。②日曜、祭日がなく作業が過激である。③市場出荷するためには農薬散布は致し方なく、自分の身体にもあまりよくない。


 「人は10年」と何度も聞かされたが、17年が来る現在も自分の農業に展望が見出せないでいる。経済や社会や農業に対するいろんな洞察力が自分に欠けていたのだろう。でもあの時は農業という選択しか思いつかなかったし、農業にとても「希望」を感じた。現在53才、今ひとたびの転身をめざす気力はあまり残っていないし、他の分野の職業も思いつかない。30代だったら考えると思う。40代でも考えると思う。自分はもう現在の農業、現在の農業形態を続けていくしかない・・・。


 来年と言ってももう明日であるが、年が明けた2月29日には「ふるさと色川」に旅に出て3年が来る。飲み会に集まってくれた人の顔や話や名前が今でも思い出せるくらい感動的な旅だった。それぞれ、どんな年末を過ごされているのだろう。あの地にはサラリーマンという固まった生き方を捨てて、若くして移り住んでいる人が多い。あの地の風景や水や空気に、今でも癒されているだろうか。そんなものにはもう慣れっこになって、何の感慨もなくなっているのだろうか。日々の生活に追われていることはないだろうか。でも現役世代の彼らに、もう逃げ場はないのだと思う。その地で住み続けて行くしか生きる手段はないような気がする。彼らの子供たちは、親が元々住んでいた大都会へと巣立っていったらしい。生活して生きていくために。


 たとえその日暮らしになったとしても、慣れ親しんだ風景や急流の水音が、あなたの今日をささえてくれる。そんな色川の夜が更けて、また新しい年を迎える。


ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!

スポンサーサイト
このページのトップへ

ふるさと色川 ⑤


「小さな田舎暮らし」の知恵

昨日は朝から雨だった。30枚の「色川(和歌山県 東牟婁郡 那智勝浦町 大野)リポート」をもって、Nさんの炭焼き小屋兼物置を訪ねた。色川の旅からすでに1ヶ月が過ぎようとしている。色川で出会った人たちのみやげ話を聞いてもらおうと思った。

 色川は、入った年代で、

第1世代・・・25年前~ 耕人舎の村山さん兄弟。食の安全、エコロジー思想。

第2世代・・・20年前~ 耕人舎の研修生が当地で独立。

第3世代・・・10年前~ NさんやOさんが、相次いで入植された時代。

第4世代・・・・5年前~ 町営住宅が整備されて、安価な家賃で住めるようになった。

第5世代・・・・・最近~ 緑の雇用事業等、都市の失業対策の一環としての田舎移住。

 Nさんは色川に入植したことに関して、(1)何か目的があった(2)何か好きだった(3)何か動機があった・・・ということはなく、さしたる展望があったわけではないと言われる。ただ、都会でもんもんとしていた時期に、「その状態からの脱出」が、田舎移住であったらしい。都会には、石ころ一つころがっていなくて、ヘビもいないし、カエルもいないと・・・。

 Nさんは、エコロジーの視点よりも、むしろ、人権の視点が強い人である。多種多様の職業経験と、東京や大阪等の大都会での生活・・・そして、大阪で喫茶店を経営していた時には、いろんな悩み事や人生相談を打ち明けられることが多かったらしい。「人権」にめざめ、それを強く意識するようになったのは、そのころからだったのだろう。人権問題は、「部落」とか「在日(朝鮮人)」として取り上げられることは多いが、会社内いじめ、子供のいじめなど、Nさんの人権意識は多肢である。人数とか、年令とか、山村であるとか都会であるとかの場所にも関係なく、いつでも、どこでも、偏見、差別、いじめが生じる。

 都会の学校で起こり安いと見られる子供のいじめも、3~4人ののどかな山村の小中学校でも容易に起こる。のどかな山村の学校は少人数だから、まさに「選択肢のない状態」に、子供が追い込まれることも多い。このような人権に対して、常に行動を起こしているのがNさんである。

 Nさん家族が、色川集落を後にしたのも、これといった特に大きな理由はないらしい。ただ、このまま年をとって50才を過ぎてしまうと、「出て行きたいと思った時、出て行けなくなる」と考え、まだ今なら動けると思った46才の転出となった。色川に入植して、まる6年が過ぎた春だった。

 現在、Nさんは町営住宅に住み、近くの田んぼを借りて、自給野菜や米、麦、大豆を作り、田んぼの一角に、竹で囲んだ物置小屋を作り、その中に、小さなドラムカン炭焼き窯を据えて、しばしば木炭や竹炭を焼いている。そして、農閑期を中心にして、年に3~4ヶ月ほどは、日稼ぎのアルバイトをしている。野菜や麦や大豆の販路はほとんどなく、米を数軒に売っているくらいで、アルバイト代が収入の大半らしい。本人はアルバイトをせざるをえないことが不本意らしいが、年に数ヶ月アルバイトに出て、残りの8ヶ月ほどを自給自足の農的生活をするのと、ボクのように農閑期の3ヶ月を除くと、年中あくせく働いて、それでもアルバイト収入くらいしかならないのだから、どちらがいいかわからない・・・似たり寄ったりだと話す。
 Nさんは、最初、色川に入った時、農業で生活を立てるというより、農的生活の方に比重を置いた移住だったのだと思う。移住してしばらくすると「森林組合」で働き始めたと聞いた。和気町に移住されてからは、最初は作った野菜の販路を捜して、かなり広範囲に歩かれたようなので、農作物で生活を考えられていたと思うが、1年後くらいには、アルバイトにも行かれ始めたので、どうしても農作物でと言う執着はなかったのだろう。大工の見習いでもできると思えるくらい器用な方だから、その器用さを生かしたアルバイト先が、捜せば、不景気でもいくらかある。客観的に見て、「何でもできる」という能力が、農業1本にしぼることを妨げたと言えるかも知れない。

 自分から見ると、そんなにこだわらなくてもいいのに・・・と思えるくらい、農法とか環境にこだわる人である。

(1)完全無農薬、完全無化学肥料

(2)黒マルチ、ポリ、塩化ビニールなどの、自然に戻らない資材は一切使わない。

(3)鶏糞や牛糞は飼料に問題があるからと言って、使わない。というよりも、肥料を全くやらない(持ち込まない)という自然農法である。

(4)そして、畑も全く耕さない。土手の草やあぜ草などを、土の表面に置いていく「草マルチ」だけというやり方で、もう6年も自給用の野菜を作っている。米にも大豆にも麦にも全く肥料はいれない。収穫後のワラを田んぼに敷き詰めておくというやり方である。

  これはNさんのこだわっている所だから、ボクは、賛同もしないし、批判もしない。ボクの田んぼは、1年不耕起栽培にすると、あぜ岸から、「笹の根」のような強い雑草が田んぼに押し寄せてくるので、耕さないやり方も導入しているが、それは1年が限度である。草マルチは労力的に大変である。ボクは黒マルチを多用している。

 小さな農業、小さな生活という点も、年収もNさんと似ているし、めざしている方向は違っても、世の中の不合理に対して絶えず戦っている姿勢に共感を覚える。一つ違っていることは、Nさんの場合、Nさんの収入だけで、親子4人が生活しているという点である。町営住宅という利点なのか、それとも生活スタイルなのか、Nさんの場合、ライフラインに関する費用がとても少なくてすんでいる。我が家の半分である。そして、一つの集落の中で借家すると、冠婚葬祭や村の出仕事や、役仕事、集会などの付き合いが多く、可能なら、町営住宅のような所に住みたいと捜したと言われる。そして、以前の入植地のような、イノシシの出るような山村はさけて、何かと便利な市街地に近い田舎を捜したらしい。稲作のための農具も「使わなくなったトラクタやコンバインはありませんか。もしあればゆずって下さい。変わりに、あぜ草刈等の労働奉仕を致します・・・」の広告を求人情報誌に出したりして、稲作のためのすべての農具(乗用トラクタ、コンバイン、ハーベスタ、手押しトラクタ、乾燥機、もみ蒔き機等)を無料で手に入れた。今は捨て場に困っている(廃棄処分料がかかりだしたから)時代である。ちょっと頭を働かせば何とかなると言われる。Nさんが言われるには、ある「物」が必要になった場合、

(1)   カネで買う

(2)   交換する

(3)   広告に出す

(4)   人に頼んでおく

(5)   もらう

(6)   ひろう

(7)   自分で作り出す

というような方法があるらしい。(6)の「ひろう」は、気に留めておれば、けっこう有用な物が捨てられているらしい。(7)の「自分で作り出す」も、自分の感覚にはない言葉だった。子供の頃から図画工作が苦手だった。自分の場合は①カネで買う。②カネを払って依頼する。③そういう事態が起こらないように日頃から遠ざかる(避ける)。④先送りする。という4方法を選ぶ。主に③、④を選ぶ。

 Nさんの場合は、「すき間ビジネス」というか、他人のちょっと気付かない、あるいは、不可能と思い気にも留めないことにも、思いつきのよさで、ビジネスチャンスにしている。ボクが遊びに行った7月中旬には、この2ヶ月ほど、あまり収入がないと言っておられたが、それでも豊かな食生活と豊かな時間だけは、いつもNさんのそばにある。

 年、100万を稼ぐことは、何の組織にも属していない自由人には、かなり厳しいが、逆に、100万だけ稼げば、必要経費がまかなえるなら、考えようにによっては、とても楽である。それが、100万でなくて150万なら、ちょっと厳しいと思えるが・・・。

 旅行や外食、車でのドライブ、ファッション、住む家等に関しても、農的生活を望むような人は、出費を控えても、さほど忍耐を伴わないと思います。1ヶ月の平均出費が10万円ではとても収まらないと思えるなら、農的生活(小さな田舎生活)は、ちょっとむずかしいかも知れません。でも、そのハードルが越えれるなら、また違った人生が開けていくかも知れません・・・。国民年金で受け取れる金額もこれより少ないし、生活保護で受け取れる金額もこれより少ない。

 
Nさんが当地で「小さな田舎暮らし」をまわしていくのは大変だと思う。しかし、色川から始まった、小さな田舎暮らしの知恵が少しずつ積み重なって、今の小さな田舎暮らしが維持できているように思う。第2の入植地である岡山県 和気郡 和気町に、ついこないだ引っ越して来られたような気がするが、色川で過ごした歳月と同じくらいの歳月を当地で迎えようとされている。時々、雨の日などに、元気でやっているかなあ・・・と訪ねて、炭焼き小屋のいろり端で、よもやま話をするのが、今の自分の楽しみの一つである。 


ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!
このページのトップへ

ふるさと色川 ④

廃村とアイデンティティ 

  夜の飲み会を2回もセットしてくれて、この地域をくまなく案内してくれて、2泊3日の貴重な体験をさせてくれたOさんに、心から感謝しながら、大野集落、口色川集落を後にした。途中、小阪集落の丘の上から、はるか遠方に見渡せた田垣内集落、坂足集落、大野集落は、真昼の太陽を浴びて、まるでパノラマのような光景だった。「ふるさと 色川」のホームページ開設者が、めざす集落に到着する前に、「決めてしまった」「あ、ここだと思った」とインスピレーションがわいたのは、今自分が立っている、この丘から見た「ふるさと 色川」ではなかっただろうか・・・。

 昼は、Oさんに勧められて「まぐろ丼」を食べ、2時発の電車にはまだ時間があったので、湯川温泉に行った。その後、鯨の町、太地をドライブして、展望のよい岬まで案内してもらった。そして、もうあまり時間がないと思いながら、この旅の道先案内人、Oさん自身のことについて、あまりお聞きしていないとあせりながら、Oさんの了解を得て、最後にもう一度、Oさんが、「ふるさと 色川」にやってきた理由を聞かせてもらった。

 Oさんは、高校では登山部、大学では山岳部に所属し、近くは大山、遠くはネパールからエベレストのベースキャンプまで登ったと言われる。大学時代から、アルバイトで、ビルの窓ふきをしていた。一番高い所では、ゴンドラに乗って、霞ヶ関ビルの36階の窓をふいたらしい。10階くらいの窓ふきが多かったと言われる。各国大使館の窓ふきも多かった。山岳部とか、森林組合の木の上での作業など、高い所を苦手としないのが、この窓ふきのアルバイトでよくわかった。ボクは、自分の家の2階の屋根に、足が震えて上がれない部類だから、森林組合など勤まりそうもない。卒業後は、就職する気持ちがなく、ずっとアルバイトを続けてきた。その当時は「フリーター」という言葉はまだ使われていなかった。だから自分は、現在のフリーターの草分けだと話された。「定職につく気がしなかった」と聞いて、規制の秩序やモラルにそわない概念や価値観を持つ、一介の自由人なのだと思った。36の年まで、都会で、そのような暮らしを続けていたが、このまま、都会に住み続けても仕方がない・・・と、以前に山岳関係の本で見た「炭焼きで食っていく方法を教えます」の案内を出していた、和歌山県木炭協会の副会長をしておられたMさんを訪ねた。若い頃に山岳部にいて、木や森や山が身近にある生活をして来られた方が、今でいうフリーターをしながら、36の年まで、あのコンクリートジャングルに踏みとどまっていたのは、田舎に比べて大都会の空間の方が「自由人」としての立場を保持できる空間であったのだと思う。36という年は、自分が農業に転身した年と同じである。Mさんの所へ入門してから、たった3ヶ月で「お前はもう卒業だ」と言われたそうである。それはOさんが、たった3ヶ月で、炭焼きで最も重要な「かまつけ」を理解(習得)したからである。「かまつけ」とは、「炭化が始まることを言い、それ以上「口だき」をしなくても、言い換えれば、「口だき」を止めるタイミングのことを言う。それは、炭人の「カンの世界」であり、そのカンを、Oさんがごく短期間に習得したことを、Mさんが見逃さなかったから、「卒業」という言葉になったのだと思う。Oさんの、七輪の会(炭焼きを生活に取り戻す会)の小冊子では、その「カンの世界」の「かまつけ」を、煙の色や、焚き口のレンガに現れた兆候から、「視覚で判断」できることを教えてくれる。

 そのMさんが、次への旅立ちのレールを敷いてくれた。その後3年間、三重県の山中で暮らすことになる。三重から、ここ色川に住むことになった経緯も聞いたのに、メモにも記憶にも残っていない。色川に入植したのは、奈良県の十津川の山中で、自給自足の生活をしていた、Sさんという大学時代の友人がいて、そのSさんは、以前、「オレたちの屋号は共同体」の、島根県の弥栄村に住んでいたことがあり、その弥栄村で3年間ほど暮らして、現在は色川に移住されているTさんを紹介された。そのTさん訪ねた時に、入植希望者として紹介され、その場にいた何人かの人が、すぐに、空き家などを案内して見せてくれた。その空き家に、まだ「クド」があったことが、とても気に入ったらしい。自分たちの年代(50前後)は、「クド」が記憶に残っている、最後の世代でもある。我が家にも10才の頃まで「クド」があった。小学校3年か4年の時に、我が家にプロパンガスが入った。始めてガスの火を見た光景を、今でも思い出すことができる。だから、「クド」が気に入ったということが、自分にはよくわかる。とんとん拍子に話が進み、翌日にはもう引越してきて、みんなが手伝いもしてくれた。この地の人たちが、とても親切に迎えてくれたことがうれしかったと言われる。決まる時は、こんなふうに、何かのきっかけで、とんとん拍子に進むものかも知れない。考えて、計画して、また思案して・・・というのは大切であるが、とんとん拍子というのも、前に進むきっかけであると思う。当地に入植して、この春で、丸十年が来ると言われる。

 温泉と那智の滝で有名な紀伊勝浦は、特急でも新大阪から3時間半という時間がかかる。往復すれば1万2千円ほどかかる。そして、温泉と滝はよく知られているが、そこから車で30分の色川集落のことを知る人は少ない。温泉につかって、那智の滝を見学するという、お決まりの観光コースをめぐる旅で終わる。縁あって、「ふるさと 色川」を旅することができた。慣れ親しんだ地域や、人間関係や、仕事を捨てて、このような山村に移住してくるのは、通常の価値観とは違った価値観を持つ人たちである。しかし、「ふるさと 色川」に住み続けるには、生活の糧をどこからか得る必要がある。継続して住み続けることは安易ではないと思う。桃源郷など、どこにもないのではなかろうか・・・。住んでいる地域とか場所とか、田舎とか都会とかに関係なく、自分の心の片隅に桃源郷は宿していると思う。それが自分にとって何(どこ)なのか、最後の行程(死)まで、探し求めていくのが人間なのだろう・・・。

 日本各地の山村集落においては、すでに、集落としての機能が維持できないくらい、若い人や子供がいなくなっている。廃村の危機に直面している。このような集落は、必然的に、定年帰農や現役帰農を受け入れるべく、そのための活動を起さざるをえないだろう。そうしなければ、自分自身のアイデンティティも、廃村という事態によって、失われていくだろうから。全国の先駆例が、この色川地区である。都市住民が作る「新しき村」づくり・・・また訪ねてみたい。

ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!
このページのトップへ

ふるさと色川 ③

自分の中の「ふるさとの遺伝子」


 すでに2泊した。今日は帰る日である。前夜もみんなで遅くまでしゃべっていたので、朝、なかなか起き出せなかった。起きたのは8時30分がまわっていた。Oさんに、今日はどこに行きたいかと聞かれて、もう一度Nさんの住んでいたあたりを見てから、昼過ぎの汽車で帰りたいと話した。Nさんが、「銀座4丁目」と話されていた場所、つまり、大野地区の中心街(と言っても、戸数60軒ほどの山村の集落内のことであるが)を、もう一度見ておきたかった。Nさんが、「大野銀座」と表現した理由は、すぐそばに、役場の出張所、農協、消防、森林組合の事務所、郵便局、小、中学校、映画館(今は閉鎖されているが、近くに銅山があり、一時は数千人が色川周辺に住まわれていて、とてもにぎやかだったらしい)があり、Nさんの家の周囲は道路があり、人家にも囲まれていたので、Nさんの保有していた田畑には、「イノシシが出なかった」という、めぐまれた土地であることを、「大野銀座」と表現したのである。この家屋や田畑を、借地借家ではなく購入して入り、6年も過ごしたのに、新天地を求めて、我が家から車で30分ほどの和気郡和気町に引っ越して来られた。この地に入植してきた都市住民は、たいてい、この地に羽をたたみ、出て行く人は少ないと聞いたので、次の新天地を求めて、「ふるさと 色川」を後にした理由を自分なりに感じてみたかった。


 前日の夕方、Oさんが、その日の飲み会のつまみや料理を作ってくれていた1時間ほどの間、歩いて、大野集落をまわってみた。山の急な斜面に家があるので、どの家もすべて石垣があり、その上に家が建てられていた。田畑も同じく、山の斜面の段々畑なので、どの田畑もすべて石垣が組まれている。どこからこんなにたくさんの石を取ってきたのだろう・・・、ここまで持ち上げるのは大変だったろう・・・、いつ頃、この石垣はできたのだろう・・・と、苔むした石垣の古い歴史を感じながら歩いた。そして、集落の一番高い所にある家を過ぎ、またちょっと登ると、まわりがシャシャキで囲まれた、何かの神様を祭っている石の灯籠があった。その小高い丘の上からは、眼下に、この集落が一望に見渡せる。「平家落人伝説」・・・さもありなんと思える、古式ゆかしき石垣作りの60軒ほどの集落が、夕暮れの中、今日の一日を終えようとしている。その丘の上で、何でこの集落に、毎年のように都市住民が増え続けているのだろう・・・と考えたが、よく理解できなかった。(1)もうちょっと便利な、ほどほどの田舎が、(2)もうちょっと農業のやりやすい、サルなどの出ない田舎が、(3)もうちょっと生産性の上がる田畑が、・・・探せば、いくらでもあるだろうに・・・と思った。賃労働に出るにも不便過ぎる。生活していくには、かなり不便な生存環境なのに、毎年の如く都市住民が移住してくるということに、少しカルチャーショックも受けている。ここの人は、そんなにガツガツしていない。それぞれが生活を楽しんでいる。何で、そんなに気負っているのか・・・とOさんに聞かれて、返答に困った。下((平地、平野部)では、もっとあくせくしているし、賃労働に明け暮れている。ここの人たちでも、水(上水道は引かれていないようだった)以外は、ほとんど自給できないシステムに取り込まれてしまっていると思うが・・・。野菜の自給など、あべこべに高くつくのがおちである。
 ボクは、自分の住んでいる田舎以上に山深い田舎には住みたくない。サルやイノシシの出る所で農業などしたくない。できると思えない。
 都会の風景を見慣れた人には、「熊野古道」に沿うこの色川集落の風景は、「心の奥深くにしまわれていた、自分の中のふるさとの遺伝子」を揺り動かされるものであったのかも知れない。


 この集落でも、先に入ってきた人と、遅れて入ってきた人の発言力の差、定年帰農者と現役帰農者の生活レベルの差、農産物の販路をめぐる競争、案外生じやすい親しい人だけの特定グループ、農業を主たる収入とする人と、農外収入を主たる収入とする人たちの意見の食い違い、独身者と妻帯者の間の見解の相違、旧住民と新住民との間の意識のずれ・・・こんなことが生じうると思う。ここに入植(移住)してくる人たちは、それぞれが強い個性の持ち主だから、意見の衝突は、往々にして、人間関係の断絶にもつながりやすい。誰かリーダーシップを取ろうとすれば、煙たがられるのかも知れない。地域で誰もが認めざるをえないような人が、誰もが、あの人ならと、暗黙の了解をもらえるような人が、入植(移住)年度に関係なく、おられるような気がするが、そもそも特定の人のリーダーシップなどいらないコミュニティが、この地ではできあがっているのかも知れない。


ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!

このページのトップへ

ふるさと色川 ②


「農業が目的」か「田舎暮らしが目的」か 

 翌日もOさんが飲み会をセットしてくれた。その日の夕方は、生産者組合の会議があって、20人ほど、それに出席されるとかで、それ以外の方々に声かけしてくれていた。

 Yさんは、「緑の雇用事業」で当地に入った。以前は、潜水のような仕事が専門だったようで、スキューバダイビング等のインストラクターの資格を取って、海が近いので、串本あたりで、そのような収入の糧を見出したいと話されていた。緑の雇用事業でも、後1年、雇用期間が残されているらしい。まだ30代前半の若い方で、農業は自給程度にして、収入の糧は、その他の賃労働で・・・という形を取られるようである。それから、元刑事さんとか、元サッカー選手で、全日本に選ばれた方とか、出身母体はいろいろだった。本人の稼ぎはそれほどでなくても、配偶者に安定した収入のある人も見受けられる。その多くは、介護とか医療、教育関係に従事されての収入である。当地は、お茶の産地でもあり、野菜は自給程度だが、お茶を収入源とされている方もいる。森林組合、もしくは、林業の会社に勤めておられる方も多い。

 この地で、農業1本で食べていける人は、ごく少ないようである。農業1本の人は、たいてい200羽~250羽、多い人で500羽~600羽のニワトリを飼っている。集落のそばを、幅10メートルほどの急流(夜中に目覚めて、その音が耳について眠れないくらい、始めての人には騒々しいと思える、水量の多い急流)が走っているので、水は引けても、植林されたスギやヒノキが、すでに背高になっており、日当たりもあまりよくない。石垣の段々畑で、くねくねした田んぼであり、こういう地形の田畑では、乗用トラクタも使いづらい。管理機と、一昔前のなつかしい手押しのトラクタが使われている。つまり、平地に比べて「生産性」がきわめて劣る。半分ほどではなかろうか。そして、販路も少ない。南紀を地図で見るとよくわかるが、那智勝浦町周辺の大きな街といえば、新宮、勝浦、串本、くらいしかない。特急列車が止まるのも、これらの街だけである。新宮まで45分、地元の勝浦まで30分、串本まで1時間という、車での配達時間である。今後、人口が増えていく可能性は少ないと思える。もう既存の農業者の野菜だけでいっぱい(有機野菜や自然卵の需要は人口の5%ほどと思う。よき理解者となり、支え続けてくれる人は少ない。大多数の人は高いか安いかで選ぶ)であり、新たな販路開拓は、地元ではむずかしいのではなかろうか。タマゴに関しては、すでに、供給が需要を上回っているらしい。

この地の生産性が上がらないのは、段々畑のくねくねした小さな田畑、日照不足と思える谷底に点在する田畑の他に、サル、イノシシ等の害獣の被害があげられる。イノシシは電柵で防げても、10~20頭ほどが、群れでやってくるサルの場合は、被害が大きい。サルは捕まえるのがむずかしい。捕まえても撲殺するくらいで、イノシシのように肉(食料)にもならない。この害獣の被害は、やられた人でないとわからないだろう。

 今後、この地区に移住してくる人にとっては、やはり、収入の糧が、農業1本では、あまりに厳しいのではなかろうか。農業以外に稼げる手段が、2つ、3つとあった方が生き残れる。「農業が目的」なのか「田舎暮らしが目的」なのか、心の整理もせまられる。しかし、この地では、農業以外には、生活の糧となる選択肢が少ない。勝浦の街まで、車で30分の距離だから、そんなに不便きわまる場所ではないが、その勝浦には、観光産業、漁港、くらいで、雇用の機会(アルバイト)は多いとは言えない

ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!
このページのトップへ

ふるさと色川 ①

安住の地を探し求めるさすらい人 

 4時2分発、スーパークロシオ30号に乗り、列車は一路、新大阪をめざす。今、串本を過ぎたあたりを走っている。一歩、また一歩と、南紀、紀伊勝浦から遠ざかって行く。2泊3日の印象深い旅になった。4年ぶりの県外への旅の、夢をふくらませてくれた、OさんとNさんに感謝しなければならない。

 那智勝浦町の、大野と口色川という2つの集落には、30代、40代、50代の現役帰農と、60代からの定年帰農の都市住民が、40家族以上も移り住んでいる、全国的にも特異な集落である。なぜ都市住民が、この地をめざして、こんなに移り住んでいるのかリポートしてみたかった。

 自分は36才で脱サラした、農業歴14年の、農家育ちの長男である。20年ほど農業から遠ざかっていたが、家つき、土地つき、農具つき、先生(父)つきという、都市住民からみれば、ごく恵まれたスタートだった。だから後は、「売り先」を探すだけでよかった。しかし、この地(色川地区)をめざして入植してくる人々は、家なし、土地なし、農具なし、先生なし、の都市住民である。

 ふるさとの地を離れて・・・、いや、この人たちには、元々ふるさとがなく、安住の地を探し求める、流浪の民であるのかも知れない。そして、何らかの情報で、この色川地区を知り、この地にとどまり、ちょっと一息、羽を休めている・・・。自分の居場所(死に場所)を探す求道者なのかも知れない。自分は農家の長男として生まれた運命上、ふるさとを最初から背負っていたので、自分のふるさと(居場所)を探し求める流浪の旅に出る必要はなかった。この地に足をとどめた都市住民は、当地に「ふるさと 色川」を作ろうとしている。だから、立場があべこべである。考える「起点」も異なる。ボクは、自分のふるさとを、いい所だと思ったことはあまりない。風光明媚な場所とも違う。地域に住む人にも、親しい人はいない。生まれ故郷が好きでないからと言って、嫌いな所でもない。好き嫌いを超越した場所である。この地から離れてしまうと、自分のアイデンティティは根こそぎに崩れてしまう。この地を起点に発信して、この地を起点に出かけて行き、そして、必ずこの地に帰ってくる。

 理想郷(ユートピア)など、どこにもないと思う。どこかで妥協するか、折り合いをつけるか、それともあきらめの境地に達するかであろう。ある程度の年令を過ぎれば、いつまでも流浪の民として生きるのもしんどい。

 いつか、田舎暮らし(小さな生活、小さな農業、自然の懐の中で生活)がしたいという思いが、潜在意識にあり、情報としてこの地の存在を知り、他の場所は全く訪問していないのに、始めての訪問で、いきなり移住してきた人もいれば、知人や友人を通して、人づての紹介で入ってきた人もいるし、インターネットなどで調べて、この地で2~3日、あるいは1ヶ月ほどの体験研修を終えて、この地に入植した人もいるし、十数回の田舎調べを経て、この地を選択した人もいるし、たまたま、仕事(教員等)で、この地に赴任し、この地が気に入ってしまい、定住した人もいる。入り方はいろいろである。その中で、記憶に残った言葉がある。7~8回の田舎探しをしてきたが、気持ちにぴったり来る場所にめぐりあえず、田舎探しは、これくらいで終えようと思いながら、当地を見学するために、勝浦から上がってきて、めざす場所はまだ先の、はるか稜線にたたずむ、その集落を目にして、「あ、これだ」と直感して、まだ当地に到着していないのに、行き着くまでに、住むことに決めてしまった・・・と言われる。この地に羽を休めた人たちは、このようなインスピレーションを、この地に入る道すがら、あるいは、この地に入って、旧住民や新住民との立ち話、あるいは、石垣の家や段々畑を見て、何かしら気持ちが安堵し、あるいは一泊して、この地を歩き回って、足裏を通して共鳴してくる、ある種の音楽に対して、頭でなく身体で反応して・・・、この地にひとまず、羽を休めてみようと思った・・・。

 そこが安住の地でなくなったら、また旅立っていく。その地を出て、また流浪の旅に出て、「ふるさと 色川」の次に、ここでまた、羽を休めてみようと、岡山県和気郡和気町に入植して来られたNさん。6年前、そのNさんを紹介してくれた色川在住のOさん。このNさんとOさんの影響を受けて、彼らの共通の地「ふるさと 色川」を一度訪ねて見たいと夢をふくらませてきた。彼らのアイデンティティと自分のアイデンティティはどこが違っているのか。違っていなくて同じものなのか。なぜこの二人の生き様に興味を喚起されるのか。自分自身に問う旅であった。

 我が家から車で30分ほどの所に入植されたNさんの所に遊びに行くと、よく色川の話が出た。Nさんは、色川在住の都市住民のことを総して、「個性的でマニアックな方が多い」と表現された。それぞれが個性的な集団の中では、Nさんの個性が埋没したのかも知れない。誰でも、その地域、組織、共同体から出て行った人のことを、あまりよく言わない。これはどこにおいても、その組織(地域)にとどまり続ける多数派から見ると、当然なことなのかも知れない。しかしNさんは、第2の入植地である岡山県和気郡和気町に新しい多くの人間関係ができているし、稲作の農具はほとんど全部、当地でただで手に入れたし、借地に立てた炭焼小屋兼物置も周囲の風景にとけこんでいる。。

 今、「ふるさと 色川」に羽を休めている人たちの中から、またNさんのように、流浪の旅に出て、安住の地を探し求める、さすらい人となる人も出てくるだろう。自分も、自分のふるさとを探すさすらい人ではないが、自分自身のアイデンティティを探し求める、永遠のさすらい人と思っている。同じさすらい人であるという点、いつまでも、いつまでもさすらい人であり続けるという点に、共感を覚えるのかも知れない。

 Oさん(福岡県出身)との出会いの経緯を書いておきたい。訪問地「ふるさと 色川」で、道先案内人をしてくれて、新住民との「出会いの場」を、2回もセットしてくれたのが、Oさんである。Oさんとは、多くの農業人に発言の場を提供してくれた雑誌「百姓天国」誌上で知り合った。「七輪の会」(炭を生活に取り戻す会)を立ち上げたOさんが、そのドラムカン炭焼方式の作り方と焼き方を書いた小冊子を、無料で差し上げますという記事が、百姓天国誌に載っていた。そのころ、「あめんぼ百姓塾」を立ち上げたばかりで、「野菜、ハーブ、炭焼き、ニワトリ」の内、炭焼きだけは、あまり知らなかったので、ぜひ指導を仰ぎたいと思った。送られてきた小冊子の中に、一通の手紙があり、色川から、最近、和気郡和気町に住居を移されたNさんと言う方がおり、ドラムカン方式の炭焼きを教えた方であり、もしお近くなら、お付き合いのほどよろしく・・・と言う手紙が入っていた。しばらくしてから訪ねて行った。そして、小冊子に加えて、Nさんからも直接、指導を受けた。これが、Oさん、Nさんと知り合ったきっかけである。


一路、那智勝浦へ

  窓の外に見える山の斜面にはミカン畑、田んぼにはハウス、そして露地ではすでに、エンドウが50センチほどになっている。自分の所より、大分暖かいのだろう。青い海、どんよりした空。ひたすら続くハウスとエンドウ畑・・・。列車は紀伊田辺に向かっている。時刻は11時。打ち寄せる波がきれいだ。梅の花も満開だ。そういえば、和歌山は梅の産地である。曇天に煙る梅の花。台風のコースになる半島。日本でも有数の雨量の多い地域。白浜に列車が到着した。11時15分。次は串本、その次がめざす紀伊勝浦。海沿いを走る特急オーシャンアロー5号。色川に移り住んだ多くの都市住民も、この列車を利用して、あるいは車で、こうやって窓外の風景に目をひかれながら、これから住む「新天地」に思いをめぐらしたことだろう。都会からの疎開・・・。

 紀伊勝浦着12時31分。待ち合わせの、山側の出口に行くと、Oさんが待っていてくれた。渡し船でホテル浦島に渡り、ホテル内のバイキング料理を食べ、山上露天風呂と忘帰洞の2つの温泉につかった。30年ほど前、学生の時に、確かこのホテルに泊まり、このホテルの温泉に入ったのだが、あまり記憶が定かでない。当時は自分でない自分を生きていたのだろう。このたび、Oさんとの不思議な出会いに導かれて、30年ぶりにまた、この地を訪れることになった。ほんのちょっと前だったような気がするが、30年という歳月がすでに過ぎている。

 ホテルを出ると、滝をめざした。那智勝浦の滝として、そして、日本一長い滝(130メートルほど)として、全国的に有名な、あの那智の滝である。その後、峠を越え、展望台では一時停車して、眼下の風景を楽しみ、次にまた、那智の滝よりかなり高い山の展望台から、那智の滝を遠くに見下ろし、その後また、山から山を越えて、Oさんの住む、那智勝浦町、大野、という集落をめざす。時刻はすでに5時半近く。6時には、Oさんがセットしてくれた、岡山出身の方、岡山近辺の方、自分が前もって、会って見たいと頼んでおいた方たちが、飲み会に集まってくれる時間である。

 始めて出合った方たちは新鮮だった。違和感などなかった。思想や生き方が自分に似ていると思った。岡山市出身のYさんは、まだ30代の前半。去年入植して、当地在住のSさんの元で、1年ほど農業研修を受けた後、当地で独立したばかりである。岡山でも入植地を探されたらしいが・・・。玉野出身のOさんは、当地に入植して12~13年の45~46才。今は当地で土建業に勤めている。ニワトリ20羽。自給用の野菜、そして農家民宿もしている。奥さんは、グループで、パンやクッキーを焼いている。もう1人のOさんは、広島県三原市出身で、元経営コンサルタント。もう1人のOさんは、茨城県出身であるが、奥さんが岡山の倉敷市出身で、信州の大学で知り合ったらしい。何で和歌山くんだりまでと思ったが、他の地域では、どこも入植者に対して排他的であったと言われる。まだ30才になったばかりで、赤ちゃんも生まれたばかり。Yさんと同じく、Sさんの元で、1年間ほど農業研修を受け、当地で独立されたばかりである。Oさんばかりでまぎらわしいが、もう1人のOさんは、ホームページで、「ふるさと 色川」を発信している。3年前、自分も「あめんぼ通信」という題名でホームページを開設(ここ数年全く更新できていない。今はホームページには全く興味がなくなった)した時に、NさんやOさんと縁ができた那智勝浦町に関するホームページを「リンク集」に加えたいと探していた時、「ふるさと 色川」というホームページを見つけた。何とネーミングのすばらしいホームページだろうかと思った。開設者の思いが、たった6文字の題名に凝縮されている。自分も、いずれ行くことになるだろうと感じていた、この旅の、リポートの題名は、1年以上も前から、「ふるさと 色川」に決めていた。今、この「ふるさと 色川」は、那智勝浦町の公式ホームページになっている。7年ほど前に当地に入植された、50代前半の方である。当地に到着する前に、遠くにその集落を一望して「あっ、これだ」と決めてしまったと話されて、ボクの耳をくぎづけにした方である。もう1人、口数はとても少ない方だったが、ボクの道先案内人のOさんと同じ「林業の会社」に勤めていると言われるTさん。翌日、Tさんの奥さんと話す機会があり、言葉のはしはしから、Nさんのよき理解者だったのだということを感じた。最後になったが、当地に入植されて、すでに20年ほどになるSさん。年令は自分と変わらない。この地に、先駆者である村山兄弟によって、始めて、「都市住民の入植」という歴史的一歩がしるされてから、「耕人舎」と名づけられた彼らの共同体の研修生となり、その後当地で独立された古参。今度は逆の立場で、多くの研修生を受け入れ、独立のためのフォローをしておられる。

ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!
このページのトップへ

Nさんの田んぼを訪問 ③

20061225200155.jpg   20061225200312.jpg   20061225200411.jpg
 物置の中にはいろんな物が置いてある。左の画像は割り木。炭焼きの時の炊き付け用だと思う。真ん中の画像は水車の一部、右の画像はヘチマたわしである。
 農業や田舎暮らしをするために、都会から引っ越して来られる人の共通点があるとするなら、一様にみなさん「器用」という点である。ちょっとした大工仕事、例えば、ニワトリ小屋くらいだったら自分で建てている。そしてNさんのように、かなり大きな物置を自分で建てれる人もいる。しかし、器用だということと、農業の展開とはまた別の能力のようである。確かに、ニワトリをたくさん飼うのなら、器用という能力は特に要求されるが、農業では、「手早である」とか「野菜を自分で売る力」だとか、「野菜を育てるセンス」とかは、器用であることとはまた別の能力である。そして同じ田舎暮らしでも、生活費は農業で稼ぐという人と、農業は楽しみ程度にして、生活費は農業以外のことで稼ぐという人と二通りある。定年帰農なら年金という月々の保証があるが、現役世代では、何らかの形で稼ぐ必要がある。アルバイトをするにしても、時給800円~1000円であり、農業でこれくらいの時給にするのは本当に大変である。ここに現役世代の人が農業に参入できない最大の壁がある。でも今はすさんだ時代だから、現在の安定した収入や立場を棒に振ってでも、田舎暮らしや自然への回帰をもとめて農業をしながら自給自足的生活を夢見る人もいる。そういう人たちが多く移り住んでいる集落が、和歌山県 東牟婁郡 那智勝浦町 色川地区である。Nさんは和気町に来られる前はその集落に住んでおられた。田舎から都会へ、都会から他の都会へ、都会から田舎へ、田舎から他の田舎へと、流転の人生であるが、自分もサラリーマン時代は多くの流転を繰り返していたので、共感することが多い。3年ほど前、その那智勝浦町へ旅に出た。明日から6回にわけて、その旅行記「ふるさと色川」を報告致します。この旅行記は、行く前から書くつもりにしていました。往復の列車の中でも書き、帰ってから3日間ほどかけて書いた原稿用紙30枚ほどのリポートです。自分にとって印象深い作文です。リンクさせてもらっている「ふるさと色川」も合わせてご覧下さい


ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!
このページのトップへ

Nさんの田んぼを訪問 ②

20061224161352.jpg   20061224161422.jpg   20061224161446.jpg
 左の画像は南側から見た炭焼き小屋兼物置です。防風林みたいに、周囲を太い竹で囲んでいます。真ん中の画像は、北側にある土手から写しました。椅子が見えますが、Nさんはいつも冬はここで焚き火をしてくれます。焚き火をしながら、とりとめのない話をするのは楽しみです。奥に乗用トラクタが見えますが、畑は不耕起栽培なので、使うのは稲作だけですが、このトラクタは通常の軽油で動かすのではなく、「使い古しの食用油で動かす」らしいです。Nさんが特に力を注いでいることは「持続可能な社会を形にする」ということで、徹底したエコライフです。それと、子供のいじめ問題にも取り組み、子供の権利条約等のニュースも発信されています。
20061224164010.jpg 20061224164405.jpg 20061224164045.jpg    
 炭焼き小屋兼物置を西側から見た画像です。正面に見えるのはオリーブの木ではなくフェイジョアの木です。熟すると落下して、それを10日ほど置いて追熟させて食べると、パイナップルのような味がします。寒さにも比較的強く、育てやすい果樹です。カラス類が狙わないのが利点です。真ん中の画像は水車です。こういうものをどこでもらってくるのか、交友範囲の広さだろうと思います。右の画像は、南側の入り口です。夏にはブラックベリーが生い茂って7月中下旬~8月下旬にかけて黒い木苺が鈴なりになります。
20061224170933.jpg   20061224171007.jpg   20061224171038.jpg
 草の中で、ハクサイがやさしく育っています。真ん中の画像は青汁用のケールです。冬はケール、夏はコンフリーを青汁として利用しています。ヨーグルトなどと混ぜると子供さんも食べるらしいです。右の画像の土手には、いろんな果樹が1本づつ植わっています。自給自足の生活を本当に楽しまれているNさん家族の様子がこの田んぼからうかがえます。しかし現在の社会では、①食の自給自足(作ることは買うことに比べて2倍以上高くつく)と②ライフラインの自給自足は、完全に壊されているので、他の誰よりも自給度を高めていると思えるNさんでも、1年の半分くらいは不定期のアルバイトに行かれています。野菜や果樹は自給用で、米を少し売っているだけであり、1年に120~150万くらいは、どうしても何らかの形で稼がざるをえないと話されます。

ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!

このページのトップへ

Nさんの田んぼを訪問 ①

20061223172117.jpg   20061223172143.jpg   20061223172213.jpg
 人はいろんな出会いをする。出会いは奇遇である。和歌山県 東牟婁郡 那智勝浦町から、岡山県和気郡和気町に流れ着いた「さすらい人」Nさんと知り合ったのは、1通の手紙からだった。ドラム缶で焼く炭焼き方法のパンフレットを送って下さいと、那智勝浦町在住のOさんに手紙を書いたら、そのパンフレットと共に手紙が送られてきて、最近、那智勝浦町から和気町へ移られた方がいるので、お近くならどうぞよろしく・・・という内容だった。もう8年ほど前のことである。それからNさんの田んぼへ時々遊びに行かせてもらうようになった。家から25分ほどなので比較的近い。画像はNさん手作りのトリ小屋である。ニワトリが5羽とウコッケイが6羽ほどいる。
20061223180516.jpg   20061223180547.jpg   20061223180620.jpg
 画像はNさんの不耕起畑の全景である。左の画像の上部の隅に炭焼き小屋兼物置が見える。Nさんは10アールほどの畑をすべて不耕起の状態で作物を植えたり、蒔いたりしている。肥料もほとんど入れず、入れるのは飼っているニワトリやウコッケイの少量の動物糞だけである。まわりは住宅地なのに、このあたり一帯だけは田園風景である。近くの町営住宅から、400メートルほどのこの田んぼに毎日通っている。Nさんは野菜は出荷していない。自給自足を中心にして、足らずは秋→冬→春にかけての、海辺のアルバイトで補っている。しゃにむに農業をするという生き方ではなく、農的生活を楽しむという生き方である。5~6年の短期間で、こういう生き方を身につけたのではなく、十数年の歳月をかけて、このような暮らし方を築いてこられたのである。こんな素朴な田んぼ風景を見るのが好きである。
20061223193510.jpg   20061223193548.jpg   20061223193620.jpg
 炭焼き小屋兼物置の中に、昔なつかしの「縄ない機」がある。Nさんは今でもこの縄ない機で縄を編んでいる。近くの民家でもらったらしい。ボクが子供の頃には我が家にもあり、祖父がよく縄を編んで売っていたようである。右の画像は竹炭や木炭を焼くドラム缶窯である。ドラム缶窯の周囲は保温のために田んぼ土でおおうが、周囲はトタン板で土留めをしている。竹酢液や木酢液を取るための太い竹筒が煙の排出口に設置されている。来月には、このドラム缶窯で焼く炭焼きの起承転結を2日間にわたってアップする予定である。年内は忙しいらしいので、来月10日過ぎ頃の予定です。
20061223200906.jpg   20061223200941.jpg   20061223201017.jpg
 炭焼き小屋兼物置の中に、種取り用のとても長い「赤米」が吊り下げてあった。ボクは稲は作っていないので稲のことはよく知らないが、Nさんはいろんな種類のユニークな米を作っている。真ん中の画像は、ダイズを選別する「トウミ」。我が家にあったのは木製だったが、Nさんはどこで手に入れたのか金属製である。右の画像は、一昔前に稲を天日乾燥していたムシロである。ちょっとうまく写せなかったが、上部に稲の田草を取る手押しの除草機が見える。Nさんは一昔前のいろんな懐かしの農具を持っている。自分と同年齢で時代背景が同じなので、この農具が何に使われるかは大体わかる。こんなせちがらい世の中に逆行するような生き様を見ると、勇気が湧いてくる。


ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!

このページのトップへ

金光教

20061222194533.jpg   20061222194609.jpg   20061222194707.jpg

 左と真ん中は同じ田んぼの画像です。今は、この田んぼと右の画像の田んぼの2枚が、出荷しているハーブと野菜のほとんどです。ちょっとお粗末です。でも例年とそれほど差はありません。今年は、ハクサイ、キャベツ、ダイコン、カブのアブラナ科四天王が不出来だっただけです。しかしたったこれだけの面積でも、出荷にはかなり時間がかかる。今日は、ディル7単位、チャービル9単位、イタリアンパセリ14単位、青ホウレンソウ4単位、赤ホウレンソウ9単位、ロケット10単位、スペアミント6単位、ニンジン3単位、シュンギク5単位、ローズマリー4単位、レモンタイム3単位、セイジ1単位の出荷だったが、収穫だけで2時間ほどかかった。


 昨日、スーパーで買い物をしたついでに「お飾り」を買った。年末に玄関先などに飾り、1月15日にはやす(燃やす)、稲ワラで作ったしめ飾りです。都会ではこのような風習はもうなくなったのかも知れませんが、田舎ではまだ、この風習が残っています。集落でも稲作農家は減り続けて、42軒の集落で稲作をしている家はすでに9軒しかありません。このお飾りは稲ワラで作るので、作ろうと思えば、稲作農家に頼んで稲ワラをゆずってもらうしかありません。そして、お飾りにつける「山草」も山に取りに行く必要があります。ボクは父が亡くなった年から、玄関先に飾るお飾りを買っています。稲作を止めたのだから、稲ワラで作るお飾りも飾る必要がないように思いますが、まあこれも昔からの風習なので、980円のお飾りを今年も早々と買ってきました。毎年、こんなもん、ばかばかしいと思いながら、来客もあるので、一応外面上は玄関先の体裁だけは保っています。こんなことをすでに十数年も続けています。そういえば、去年もお飾りの値段は980円だった。今年の1月15日の朝はやす(燃やす)時に、お飾りについているミカンのようなものだけ取れば、後は腐るものはないから、年末までとっておこうかと考えたりもしましたが、それも面倒くさいと思い、結局はやしてしまいました。伝統の風習というだけで毎年買い続けるのも、ばかばかしさの度合いが年々大きくなっていきます。


 お餅も年末に1キロだけ買っています。これも元旦の朝はお雑煮という風習からです。親子4人で元旦の朝しか食べないので、1キロもあれば足ります。これも900円ほどの値段です。時代が変われば変わるもので、ボクが子供の頃には12月28日の晩に、杵でぺったんぺったんとつくお餅が待ち遠しかったものですが、自分の子供には、伝統とか風習とかいうものを何一つ伝えることができませんでした。ちょっと情けない気もしますが、自分がそういうことを教えるのが得意でなかったのだから仕方ありません。そして、正月らしくない正月を毎年迎えるようになってしまいました。元旦の実業団駅伝と2日、3日の箱根駅伝を見ていると、いつの間にか正月が終わっています。


 12月28日には、毎年恒例の「大しめ縄作り」に金光様の教会にお参りします。金光様はどこかの巨大宗教集団のような宣伝活動はあまりしないので、信者は増えないようです。大しめ縄作りに自分より若い人はいません。皆さん高齢なので、年々来られる人が減り続け、多分今年は4人でしょう。いつも大しめ縄の基になる人が、高齢のために今年は来られないので、だれが基になる場所をするかも問題です。金光様の先生は、その役目をいずれボクにしてもらいたいようですが、自分は自他共に認める極め付きの不器用なので、大しめ縄の基などとても務まりません。金光様の先生もすでに80歳を越えられているので、今後この教会を誰がついでいくんだろうかと思います。我が家は代々、金光様の熱心な信者でしたが、ボクは信心をしていません。子供の頃には集落の信者が月に1度、我が家に参って来られて、金光教の詔などを唱えていました。とても宗教的な雰囲気の中で育ったので、宗教はもう卒業です。父は身も心も宗教に帰依した生き方を死ぬまでしていたので、ずっとそれを見ていた自分は、そういう生き方には否定的になり、実存の世界で戦いたいと思っています。


ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!
このページのトップへ

電柵及び焼却灰

20061221201542.jpg   20061221201623.jpg   20061221201648.jpg

 毎日ブログを更新しようと思うと、他のことが何もできない。いつの間にか3時間ほど経過している。半分は楽しみ、4分の1は自分のやってきたことを記録に残したいという思い、残りの4分の1は「富士丸な日々」のように書籍化したいという意識からである。夜は別に見たいテレビがあるわけではないし、趣味などないし、夕食後はほとんど習慣的に離れの個室に直行する。それと自分は酒を飲まないので、これもブログができる原因と思う。作文はしらふでないと書けないと思う。ほろ酔い加減で書く人もいるのだろうか・・・。
 今日も貴重な農作業の時間を25分ほどさいて、今週中のブログにのせる画像を撮った。4~5日に1度の25分ほどの時間は仕方がない。昼に家に帰った時、さっそくパソコンに取り込んだ。いつも「空き容量がありません」とデジカメに表示されるまで撮り続けるが、今日は67枚撮れていた。67枚の内、ブログにアップできそうなのは、せいぜい12~13枚ほどである。つまり5枚に1枚ほどであるが、これだと4日分のブログの画像でしかない。だから5日目にはもうデジカメで写してまわる必要がある。でも自分の写す範囲は限られている。4反(40アール)という限られたスペースが「あめんぼワールド」である。春夏秋冬の刻々の変化を、空間を飛び越えて遊びに来てくれる、あなたにお届けしたい。


 左の画像の電柵代金を購入した農機具店に支払いに行ってきた。81575円だった。高い買い物についたが、結果的にイノシシは防げたので良しとしなければならないのだろう。このイノシシは「はぐれイノシシ」のようで、巨大な足跡をつけているが1匹で行動している。まだ密度が低いだけありがたい。来春以降、春ジャガイモとサツマイモだけは、防御していかざるをえない。


 真ん中の画像で煙が立ち昇っているのは、今朝、ぬれた新聞紙を焼いたからです。煙が青っぽく写っていますが、焼いたのは新聞紙と竹や木の枝だけです。月、水、金の出荷の日には、大量の濡れ新聞紙がでます。昨日の画像でアップした黄色のコンテナの底には新聞紙を敷くので、収穫後にジョロで打ち水をすると濡れてしまいます。2~3週間に1度、たまった濡れ新聞紙を竹や枯れ木とともに焼却しています。ポリ類やその他のゴミ類は指定日に集配に出しますが、この新聞紙は大量でしかも濡れている(資源ゴミにも出しづらい)ので、使わない田んぼの一角で焼却しています。この焼却灰は田んぼに入れずに家に持ち帰り、使わなくなった家の近くの田んぼ(父が生存中は苗代だけに使っていた)に入れています。この焼却作業はあまり気の進まない作業ですが、ワンパックをしている間は仕方がありません。「火は人の心を癒す」と言われますが、こういう火はあまり癒しにはなりません。もちろん、ガスの火なども全く癒しにはならない火です。ボクが子供の頃には、冬の朝は庭先で「焚き火」などをしていましたが、今はストーブがあるので、そんなことをする人はいません。太古の昔から人間は火を使ってきた。その遺伝子を受け継いでいるから、火に癒されるのかもしれない。燃え盛る火に引き込まれるように火を見ることがありますが、何で火はこんなに人の心をなごますのだろう。実際の所、火に対する感情はよくわからなかった。それが、炭焼きについて書かれた記述で「火は人の心を癒す」と書いてあるのを読んで、ああそうだったのかとその時に思った。火を見ていつも引き込まれるような気持ちになるのはそういう理由からだったのだと感じた。一世代前の人は「クドの火」で毎日癒されたことだろう。
 濡れ新聞紙を焼く以外は、ナスビやピーマンやオクラや青シソやスイートバジルや株分けして残ったタイム類(ハーブ)を焼くだけである。この焼却灰は田んぼに戻す。真ん中の画像の電柵の左側の茶色の枯れ木はスイートバジルです。初霜にあたって1ヶ月ほど経過するとこのようになりますが、年明けに抜いて、そのまま1~2ヶ月ほど乾かせて、2月末~3月上旬頃に焼きます。野菜やハーブでも上記6種類は、短期間に「木」のようになる作物です。


 デジカメで写す時はたいていニワトリの画像も写します。変化は何もないが、10枚ほどは毎回ニワトリの画像を写したくなる。ニワトリを写す時は、エサかこのような青菜を与えた時である。食べ物に夢中になっている時でないと、デジカメに向かってくるので、デジカメが壊される恐れがある。青菜は翌朝にはかけらも見えない。


ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!
このページのトップへ

ハーブ3種類

20061220212538.jpg   20061220212609.jpg   20061220212638.jpg

 今日は出荷だった。左から、ディル、チャービル、イタリアンパセリの3種類のハーブである。ロケット(ルコラ)ほどではないが、この3種類はよく注文がもらえる。注文が「入る」ではなく「もらえる」と言ったのは、こちらから電話を入れて注文をもらうことの方が多いからである。IP電話にしてから、県外でも市内通話料金になったので、電話代を気にせずにかけれる。定期的に電話を入れると、先方も覚えてくれる。


 ディルとチャービルは春夏作は作りづらいので、秋冬作だけ作っている。イタリアンパセリは4月上旬に種を蒔いて4月下旬にポットに鉢上げして5月中下旬頃に定植すれば、6月下旬頃には収穫期に入り、翌年の3月頃まで8ヶ月間ほど収穫を続けることができる。イタリアンパセリは青枯れ病が多いので6月末~7月上旬に1~2回種を蒔いて8月盆明け頃にまた定植している。ディルとチャービルはニンジンを蒔く時に、その隣の畝に蒔くので、8月15日~8月20日頃である。ディルの発芽はよいが、チャービルは高温時は発芽が悪いので、9月10日頃まで1週間おきに3回ほど蒔く。ディルとチャービルはニンジンの隣の畝で育苗して、鉢上げはせずに定植をする。イタリアンパセリは、自分の場合は稲の苗箱で育苗して鉢上げをして、定植というステップである。


 ハーブはロケット以外は1単位が150円にしている。画像の量で、左からディルは9単位、チャービルは15単位、イタリアンパセリは11単位取れた。3種類とも摘み取り系のハーブである。チャービルとイタリアンパセリは外観がよく似ている。チャービルは「グルメのパセリ」と呼ばれていて、イタリアンパセリに比べて葉質が柔らかくて葉の刻みも小さい。最近はショートケーキの上にのせる飾りはミントではなくチャービルの方を目にする。ミントよりチャービルの方がかなり安上がりだと思う。チャービルもイタリアンパセリも耐寒性は強いがディルは耐寒性に弱い。1月の中旬頃には霜で傷んで出荷できなくなる。


 1単位がディルは150グラム、チャービルは目分量、イタリアンパセリは100グラムほどであるが、軽くて量りづらいので厳密には量っていない。ハーブも野菜も新聞紙で包む。ポリ袋などは利用したことはない。市価に比べて高いのか安いのかわからないが、注文がもらえるところを見ると、送料込みの価格でも自分のハーブは安いのだと思う。でも、野菜の1単位150円より、ハーブの1単位150円の方が採算が合う。ディルとチャービルはほとんど病気発生はない。


 作付面積は、全て150センチの畝幅で、ディルは4条植えで10メートルほど、チャービルは3条植えで15メートルほど、イタリアンパセリは3条植えで40メートルほどである。


 雨で泥はねがあるので、ハーブは黒マルチが必須。黒マルチをしていると泥はねはないので、出荷時に洗う必要がない。湿り気保持のために収穫後は、春夏作でも秋冬作でもジョロでさっと打ち水をしておく。こうすると作物も新聞紙も適度の湿り気があり、状態よくお届けができる。軟弱なハーブでも盛夏にクール宅急便など使ったことはない。盛夏では早朝8時までに収穫すれば問題ないし、今の時期だと11時頃までに収穫すれば問題ないと思う。


 秋冬作のハーブでよく注文がもらえるのは、上位から順番に①ロケット ②イタリアンパセリ ③スペアミント④ローズマリー ⑤チャービル ⑥ディル ⑦コモンタイム ⑧セイジ である。


 春夏作のハーブティ用ハーブである①レモンバーム ②レモンバーベナ ③レモングラスの3種類は、強い霜に1度あたると枯れる。


 野菜ではよく、「重量野菜」「軟弱野菜」という言い方をするが、ハーブは全て軽いので軟弱野菜である。


ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!
このページのトップへ

以前の記事に飛ぶ方法

20061219220325.jpg   20061219220403.jpg   20061219221120.jpg

 今日また、ブログの使い方に新たな進展があってうれしい。いつもの人に教えてもらったのですが、復習の意味で、その使い方を取り入れながら、今日のブログを書いてみたいとおもいます。その日に何回も繰り返して使用して覚えておかないと、自分の場合、すぐに忘れてしまう。本当にびっくりするくらい、数日の期間をおくともう忘れている。今日教えてもらった機能はこれからもしばしば使う機能なので、ぜひともマスターしておく必要がある。


 近い将来の自分の夢は、ご縁のあった農業者を、期間を置いて定期的に取材させてもらうことです。農業歴が17年近くになると、自分の農業の分野での限界が見えてくるし、5年先の農業も見えてくる。今と代わり映えのしない農業を続けているだろうと思う。今後の自分の農業人生に、作物を作る技術的な進展はあまり期待できないし、技術的なことを追求していくという興味も自分の中にあまりない。第一線を退いたら、図書館に通って農業関係の本を色々読んでみるとか、もっとパソコンに向かう時間を増やすとかもできない。やっぱり1日のうちの半分はお天道様の下で過ごしたい。


 友人の田んぼ訪問に行かせてもらうのは自分の楽しみの一つである。道中の景色も楽しみだし、途中で車を止めて、コンビニで買ったコーヒーでも飲みながらぼう~っとする一時も幸せな時間である。こんな日帰り旅行(田んぼ見学)を農繁期には月に1回くらい、農閑期には時間が許す限りしたいと思っている。


 自分の田んぼだけのことを書き続けても、そして自分のことだけを書き続けても、同じことの繰り返しになるし、あまり進展も期待できない。でも他人のことを書かせてもらえるなら、話を聞かせてもらったり見せてもらえるなら、少しは違った情報が自分にも入るし、読者さんにも多くの情報を提供できる。まあ取材するのは自分自身だから、自分の見方でしか取材はできないし、自分流の突っ込みしかできないが。今後は、9つに分けたカテゴリーの中の「田んぼ訪問」を充実させていきたい。今までの訪問記は、倉敷市のMさん八塔寺のNさん雲の会のTさん県境の村のKさん赤磐市のYさん野菜産地の農業(義兄)を書かせてもらっている。


 今年から愛媛県で新規就農された藤田敏さんは、ボクの小冊子(あめんぼ通信)を毎年買ってくれていた方です。まだスタート1年目なのに、ボクの7~8年目の頃のレベルをすでに超えている。今日(12月19日)の画像を拝見する限り、とっくに現在のボクの技術レベルを超えている。
 自分の場合は組織で働くのが苦痛だった→農業という構図だが、藤田さんの場合は農的な生き方や食から→農業なのかなあと思ったりします。料理がたくさん出てくるブログです。リンクさせてもらっています。
 
今日のブログの進展は、クリックすると「以前に書いた記事に飛ぶ」もしくは「相手のブログやホームページに飛ぶ」方法でした。この方法は今までに何回も何回も教えてもらっていましたが、やっとマスターできたようです。


ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!
このページのトップへ

鳥インフルエンザ⑥

20061218210839.jpg   20061218210935.jpg   20061218211032.jpg

 ブログに画像を入れ始めたのは10月9日からである。それまでは、画像の入れ方がわからなかった。教えてもらって始めて入れることができるようになったが、その時に、毎回1枚では、ちょっと物足りないかなあと思って3枚にした。3枚だとちょうどうまい具合に収まるような気がした。でも3枚ということは、月間に90枚アップすることになるから、デジカメで写すのが結構忙しい。最近はかなり頻繁にデジカメで写している。10月からこっち、10月17日、10月22日、10月24日、10月30日。11月は、11月1日、11月4日、11月5日、11月8日、11月9日、11月11日、11月14日、11月17日、11月21日、11月24日、11月30日。12月は、12月5日、12月11日、12月16日、といった具合である。今使っているピクチャーカードは「64MB」であり、1回につき63~66枚くらい写すと容量がいっぱいになる。65枚ほどを写すために要する時間は25分ほどである。20分内で終わらせるのはちょっときついが、30分も費やすことはしない。非生産的なことは時間をかけずにさっさと終わらせる。今までカメラなど持ったことはなかったので、店員さんに勧められた通りを買ったのであるが、この店員さんはよいのを勧めてくれたと今になって思う。初心者にはこれくらいがいいと、2万3千円ほどのデジカメと64MBのピクチャーカードを勧めてくれた。とにかく、65枚ほどの画像を20~25分で写すというのが、現在の自分のリズムにちょうど合っている。1回につき、これ以上の枚数はちょっと写せないし、これ以上の時間も費やせない。日を変えればまた周囲の風景もかわるし、野菜の様子も変わってくる。でも、月間に90枚アップというのは、かなりの量だなあと思う。読者さんから見れば、同じような所ばかり写していると思われるかも知れません。でも写し始めてから気づいたのですが、田畑は一帯で4反(40アール)しかなく、野菜はその月々では12種類ほど、ハーブもその月々では12種類ほどしかない。24種類÷3枚=8日間しか埋まらない計算になる。だから、田畑の全体像、野菜とハーブの個々像というふうに、これでも結構腐心している。「森」と「木」みたいな関係にしたいと思う。デジカメで写す時間は25分ほどだから、そんなに農作業にくい込んではいない。それよりも、ブログにアップする時に、今日はどの画像にしようかと、ちょっと迷うので、選んだりアップしたりすることに案外時間をくわれている。かといって、画像のない言葉だけのブログには、もう戻れない。農業ブログでは、明らかに、画像があった方が読者の方によく伝わる。言葉と画像は両輪のように思い始めている。でも自分は言葉の方が主体なので、画像は得意ではない。
 一帯の面積は4反(40アール)しかないので、25分もデジカメを持って歩けば、ほぼ一周してしまう。これを4~5日に1度のペースで写しているから、ワンパターンもまぬがれない。でも、飽きずに懲りずに、性懲りもなく、特定の範囲内を写し続けている。この範囲内しか自分の伝えれるものはない。読者さんの頭に地図を描いてもらえるくらいになりたい。


 次は昨日の続きの鳥インフルエンザです。今日で鳥インフルエンザの話は終わりです。


 (2004年、3月16日)
 
せまりくる「鳥インフルエンザ」の恐怖・・・でも、26羽のニワトリは手離せない。たった26羽だから、すぐにでも手離せるが、手離したくない。ニワトリの歴史は自分の農業の歴史・・・。


 このニワトリ王国の面々も、すでに老婆になった。この5月25日で丸4年が来る。人間でいえば80才くらいかも知れない。老婆のうち3羽は、去年の暮れに嫁入りし、最近、老爺の1羽もムコ殿として、もらわれていった。友人のNさんが「ひなをかえしたい」と言うので、3羽の老婆と1羽の老爺が、Nさんの小さなトリ小屋へ旅立ったのである。最近はほとんど交尾も見かけなくなっていたので、果たして「有精卵」になるだろうかと疑問だったが、もらわれていくことになった。


 去年の秋頃から、年が明けた春には、すべて淘汰して、新たにヒヨコを入れようと思っていたが、鳥インフルエンザの騒ぎで1年遅らせることにした。ヒヨコより老婆の方がはるかに耐性があると思って。この老婆たち、お彼岸を迎えて、タマゴをよく産んでいる。1日平均7個。なんと産卵率3割に上昇している。一昔前の人は、この状態を「彼岸のクソタマゴ」と呼んだ。この時期には、それだけよく産むということを言ったのだろう。野鳥も春は産卵の季節である。(注、彼岸のクソタマゴは誤りで、彼岸の草タマゴが正しいと、後日ある人から指摘を受けた。つまり、お彼岸頃には、そんなにエサをやらなくても、草だけでも産むという意味である。実際は草だけでは体力の維持もできない。)


 4年前の5月25日、生まれたばかりの32羽のヒヨコが宅急便で送られてきた。この4年間にたった2羽しか死んでいない。奇跡的である。4羽がもらわれていったので、残るは25羽のメンドリと1羽のオンドリ。


 ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!

このページのトップへ

鳥インフルエンザ⑤

20061217224706.jpg   20061217224800.jpg   20061217224835.jpg
 昨日、人気ブログランキングに「第1次産業のカテゴリー追加について」というメールを送った。送ったメールは以下の通りである。


「いつもお世話になります。ブログをしている者ですが、ブログのカテゴリーに第1次産業(農業、林業、水産業)の部門をぜひ作って頂きたいのですが、いかがでしょうか。今後、団塊の世代の退職で、定年帰農や田舎暮らしに興味のある人も増えると思いますが、この人たちが発信したり、この人たちに情報を提供したりする、適切なカテゴリーがありません。どうかご検討のほどよろしくお願い致します。」


 自分は芸術・人文のエッセイのカテゴリーを選択しているが、最近、ランキングが下降気味で、エッセイ部門で挑戦していくことに少し弱気になっているのかも知れない。ジャンルがちょっと違うかなあという意識をずっと引きずっているが、かといって、現在のブログランキングにあるカテゴリーでは、これといって「適切な」部門がない。第1次産業を主題に書いているブログは、
(1)アウトドア部門の「全般」
(2)生活・文化部門の「住まい」の中の「花・ガーデニング」
(3)社会・経済部門の「転職・キャリア」または「起業・独立」
(4)芸術・人文部門の「エッセイ」
(5)地域情報部門
等にもぐりこんでいるようである。それにしても、カテゴリー一覧に第1次産業のジャンルがないとは、今はそういう時代なんだろう。小中学校の頃、学校の社会科の時間に習った第1次産業は第2次産業や第3次産業と比較しても遜色のない産業だったが、なぜ「虚業」ばかりが繁栄するのだろう。でも日本人が山や川や田んぼを後にして出て行ったのはまだ最近の40~50年間ほどの間である。


 今日の午前中、自分のブログもカテゴリー別に仕分けをした。まだ半分ほどしか進んでいませんが、9つの引き出しに分けてからやっと、見にきてくださる読者さんにも、そして自分にも、わかりやすくなったような気がします。今週中にはこの作業を終わらせる予定です。


 次は昨日の続きの鳥インフルエンザです。
(2004年3月10日)
 農業をスタートした1年後から、ニワトリを飼い続けてきて、今一番の危機を迎えている。しかしこの鳥インフルエンザは、そんなに感染力があるとは思えない。山口でも大分でも、他には感染が見られない。カラスからH5型ウイルスが検出された時は恐怖を感じたが、このカラスという鳥はハイエナのような鳥だから、鳥インフルエンザで死んだニワトリの腹わたなどを食い漁ったのだろう。残飯や腐った物も大好物の大食漢である。野生のカラスからカラスに簡単に伝染するのだったら、すでに多くのカラスの死骸が人目に触れているはずである。
 今、自分が最も欲しい情報は、大分県の九重町で、放し飼いのペットのチャボが鳥インフルエンザで死んだという事実に対しての、周辺の環境、飼い方、エサ、水、飼育者の行動範囲などを、もっとくわしく知りたいが、具体的な状況がわからない。これでは参考にならない。農業の傍ら、小羽数のニワトリを飼っている自分には、山口や京都のような企業養鶏が感染した事実はそんなに脅威ではないが、大分のペットのチャボが感染したという事実は脅威である。原因がわからなくても、客観的事実がもっと赤裸々にされないと、対処の仕様がなく、いたずらに不安になるだけである。
 
続きは明日


ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!

このページのトップへ

鳥インフルエンザ④

20061216205916.jpg   20061216210549.jpg   20061216210041.jpg
 12月中旬だというのに、いまだにハクサイにまぶれついて、ぞろぞろ動いている。この害虫の名は「ダイコンサルハムシ」。黒光りしている、気持ち悪い、サイズが大きい。多くの有機農業者を悩ませているアブラナ科野菜だけにくる害虫。みんなどうしているのだろう。数年、周囲にアブラナ科野菜を作付していなかった珍しい田んぼでは発生が少ない。でもアブラナ科野菜を作り続けているうちに、どこからともなくやってくる。200メートルくらいは、ぞろぞろ這って来ると言う。川があっても渡るらしい。こそっと少量作ってもアブラナ科めがけてやってくる。どこかにセンサーでもついているのだろう。去年までの3年間、それほどやられなかったのが不思議なくらい、今年の被害は大きい。来年どうしよう。これだけ発生すれば、来年の秋も必ず大発生する。作付場所を大きく移すか、農薬を使うかのどちらかしかない。作付場所を移すことは負担が大きい。農作業時の移動、肥料をやる時の移動、定期的な見回り(足音が肥やし)の時の移動、そして最大の負担は収穫時の移動。アブラナ科野菜だけ作付場所を移すことはこれだけのデメリットがある。従来からの場所で作るとしたら、どんな農薬をどれくらい散布すれば防げるだろう。来年のアブラナ科野菜の種蒔きや定植期である9月12~14日頃までに、この害虫をどうするか心の中で決着をつけておく必要がある。泥縄式では決してうまくいかない。
 アブラナ科野菜に比べて、ホウレンソウは何ときれいなんだろう。蓚酸がたくさん含まれているから害虫が嫌うのだろうか。来年の9月上旬までに、折に触れて、ダイコンサルハムシの対策を考え続ける必要がある。


 次は前日の続きの鳥インフルエンザです。


(2004年3月9日)
 
浅田農産夫婦が自殺したことが、朝刊に出ていた。カラスも鳥インフルエンザだった。野鳥から検出されたのは、世界で初めてらしい。妻も、今朝の新聞記事を見て弱気になっている。すぐにすぐというわけじゃないけど、やっぱり、止めんとおえんかもしれんよ・・・と言う。長女の就職もあるし、もし我が家が発生源になると、職場(町役場)との関係もあるし・・・。だんだんと、外堀りが、埋められてきたような感じ、というのが今の心境である。たった26羽だから、いつでも止められる。手離そうか、手離すまいか・・・。


 鳥インフルエンザのような病気が身近な問題となった時、飼っている羽数が少なければ少ないほど、小回りがきくし、経済的な打撃も少ない。一昔前は集落のどこの家でも20~30羽ほどのニワトリを飼っていた。何万羽、何十万羽という飼い方は自然でない。こういう飼い方では、あまりにもリスクが大きい。鳥インフルエンザに限らず、ニューカッスル病でも1羽が発病すれば全部にうつるのだから、「薬づけ」も当然となる。現代という時代は、どんな分野においても、大規模化、分業化が進み過ぎている。「食の安全」うんぬんを口にする前に、自分で1度でも、食べ物を生産しようと行動してみるとよくわかる。ネギ1本を生産するにも、都会では土がない。まず土を買い、土を入れる容器を買い、肥料を買い、ネギの苗を買いというふうに、自分で生産できないシステムの中に閉じ込められている。この状態もきわめて不自然である。不自然なのに不自然と思わなくなっている。いつまでも、いつまでも、野菜はスーパーの店頭にあるということが前提となっている。
(1)野菜のほとんどは、今はまだ、土の上で作られている。
(2)世界分業の視点では、野菜は低開発国(貧しい国)で作られる。
(3)野菜の物価は世間の注目を集める。日々の生活必需品は低い価格で安定させておくことが必要になる。
(4)時間回転率(キュウリ1本作るのに約60日かかる)と、設備回転率(キュウリを作っている間は、ハウスあるいは土地は他に転用できない)が悪すぎる。だから、利潤など生み出せない。今の状態(いつでも輸入が可能な状態)では、企業は農業に参入してこない。
(5)低開発国でも、工業が発展すれば、必ず「農業離れ」が進行する。農業と他分野との所得格差があまりに大きすぎるので、農業をしなくなる。これと比例するように、低開発国においても、農産物が不足してくる。
(6)世界分業の視点とは、貧しい国はいつまでも貧しく、豊かな国はいつまでも豊かにという考え方。いつまでも農産物の輸入が途絶えないと考えること自体がおかしい。
(7)かつて、三種の神器(洗濯機、テレビ、冷蔵庫)が、日本の農村の自給自足システムを壊したように、工業先進国は輸出によって、低開発国(貧しい国)の自給自足をかたっぱしから壊していき、大量のストリートチュルドレンを出現させている。


続きは明日



ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!
このページのトップへ

鳥インフルエンザ③

20061215222338.jpg   20061215222411.jpg   20061215222444.jpg

 宅急便の営業所のすぐそばに、大きなスーパーがあるので、週に1~2回は食料品や日用品の買い物をして帰る。今年はダイコンやハクサイやキャベツという重量野菜が例年に比べて安い。ダイコンもキャベツも1個が100円を切っている。野菜の価格は年によって多少の高い安いはあっても、この16年間、ほとんど変わっていない。ワンパックでは、市場価格に関係なく、最初に自分が決めた価格で一定であるが、もちろん自分も十数年以上同一価格である。市場価格は自分には関係ないといっても、生産者も消費者も市場価格には惑わされるものである。野菜の価格はすぐに庶民の台所に反映されるから、天候やその他で野菜が不足すれば、政府はすぐに緊急輸入とかで対応する。野菜の価格は需要と供給というバランス価格ではなく、政府の「統制価格」に近い数字に落ち着いていると思う。サラリーマン社会では「年功」によって、少しずつでも給与はアップしていくだろうが、野菜にはそれはない。


 今日は久しぶりによい天気だった。どうせ今日も曇天だろうとゆっくり構えていたが、10時頃から太陽がまぶしくなった。曇天だと9時に収穫しても11時に収穫してもそんなに違わないが、好天になると、12月中旬の今時分でも、あまり太陽の位置が高くならない間に収穫した方がよい。今日は出荷の日だったので、途中からあわてだした。野菜は萎えることはないが、ハーブは葉物なので、できるだけ朝の内に収穫した方がよい。大体において冬の野菜は、ハクサイでもダイコンでもキャベツでもカブでもホウレンソウでもネギでもニンジンでも、収穫期に達した野菜を収穫すれば、それで「完結」だが、ハーブの場合は秋冬系のハーブでも「摘み取り系」が多い。ディル、チャービル、イタリアンパセリ、タイム、ミント、セイジ、ローズマリーは全て摘み取り系である。摘み取り系とは、摘むとまた他のわき芽が伸びたり、摘んだ下から枝別れしてその芽がまた伸びてくるといった具合で、冬でも結構、茎葉が伸びているのを出荷のつど確認できる。春夏に比べて茎葉の伸長が遅いというだけで、少しずつなら秋冬でも伸長している。「完結系」がいいか「摘み取り系」がいいかは一概には言えない。一見、摘み取り系の方が得なような気がするが、成長から出荷までのトータルで考えるとあまり変わらない。例えば野菜のシュンギクを例にとって説明すると、自分は「完結系」である「株張りシュンギク」を作っているが、ハウスで作っている人は「摘み取り系」のシュンギクを作っている。ハウスの中では冬でもよく伸びて場所を取らない摘み取り系がよいが、ボクのように露地で面積も十分使える場合は、摘み取って仕分けをする手間を考えたら1株収穫したら終わりの株張りの方がよい。


 今年はアブラナ科四天王が虫害で失敗しているので、ワンパックが貧相である。今日のワンパックは、里芋1キロ400円、イタリアンパセリ1束100円、ニンジン1キロ250円、ネギ1束100円、シュンギク2株で200円、ロケット約500g250円、ホウレンソウ約500g250円、ダイコン小3本150円、キャベツ小2個で150円、ハクサイ小150円、サツマイモ1キロ300円、送料800円、合計で3100円。サービス品としてジャガイモ小粒少々とユズ3個を入れた。ハーブティ用ハーブのサービス品は今年は暖冬で12月8日まで出荷(最後はスペアミントとレモンバーベナの2種)したが、今週は出していない。


 ニワトリは青菜(雑草や野菜クズ)を本当によく食べる。青菜を毎日欠かさずたらふく与えようと思えば、30羽ほどが限度ではないかと自分は思っている。


(1)雨の日でも欠かさない。
(2)ふごにいっぱいで5~6キロになるから、1回ですむ。


(3)1回で済むから雨の日でもやることができる。


(4)30アール余りの作付で出る野菜クズの量は、ちょうど30羽ほどが適切である。


(5)雨の日でも真冬でも青菜を5~6キロ、鎌で集める時間は5分ほどである。


(6)逆にいえば、5~6キロで済むから、毎日与えることが苦にならない。これがこの倍の10~12キロなら、ちょっとしんどい。


(7)自分の考え方は、購入飼料は安全性の見地からはかなり疑問であるが、ある程度の個数のタマゴを産んでもらうにはやむをえない。だから青菜を大量に与えて解毒する、もしくは中和するという考え方である。


(8)確かに30羽ほどでは、全くカネにはならない。しかし家の食べ残り、田んぼの野菜クズの「リサイクル」という観点から考えると抜群の羽数である。40羽ではちょっと多い。15羽ではちょっと少ない。20~30羽がよい。


 次は前日の続きの鳥インフルエンザです。


(2004年3月7日)
 
近くに嫁いでいる姉や、妻の実家の母が、鳥インフルエンザを心配して、何回か電話をかけてきている。彼らの心配はわかるが、すぐに今、飼うことを止めるという気持ちにもなれない。実際問題として、今はなかなかニワトリを引き取ってくれる所がないし、つぶす(絞める)といってもまだ30羽近くいるので、つぶす時のエネルギーは大変。今ここで負けてしまうことは永遠にニワトリを手離すことにつながる。鳥インフルエンザ、コイヘルペス、BSEなどが、今後10年間ほどの間に解明されることはないだろうから。


 今日は3月7日。鳥インフルエンザに感染したニワトリの鶏舎周辺の町村で、野生のカラスが4羽ほど死んでいるのが見つかったらしい。手離さざるをえないだろうか・・・ずるずると先延ばしせず、早く決断した方がいいのだろうか。自分の気持ちの揺れ動きをずっと書いていこう。それが鳥インフルエンザに対する自分の戦い方。


《追伸》
 
今はブログという情報伝達手段を手に入れたので、ニワトリと自分に迫る身の危険を感じたら、全てをブログで公開しながら、ブログで戦っていくだろう。


 明日に続く


ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!
このページのトップへ

鳥インフルエンザ②

20061214195516.jpg   20061214195547.jpg   20061214195654.jpg

 出荷がない雨の日は、田んぼに行っても何もすることができない。でもニワトリは田んぼの一角で飼っているので、エサだけはやりに行く必要がある。毎朝決まった時刻にエサを与えた方がいいが、こんな雨の日はどうしても昼頃になってしまう。ニワトリは結構エサをよく食べる。コゴメ1キロと買ったエサ1キロと野菜クズ(青菜)5キロ以上というのが1日のエサの量だけれど、コゴメと買ったエサはトリ小屋に出たり入ったりしている間にまたたく間になくなってしまう。よほど腹が減っているのだろうか。でもこれ以上はやらない。エサ代が高くついてしまう。今はまだ義父がコゴメをくれるから30羽ほど飼えるが、義父が稲作を止めたらコゴメももらえなくなるので、ニワトリの羽数を20羽ほどに減らすか、少しでも陸稲か麦を作ってコゴメの代用も考える必要がある。
 タマゴはあまり産まないので、定期的なタマゴの顧客もむずかしい。もっと大きな理由はタマゴは1個が50円以下では売りたくない。10個が600円くらいなら売ってもよいが、そういう価格で買ってくれる人を探すのもなんか気持ちが進まない。


 ボクのような飼い方をしていると、ニワトリの病気には縁がなさそうに見えるが、この16年間に1度だけ、大病で半分のニワトリを亡くしたことがある。それは1996年の7月のことだから、もう10年も前のことである。コクシジウムという病気だった。おかしいと気づいてすぐに家畜保険所へ電話してきてもらったが、全身白装束でなんか仰々しい恰好で来られた。検査の結果はコクシジウムという病気だった。係官が言われるには、原因は①水と②エサと③気象の3つしかないと言われた。その年は梅雨の長雨が続いた年だった。エサも1ヶ月に1度ほどしか買っていなかったので、梅雨時期で、買ったエサが最後の方になって「腐って」いたのかも知れない。羽数が多ければ、エサの回転もよいが、羽数が少ないとエサの回転も悪くなる。以後夏場には、購入エサは他の月より短期間で回転させ、青菜をよりたっぷりやることにした。


 ニワトリは冬でも水をよく飲む。昨日の画像の鍋いっぱいの水が翌日には空っぽになっている。池の水はあまりきれいでないので家から簡易水道の山水を持参している。野菜の出荷日には夏でも冬でも収穫物には「ジョロで打ち水」をするため16リットル容器に山水をいっぱい入れて持ってくるので、その残りをニワトリにやっている。今は井戸があるので「つるべ」で井戸水をくみ上げてもよいが、家から持ってくる方が早い。


 次は昨日の続きの鳥インフルエンザです。


(2004年3月3日)
 2月29日の早朝、まだ暗闇の5時半過ぎに、懐中電灯を手にして、3日分のコゴメ、3日分の野菜クズ、3日分の水を用意してから、2泊3日の南紀勝浦、色川地区への田んぼ見学に出かけていたが、3月3日の朝はちょっと不安だった。でも、ボクの足音を聞きつけて、鶏舎の入り口の金網に元気よく飛び跳ねている数羽のニワトリを見て安堵した。普通ならこんなに不安なことはないが、今は、浅田農産の通報遅れによって、各地に鳥インフルエンザが飛び火しているから・・・。26羽の元気なニワトリを見て、
(1)鶏舎内に春の太陽が差し込み


(2)4面オール開放の金網鶏舎で、風通しがよく


(3)一番近い民家からも直線で200メートルほど離れている、山ぎわの静かな田んぼの一角の、4坪半の鶏舎で


(4)家の多少の食べ残りと、畑の野菜クズを、ニワトリの腹を通してリサイクルし、丹精込めた野菜のどんなひとかけらも無駄にすることなく、その結果として、野菜の肥料となる鶏糞を頂き、家族の食べ量くらいしか産んでくれなくなったが、貴重なタンパク源であるタマゴを供給してくれる。


 こんな飼い方をしている30羽前後の我が家のニワトリが、もし鳥インフルエンザにかかってしまうなら、日本全国のどんな飼い方をしているニワトリも、我が家以上に鳥インフルエンザの脅威にさらされていることだろう。


 大分でペットのチャボが感染した時は、大きな動揺を感じた。そして、京都から兵庫、香川に感染が飛び火した現在は、逆に少し開き直りも出てきた。しかし、今までのように放ったらかしはできなくて、いつも多少は気にせざるをえない存在になってしまった。今はとても不安な気持ちでいる。でも飼い続けるつもりでいる。


明日に続く。


ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!
このページのトップへ

鳥インフルエンザ①

20061213193625.jpg   20061213193706.jpg   20061213193819.jpg

 出荷の日の雨はいやなものである。カッパは重たいし、足元は悪いし、普通は洗ったりしないニンジンも泥だらけになれば洗わざるをえないし、晴れた日より収穫時間がかなり多くかかってしまう。そして収穫時が雨であると、収穫物のその後の日持ちも悪い。かといって出荷をパスすると商売はあがったりである。


 11月上旬頃まで雨が少なく、エンジンポンプで水遣りも考えていたが、11月中旬以降、この1ヶ月ほど雨が多い。こんなに雨が降ると仕事にならないし、野菜にもよくない。11月末に麦を蒔く予定だったが、雨天続きでトラクタが田んぼに入れられず、もらう予定だった稲ワラもびしょびしょで乾かない。これ以上雨が降り続くと、稲ワラが腐ってしまう。この調子では年内は乗用トラクタで耕運はできそうにないので、麦蒔きも来年2月末頃になりそうである。天気予報では明日も明後日も雨マークである。


 秋冬野菜が収穫期に達した11月中旬以後は、2月末頃までもう雨は一滴も降らない方がよい。水分は「朝霜」による水分だけで十分である。収穫期に達してから田んぼの過湿状態が続くと、野菜が根腐れを起こすし、病気発生の原因にもなる。収穫適期に一括出荷ができる市場出荷方式と違い、ワンパックでは少しずつ少しずつ2月末まで出荷するから、11月中旬以降の天気具合によっては、秋冬野菜の最後の出荷である2月末まで、田んぼで日持ちがせず、2月上旬で終わってしまうこともある。


 稲ワラが乾かず、田んぼも耕運できないとなると、もう急ぎの農作業はない。出荷の日以外はゆっくりできる。昨日は住所録をパソコンに入れる作業をした。農業を始めてからこっち、12月に年賀状を書くような時間が取れず、ずっと年賀状は出していなかったが、今年は年賀状を出そうと思っている。といいながら毎年時間切れで出していない・・・。パソコンが使いこなせていないから、こんな状態からなかなか抜け出せない。今年の農閑期はパソコンのレベルアップの年にしたい。それと、今まで書いてきたブログで初期の頃は題名も入れていないので、題名を入れることと、カテゴリー別に分類する作業も至急にする必要がある。①野菜 ②ハーブ ③ニワトリ ④ワンパック ⑤肥料と資材 ⑥田んぼ訪問 ⑦自給自足は死語 ⑧土と疎外 ⑨身辺 に分けるつもりでいる。  


 韓国では今、鳥インフルエンザが発生している。日本で始めて鳥インフルエンザが発生したのは3年前の1月の山口県だった。その頃に書いた日記を公開します。


(2004年2月25日)
 山口県の鳥インフルエンザが終息したと思ったすぐ後、今度は大分県に発生した。半径30キロ以内のニワトリやタマゴの移動が制限される。今度は一般家庭でペットとして飼われていたチャボらしい。今までは、鳥インフルエンザは、ウインドレス鶏舎の、身動きできないケージで飼われているニワトリがかかるものと安易に考えていた。そして、自分のような、地べたで飼っている放し飼い(完全な放し飼いではないが)のニワトリは、鳥インフルエンザには抵抗力があるはずだと思っていた。しかし、今日のニュースはちょっとショックだった。山口県のは他人事のように眺めていた自分も、大分県のは、足元に火が付いたような気分になった。さっそく、放し飼いで1500羽ほど飼っている友人に電話をすると、各鶏舎に入る時は長靴を消毒して入り、ニワトリは外(遊び場)に出さないようにして、野鳥との接触(野鳥も鶏舎の外の遊び場で、ニワトリと同じようにニワトリのエサをいっしょに食べる)を断ち、青菜(野菜くず等)も、野鳥が一部食べていたり、糞を落としている可能性があるので、ニワトリにやらないようにしていると言われる。しかし、こういう状態でニワトリを鶏舎に閉じ込めておくと、体力も劣るし、遊び場がぐんと狭くなっている(鶏舎の中だけだから)ので、かなりのストレスを受け続けるだろうし、太陽光線を浴びる機会も少なくなるので、何ヶ月も鶏舎内に閉じ込めておくことは限度がある。


 自分の友人には、こうした自然卵養鶏(放し飼い養鶏)を生計の柱としている人が多い。みんな内心おだやかではない。でも、原因がわからないのだからどうすることもできない。自分が原因とならなくても、半径30キロ以内にそういう事態が発生すると、タマゴやニワトリの移動禁止措置が取られるので、生計の維持の根幹にかかわる問題になる。


 この騒動が治まるまで、しばらくニワトリを手離そうとかと考えることもあるが、いつになったら騒動が沈下するという保証はない。これからは、コクシジウムやニューカッスル病のように、この鳥インフルエンザとも「共存」していかなければならないのではなかろうか。たった30羽ほどしか飼っていないが、ニワトリに生計がかかっている人と同じくらい、自分も鳥インフルエンザに負けることはできない。自分だけで終わらないので、恐怖感はいっしょである。今は、毎朝ニワトリ小屋に近づくたびに、ああ「今日も元気でいてくれる」と安堵する。

ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!
このページのトップへ

自由の大地に

20061212211015.jpg   20061212211046.jpg   20061212211110.jpg

 まだ小学生だった頃、近所の30羽ほどのケージ飼いのニワトリを見て「かわいそう」だと思った。でも、年の近いその家の少年が、どのニワトリがどれだけ産んだか、タマゴの個数がわかるし、エサの量もきちんと計算した分量だけ与えられるし、地べたで飼うより、こういう飼い方のほうが「衛生的」で「近代的」だと話してくれた。きっと、その少年の親がそう言っていたのを聞いたのだろう。でもその時ボクは「ニワトリがかわいそう」としか思わなかった。ケージは、ニワトリがやっと入れるくらいの、小さいスペースの檻だったから・・・。40年ほど前の、その会話やその光景を今でも覚えている。当時はまだ、どこの家でも20~30羽ほどずつ、家の軒下のような地べたで飼っていたが、その家では早くもケージ飼いだった。


 昭和40年代の高度成長の時代に、ほとんどの村人は農業の足を洗い、サラリーマンへと収入の軸足を移していった。もちろんタマゴなど、稼いだカネで買った方が、自給する(自分で飼う)より、はるかに経済的になった。時を同じくして、牛も豚も集落から全くいなくなった。


 35才になった春、突然ひらめいたのが「独立自営業」の農業だった。2年後、農業を始めると、ニワトリを飼うのは自然の成り行きだった。最初に入れたのは、32羽のメンドリと3羽のオンドリだった。その後、3~4年に1度入れ替え(淘汰してヒヨコの導入)ながら、ずっと30羽余りを飼い続けている。飼い続けることが負担にもなっていないし、さほど時間も取られていないし、経済的なメリットにもなっていないし、エサにもあまりカネをかけていない。出荷できなかった野菜クズが、糞(肥料)とタマゴに変身してくれる「リサイクル鳥」である。農業とセットみたいな存在なので、農業を続ける限り飼い続けるだろう。


 鳥インフルエンザは、まだ原因がわかっていないので、一つの恐怖ではある。しかし、もし自分のニワトリが感染するようなことがあったら、こういう自然な飼い方はもうできなくなってしまうのではないかと思う。消毒とワクチン、各種抗菌剤のエサや水への投入、ウインドレス鶏舎の狭い檻の中に閉じ込めて、無菌室の状態で飼わざるをえなくなるだろう。50~100万羽単位で飼われているニワトリはこういう飼い方である。99.9%はこういうタマゴであり、残りのわずか0.1%に満たないタマゴが、地べたの放し飼い養鶏のタマゴである。しかし、たった30羽でも、エサの自給は5~6割ほどしかできず、残りは、海外からの輸入物である購入飼料に頼らざるをえない。


 今から40年ほど前まで、家の軒先で飼われていた20~30羽養鶏に戻ろうなどという暴言をいうつもりはない。経済システムがすでにこういう選択をできなくしている。そして、最近の鳥インフルエンザの恐怖が、定年帰農者の楽しみとしての20~30羽養鶏の道を、完全に閉ざそうとしている。



ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!
このページのトップへ

スタート

20061211224752.jpg   20061211224824.jpg   20061211224920.jpg

 退職した次の日から3日間は、どしゃ降りの雨だった。寝床から出る気になれなかった。退職する数ヶ月前に、八塔寺のNさんに研修に通わせてほしいと頼んだが、まだそういう立場でないし、教えることがあまり上手でないと言われた。

 
雑誌「現代農業」に記載されていた御津郡建部町の「喜多鶴会(無農薬野菜栽培集団)」に、週に何回か通わせてもらい始めたが、片道50キロという距離の壁があって、十数回しか通えなかった。

 
家庭菜園くらいなら父がしていたので、父に教えてもらえばよかったのであるが、なかなか自分の家の田んぼに出る「踏ん切り」というか「勇気」が出なかった。田んぼは場違いな場所のような気がした。大学まで出たのに・・・という意識もあったかも知れない。その時はまだ、地域からも田んぼからも土からも疎外感を感じていた。でもなんだかんだといっても、もう田んぼに出るしかない。何かに背中を押されるような気持ちで田んぼに出始めた。


 田んぼに毎日出るようになって、3週間~4週間ほど過ぎてから、自分のそういう意識も、周囲の目も気にならなくなった。2ヶ月もすると、自分も周囲も「その状況に慣れてくる」。認めたくなくても、認めざるをえない状況とでもいうのだろうか・・・。農業をスタートしてからの16年間は、思い返すようなスランプにも何ら陥ることなく過ぎたが、唯一危機的な状況があったとすれば、スタート時点の3月、4月の2ヶ月間である。4月下旬頃からやっと、田んぼに出ることに慣れてきた。この2ヶ月間は、田んぼに出るということが何か不思議な感じがして、足も上ずっていた。4月下旬頃からやっと、田んぼや土や空気や景色に慣れてきた。7月2日に農業用軽四を購入し、ほとんど父が作った家庭菜園の野菜を軽四に積んで、近くの団地を「引き売り」した。1軒1軒、「野菜はいられませんか」と声かけしてまわった。「引き売り」もとても恥ずかしかったので、自分のことを知っている人に出会わない団地をまわった。しかし、引き売りの方は3日で慣れた。引き売りしながら、野菜を買ってくれたお客さんに「野菜会員募集」のパンフレットを渡した。野菜会員というのが珍しかったのか、すぐに5~6軒の会員が獲得できた。8月には「あめんぼ通信第1号を出して、野菜会員に野菜を配り始めた。3年ほど引き売りをしたが、地元では最多でも40軒には届かなかった。現在も続けてくれているのは2軒である。5%ほどしか残ってくれなかった。3~4年間続けてくれた顧客は多かったが、3~4年間というのは一つの壁だと思う。2軒の顧客はすでに15年間を越えている。

 父が元気でいてくれたのは、農業をスタートしてちょうど3年間だった。4年目に入った春、突然、身体に黄疸が出て、入退院を繰り返すようになり、1年も経たないうちに亡くなったが、自分が一通りの技術(家庭菜園程度であったが)をマスターし、もうこれで教えてもらうことはなくなったと思い始めた頃の、突然の発病、死だった。この3年間はとても大きかった。それまで、野菜に関する知識は全くの白紙だったから。10年を経過したら「百姓塾」を立ち上げようと思ったのも、農業の研修先が近くに全く見つからなかったことと、有機農業には、特定の専門知識ではなく、家庭菜園的な技術(技術というほどのものではないが)こそ必要と思えたからである。

 母は農業を始める3年半ほど前に亡くなっていた。父母は若い時代は「葉タバコ」で生計をたてていたが、農業では生活できなくなり、ボクが中学校を卒業する頃から、それぞれ「コンクリート会社」、「建設現場の日雇い」に働きに出るようになった。昭和40年代の初め頃から、まさに「農業では食えない時代」に突入していたのである。自分たちがえらいめをして、ボクを大阪の私立大学に進学させたのに、まわりまわって、めぐりめぐって、農業を始めたりしたものだから、父もショックだったかもしれない。「食えるかえー」と一言いっただけだった。ボクはボクで、バカにしていた父と「農業」という同じラインに立つとは夢にも思わなかった。

ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!
このページのトップへ

就農準備期間

20061210193616.jpg   20061210194345.jpg   20061210194641.jpg

 「農業」がひらめいてから、どういう農業形態にしようかと考えた。まず考えたのは「農協便り」に出ていた施設園芸である。会社を休んで、農業改良普及所の所長さんに連れられて先進農家訪問などしたが、どうも自分にしっくりこなくて、同じようなことが自分にできるとは思えなかった。休日には図書館へ通って、農業関係の本も読み始めたが、そこで始めて「有機農業」という言葉を知り、坂根修さんが書いた「都市生活者のためのほどほどに食っていける百姓入門」という長ったらしい題名の本を読んでからは、「有機農業」にどんどん引かれるようになった。この農業形態は元手があまりかからないような気がしたことと、ハウスを建てて集約栽培とか、大規模に専門作物を作るという農業形態とは対極の立場にあったので、これなら自分にもできるかも知れないと「始めて思った」農業形態だった。その時すでに35年も生きてきているのだから、どんなことなら自分にもできて、どんなことはとても苦手だくらいわかっている年齢である。その後、50冊以上の有機農業関連の本を読んだ。いつしか、星寛治さんの住む山形県東置賜郡高畠町は、「有機農業の聖地」のように思えた。

 
その後、「金光教」の先生の紹介で、「岡山土と健康の会」という存在を知り、その代表者であった景山大吉さんから頂いた、日本有機農業研究会発行の「土と健康」誌と、「自然食通信」という2冊の本を読んだ。この2冊はとても有意義で、それぞれ過去に発行されたものを何度も繰り返し読んだ。「自然食通信」はすでに廃刊になっているが、まだまだアウトサイダーであった1980年代の有機農業をリードし続けたすばらしい本だったように思う。

 「農業」がひらめいてから半年ほどの間に、何人かの農業の先達に出会い、有機農業関連の本も読み始めていたが、それでも農業にはなかなか踏ん切れなかった。蓄えもほとんど底をついていたし、自由になるカネもなかった。結局その後も、現場作業員として2年間働いた。この2年間、農業で食えるだろうかと迷いに迷ったが、農業をしたいという意思がゆらぐことはなかった。給料はほとんど貯金にまわした。当時はまだ父が健在で、そうできる境遇にあった。10年余り机についてする仕事だったのに、この2年間の肉体労働で、身体が少し変わってきたようにも感じた。そして初めての肉体労働から風邪をこじらせて肺炎になり、それがきっかけで、へビースモーカーだったのに、運良く禁煙にこぎつけれた。禁煙は体力増強にも節約にもつながった。


 そして、何よりも踏ん切りがつけれたのは、農業がひらめいてから1年後、妻(マルミさん)が町役場の職員として採用され、フルタイムで働き出したことだった。妻が職場にも慣れた1年後、農業がひらめいてから2年が来ようとしていた春に退職した。その時37才の誕生日が目前だった。


 2年間も準備期間があったのだから、休日には、田んぼに出てみるくらいはすればよかったのに、全く田んぼには出なかった。どうも田んぼには出たくなかった。出れなかった。父にも、農業をするとは一言も言わなかった。



ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!
このページのトップへ

農業のひらめき

20061209222241.jpg   20061209222343.jpg   20061209222415.jpg

 農家の長男でありながら、農業はおろか、田んぼのありか(場所)さえ忘れている田んぼもあった。ニンジンやタマネギ、ダイコンなど、いつ蒔いて、いつ取れるかなど何も知らなかった。知ろうとも思わなかったし、サラリーマンをしていた時の休日は、いつも疲労感が残って、ぼうっとしていたり、ごろごろするだけで、他に何もする気が起きなかった。
 父母も農業を否定していたので、農繁期(8反ほどの稲作をしていた)でも、手伝ってくれとは言わなかったし、手伝う気にもならなかった。そんなボクが突然、農業など始めたものだから、集落の人もびっくりしたんじゃなかろうか・・・。うさんくさそうに眺める集落の人の眼に慣れるまで1ヶ月ほどかかったように思う。どうせ、続かんわ・・・くらいは思っただろう・・・。サラリーマンを止めて農業を始めることは、16年前も、そして今でも、きわめて「奇異」に見える。1万3千人ほどの町内で、この16年間に農業を始めた現役世代をボクはたった3人しか知らない。農業はすでにこれくらい顧みられなくなった職業である。農業では食えないということは常識以前の問題だった。農業は、定年後、もしくは休日にするものと相場が決まっている。そして自分もスタートする3年前には、全く想像もしなかった職業である。
 学校を出て働き出してすぐに、サラリーマンという職業は自分には向かないなあと感じた。独立してできる仕事がしたいと、20代は、ある資格試験をめざして、足掛け10年ほど努力してみたが、職業につくと時間が取れず、退職するとカネが続かずで、結局、勉強にも仕事にも中途半端になってしまい、まさに「悪循環」の10数年だった。最後に勤めた会社も事務員で就職したが、面白くなく、止めようと思ったが、もうちょっと続けてみたらと諭され、同じ会社の現場作業員として働くことになった。34才の終わり頃だった。その時に、だらだらと続けてきた資格取得への夢も完全に断ち切れた。
 今だから言えるが、なんでもだらだらと続けるのではなく、期間や年齢を区切って、それでだめだったら、自分には無理だ、縁がなかったんだと、潔くあきらめることが必要だと思った。その決断や、執着が捨てれなかったら、自分も周囲の家族も大変困ることになる・・・。
 作業員に配置変更になって数ヵ月後の5月の連休のこと、家に配られていた「農協便り」を何となくぱらぱらとめくっていたら、突然、脳裏に「農業」がひらめいた。この突発的なひらめきが、とてもうれしかった。その日から「農業」が頭から離れなくなった・・・。



ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!
このページのトップへ

夕飯のおかず

20061208184514.jpg   20061208184551.jpg   20061208184626.jpg

 昨日はマルミさんの帰りが遅いのがわかっていたので、夕飯のおかずに「トウガン」を煮ることにした。雨で仕事にならない時やマルミさんの帰りが遅くなる時は、何か1~2品おかずを作っておく。といっても料理にくわしくないので、自分で作るものと言えば、今の時期は、ホウレンソウのおひたし、里芋の煮物、目玉焼きかゆで卵くらいなものである。例年ならこの時期はダイコンを煮ることが多いが、今年は虫害でダイコンが大きくならなかったので、ダイコンの煮物はたまにしかできない。ひんぱんに使うと2月末までになくなってしまう。


 ダイコンの代わりというわけでもないが、トウガンがまだ残っていたので、トウガンを煮ることにした。醤油、砂糖、酒、みりん、だしの素、アゲというシンプルな煮物である。これしか知らないからこういう煮物である。何か食感がダイコンに似ている。トウガンは漢字で書くと冬瓜であり、8月の盛夏が最盛期であるが、食べるのは寒くなってからがおいしい。そんなに煮崩れもしない。


 トウガンは食べたことも見たこともない人が多いかもしれない。あいにく画像がない。ボクも農業を始める前までは、トウガンなど食べたことはなく、スーパーでもあまり見かけず、実物もよく知らなかった。農業を始めると、自分の食べたことがない物や、珍しい物や、おもしろそうな野菜を色々作って見たくなるものである。でも作り始めたのは農業を始めてかなり期間が過ぎてからだった。最初のころはずっとソウメンナンキンを作っていた。これも特殊であるが、湯がすとソーメン状になるナンキンであり三杯酢で食べるとおいしい。ところがこのソウメンナンキンはナンキン以上に病気が早々ときて、その病気がナンキンにうつるような気がして作ることを止めた。その後、ソウメンナンキンに代わるものとしてトウガンが浮上してきた。8月にはナスビが1ヶ月間休みであるし、①タマネギ ②ジャガイモ ③キュウリ ④ピーマン ⑤オクラ ⑥ニンニク、ミョウガ ⑦ナンキン ⑧ニガウリ ⑨エンサイ ⑩ツルムラサキ ⑪青シソ ⑫ハーブティ用ハーブ2種類では、ちょっと箱のスペースが空く。そんな時トウガンがあるとボリューム感があるし、日持ちが断然よい(冬まで保存できるのだから)。


 トウガンはナンキンと同じウリ科野菜であるが、ナンキンより病気には強い。トウガンは高温を好むので、ナンキンより1ヶ月ほど遅らせて蒔く。5月10日頃に蒔いて、タマネギの後地に定植する。ナンキンは7月から、トウガンは8月から収穫が始まるので、ナンキンに病気が来て収量が少なくても、後にトウガンが控えていると思うと精神的に随分と違う。そして天候不順が続いても、1ヶ月ずらすことによって、ナンキンとトウガンの両方が天候不順の影響を受けることはなく、どちらかは成功になるのである。


 トウガンは味が淡白であり、ナンキンほど一般的な野菜ではない。それが証拠に集落ではトウガンはほとんど誰も作っていない。我が家でも昔、カンピョウは作っていたが、トウガンは1度も作ってはいなかった。2~3回ワンパックに入れるだけなら、トウガンは案外喜ばれると思う。いろんな料理法があるし、日持ちがするのがよい。


 昨晩煮たトウガンを今日の昼と晩と合わせて3回食べた。ボクが作った煮物は子供は嫌って食べないので、2日もしくは3日と食べ続けることがある。でも、サトイモの煮物でもダイコンの煮物でもトウガンの煮物でも、あれば昼のおかずに助かるので、定期的に作っている。つまり、サトイモの煮物などはボクの定番であり、マルミさんは作らない。たとえば煮物が一品あれば、あと青物で、ホウレンソウのおひたしかブロッコリーの湯通ししたものとかあればよいし、これに梅干かラッキョがあればもう自分は十分である。魚が食べたければ、サンマかサバを買えばよいし、それも面倒であれば、コロッケとかの惣菜を一品買ってかえればよい。ニワトリを飼っているので、ゆで卵、目玉焼きというレパートリーがあるのもうれしい。この冬はダイコンとハクサイの虫害で漬物を作れないのが辛い。漬物も自分の定番である。簡単で単純な料理しか作れないが、1人になっても、食べることにはそんなに困らないと思う。煮物+おひたし+卵+梅干等+市販物一品、という組み合わせで食べたらよい。


 でもこれができるのは、自分が農業をしているからである。農業をしていなかったら、「おかず」のイメージが湧いてこないと思う。ナンキンの煮物、里芋の煮物、ダイコンの煮物、、ハクサイの煮物、ナスビの煮物は季節季節によく作る煮物である。それだけの単品の煮物であるが、自分にはこれでよい。青物のメニューも、エンサイのおひたし、ツルムラサキのおひたし、オクラの湯通し、ピーマン蒸し、レタス、ホウレンソウのおひたし、ブロッコリーの湯通しという、自分の定番がある。季節季節の煮物と季節季節の青物があって、梅干とラッキョと漬物があって、卵があれば他に何がいるだろう。


 世の奥さん方に言いたいのは、配偶者に台所に立ってもらおうと思うなら、家庭菜園とか、野菜とか、田舎暮らしに興味を仕向けることである。土のないコンクリートの空間で長らく生活していると、食べることがどうしても「機械的」になり「ありがたく頂く」とか「旬を食べる喜び」などはわからない。台所に立つことに興味などもてるはずはないのである。
 次は画像の説明です。ちょっと専門的になりますが、わかりやすく書いたつもりです。

 左の画像はサトイモの防寒です。サトイモは初霜が降りる頃には太い茎を根元から切り、その上にもみがら(すくも)をたっぷりかけておきます。これだけではまだ寒さ対策は不十分なので、すくもの上に稲ワラか枯れ草などを被せておきます。サトイモは10月が旬なので、10月が一番おいしいです。でも一番おいしい10月に一括出荷というわけにはワンパックの場合できないので、11月、12月、1月、2月と少しずつ少しずつ出荷していきます。その間に寒さにあたったり、いらぬ水分を吸収したりして、味の方も少しずつ少しずつ劣化していきます。これは仕方のないことです。家庭菜園の場合でも、そういう食べ方ですから。画像にまた、デジカメで撮っている自分の影絵が写ってしまった。まだカメラの扱いがよくわかっていない。


 近所に稲作農家がいて、もみがら(すくも)や稲ワラ(稲ワラは有料)がもらえるのは、とてもありがたいことです。もみがらは、ニワトリの床の下敷きにもよいし、巣箱の中に入れておくとタマゴが割れないし、このような防寒にも役立つ。年が明けたら軽四に、4~5杯もらってきて、クン炭(焼きすくも)を作る。苗床にはこのクン炭がとても有用である。自分は7反(70アール)ほどを稲作農家に委託して米を作ってもらっています。父の死後すぐに稲作を止めた理由は、道具(機械)が苦手だったことと、買い替えの時期が来ていた稲作の農具が高すぎて買えなかったからです。委託農家は親戚ですが、小作料として年間4俵もらっています。これもとてもありがたいです。4俵あれば、ちょうど我が家の1年分の食べ量(4人家族)です。1俵=60キロです。我が家は1人が1年にちょうど60キロ食べている計算です。この方はすでに70才をまわっているので、いつまで元気に稲作を作り続けてもらえるかわかりませんが、作ってもらえなくなったら、もう集落で他に作ってくれる人はいない(60才以下で稲作をしている人は集落に1人もいない)ので、70アールの田んぼの管理(1年に2~3回の耕運と、畦の草刈)をしなければならなくなる。


 真ん中の画像は畝が3列ありますが、ピーマン22本、ナスビ44本、エンサイ80株、青シソ24本、ツルムラサキ(70株の内の10株)を植えていました。画像の手前の部分は枯れた青シソの「木」です。青シソも収穫末期の9月中旬頃には「木」のようになるので、ノコで地際から切り倒しておいて、よく乾いたら焼きます。青シソは翌年の5月上旬頃には、こぼれ種からいっぱい芽生えてくるので、それをきちんとした場所に定植します。こぼれ種から芽生えたのを定植するのは、全作物を通して青シソと赤シソ(梅漬け用に少々定植)だけです。ピーマンは1列、ナスビは2列ですが、ナスビの1列には、株間にグリンピースを蒔いています。今5センチほどに伸びています。黒マルチをしておくと、後作にエンドウ類を蒔く場合にとても便利です。ナスビの足元もしくは株間に種を落とすだけで終わりです。マルチをしていたらベッド(畝)は踏んでいないのでふかふかだし、保水力もあるので、後作は不耕起栽培も可能です。エンドウ類はマメ科なので肥料もあまりいらないので、後は支柱を立てるだけです。キュウリネットで十分です。キュウリネットだけでは倒れやすいので、支柱と支柱との間を50センチ、1メートルの高さの2箇所を紐で結んでおくと横に倒れないです。


 右の画像は、オクラの後作にスナップエンドウを、ツルムラサキの後作にエンドウを蒔いているのですが、これも芽が5センチほどに伸びています。畝幅は150センチありますが、3列ある真ん中の1列は空けています。エンドウ類はおごるので、150センチ幅あっても2条に植えると、間の通路に入れなくなるくらいおごります。11月9日に蒔いたのですが、今年は暖冬で成長が促進されてしまいました。中途半端に大きくなると、大寒の頃の寒さで寒害が出る恐れがあります。



ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!
このページのトップへ

ハクサイ無残

20061207200327.jpg   20061207200306.jpg   20061207200403.jpg

 ハクサイをレースのようにしてしまうこの害虫。黒光りしていて、まるでカブトムシの小形みたいに甲羅が硬い。そしてこの害虫はそれほど小さくない。こんなのが、まぶれつくくらいに集団で「アブラナ科野菜」に襲いかかってくるのだから、もうなすがままに傍観するしかない。いいや、なすがままに傍観はしなかった。定植後すぐに、苗のまわりに農薬をばらまいていた。それにもかかわらず、この有り様である。規定量の3分の1も使わなかったから、使用量が少なかったのかもしれない。農薬を使わなくても、3年続けてかなりよいハクサイができていたので、この害虫に対する油断があったようだ。カブは壊滅、ハクサイはこの状態、ダイコンは通常の3分の1~4分の1ほどの大きさにしかならず、キャベツも無残な状態・・・。アブラナ科四天王の失敗で、この2ヶ月ほどずっと重い気分を引きずっている。出荷のたびに、そのそばを通るたびに、気分が落ち込む。ワンパックを組むのにも苦労する。冬のワンパックにいつものサイズのアブラナ科四天王を収めることができないと、箱がぐすぐすになってしまう。ネギ、シュンギク、ホウレンソウ、ロケットで、箱のぐすぐすは今のところ何とか防げても、アブラナ科四天王の代わりは他のどんな野菜でも果たせない。


 全ての野菜にこんな害虫がくるわけではない。害虫のほとんど来ない野菜も多い。秋冬野菜でいえば、ホウレンソウ、シュンギク、レタス等にはほとんど害虫はこない。春夏野菜でも、エンサイ、ツルムラサキ、青シソ等にはほとんど害虫はこない。害虫は来ても余り問題にならない野菜もある。オクラやピーマンがそうである。ナスビに来るテントウムシダマシ(ニジュウヤホシテントウ)のように、ナスビに壊滅的な打撃を与えても、茎を半分に切り戻しして、葉を全部落として1ヶ月休ませれば、8月末頃からまたピカピカの秋ナスができるので、こんな場合の害虫も、自分の場合はほとんど問題にしていない。5月、6月の頃、定植したての「ウリ科野菜」にやってくる「ウリバエ」も、網目の小さいネットなどをべた掛けにするかトンネル状にかぶせれば防げる。春キャベツも春先に青虫を手でつぶしてネットを被せておけば、そんなに壊滅的な被害は受けない。結局、自分にとって困る害虫は、アブラナ科野菜に襲いかかってくる、画像の「ダイコンサルハムシ」という害虫だけである。


 同じ野菜でありながらシュンギクやホウレンソウやレタスはなぜあんなに美しく成長するのだろう。害虫さんにお聞きしますが、なぜシュンギクが嫌いなんですか。シュンギクのどこがおいしくないのですか。ホウレンソウはどこが嫌いですか。生で食べると蓚酸が多く含まれているからですか。それならレタスは生でばりばり食べるくらいおいしいのに、レタスのどこがお嫌いですか。タカナやカラシナはちょっと辛いのに、なぜあんなに好きなのですか。タカナやカラシナが「アブラナ科野菜」だからですか。この好き嫌いの違いはいったいどこから来るのだろう。どれも人間が開発した野菜なのだから、レタスやシュンギクやホウレンソウの中の、害虫が嫌うエキスをアブラナ科野菜に簡単に注入できそうな気がするが、農学者はいったい何をしているのだろう。注入しようと思えば遺伝子組み換えのようになってしまうのだろうか。


 自分の周囲で無農薬野菜をかなりの規模で専門的に作っている人は、害虫の少ないピーマンやホウレンソウやシュンギクやニンジンを選択している人が多い。アブラナ科野菜を選択している人は1人もいない。アブラナ科野菜を何年も作り続けて、しかもかなりの量を無農薬で作っているというのは、ちょっと信じがたい。確かに、農薬を使う以外の方法で防ぐ方法も聞いている。その方法は


(1)周辺でアブラナ科野菜を作っていない珍しい土地に作付場所を移動する。


(2)アブラナ科野菜というエサがなければ生きていけないのだから、余り発生がひどければ、1年アブラナ科野菜の作付は見合わす。


(3)9月に何回も交配を重ねて増殖していくので、初期にたたく。つまり種蒔き予定日の1週間ほど前におびき出し用のコマツナなどを蒔き、コマツナに集まってきたダイコンサルハムシを湯をかけて殺す。あるいはその上で枯れ草などを燃やす。


(4)アブラナ科野菜を誰かにもらって、種蒔き予定日の1週間ほど前に、ところどころに葉を置いておく。そうすると集まってきたダイコンサルハムシの量によって、その年の発生状況がわかるので、農薬を使うかどうかの判断基準にもなる。これも湯をかけるなどして、増殖する前の初期にたたく。


 (1)と(2)は現実的には難しいとしても、(3)と(4)はやろうと思えばできるはずであるが、自分の身体がそのように動いてくれない。「のど元過ぎれば熱さ忘れる」ということわざがあるが、このダイコンサルハムシとの格闘は、ダイコンやカブの種蒔きとハクサイやキャベツの定植をする9月12日~9月20日頃から、それらが活着する10月5日頃までの「たった2週間ほど」が勝負である。


 この数ヶ月にわたる気分の落ち込みの日々を、来秋のアブラナ科野菜の種蒔きや定植の頃まで肝に銘じておく必要がある。


害虫で困っているのはアブラナ科野菜だけだが、病気が、ジャガイモ、タマネギ、ナンキンの3種類にくる。つまり①アブラナ科野菜 ②ジャガイモ ③タマネギ ④ナンキンの4種類の作物の「病害虫」には、もう10年来、悩まされている。


 この4種類以外には病害虫が来ないと言っているわけではない。来てもそんなに困っていないということである。しかし、一定量以上作付するなら、それはやはり自然に反することになり、通常来ないと思える作物にも病害虫が発生する。


 もう一つは、市場出荷みたいに「必要以上に」外観の良さが要求されるなら、通常使わなくてもよい作物、たとえばサツマイモのような作物にさえ、芋の表皮の見栄えを悪くする土壌線虫を殺すための「土壌消毒」をせざるをえないのである。

ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!
このページのトップへ

炊飯器のご飯粒

20061206192231.jpg   20061206192309.jpg   20061206192338.jpg

 ハーブ主要12品目丸暗記③を書くつもりでしたが、専門的なことが3日も続くと面白くないので、③はまた日を改めて書きたいと思います。


 エサを床にばらまいてからだと、ちょっとくらい入り口の扉を開けていても、食べることに夢中で、トリ小屋の外へ逃げ出したりはしない。真ん中の画像は、青菜を食べている所ですが、ニワトリはかなりの量の青菜を食べる。草や野菜クズ合わせて、1日に少なくとも6~7キロは与えているので、1羽につき1日200グラムは食べている計算になる。他には、買ったエサ30グラム、コゴメ30グラムほどを与えている。エサは1羽につき1日100グラム必要と言われているので、青菜も入れれば十分足りていることになる。ヒヨコから通算して1年と半年が過ぎているが、産卵率は現在3割ほどである。右の画像を見て頂けるとわかるが、巣箱に8つ産んでいる。連結した巣箱を4つ設置しているが、一番右の巣箱だけに産んでいることが多い。今日も一番右の巣箱だけに産んでいた。巣箱の外に産み落としていることはほとんどない。ニワトリの止まり木は結構高い所に設置しているが、これに飛び上がってから、巣箱に入ります。いきなり巣箱に飛び上がることもあり、かなりのハイジャンプをします。一応、はしごも置いていますが、はしごを利用して止まり木に移ることは少ないようです。
 
ニワトリは短日に向かうとだんだんタマゴを産まなくなり、 長日に向かい始めるとだんだんとタマゴの個数が増える。だから冬至が近い今頃の時期はタマゴもあまり産まない。それと、1羽100グラムと言うのは、青菜を入れずに計算した100グラムだから、自分の場合は40グラムほどエサが少ない。これもタマゴの産卵率が低い原因だろう。ニワトリのエサは20キロ入りで現在1400円(農協で購入している)している。33羽で1日約1キロほど与えているので、20日ほどで無くなる。コゴメは義父からたくさんもらっている。「かきがら」のようなものはほとんどやらないが、タマゴの殻はかなり固い。これは多分、青菜を大量に与えているから、殻の成分は青菜から吸収しているのだろう。


 炊飯器で炊いたご飯は、最後の方は炊飯器にへこわれついていますが、あなたはどうされていますか。ボクは、こんな少量のご飯の残りでも、しゃもじできれいにさらえてニワトリに持っていってやります。一昔前の人は、ご飯粒一粒も無駄にはしなかった。ご飯粒を粗末にすると「目がつぶれる」と言っていた。自分もニワトリのおかげで、炊飯器にこびりついたご飯も安易に捨てたりせずに、食卓テーブルの上の食べ残りと共に別の皿に取り、翌朝ニワトリにもっていく。「自分が食べ残しているのだから、捨てているのと同じでは・・・」と思われるかも知れません。そうではないです。ニワトリが食べたご飯は数日の内に、タマゴとウンコという形で表現されます。タマゴはまた自分や家族の腹の中を循環し、ウンコは肥料となって、やがて野菜の根から吸収されて、その野菜を食べて結局おなじように、自分の腹の中を循環していきます。食べ物だけでなく、世の中のものは全てこのようにして循環していき、いずれまた形を変えて自分の所に帰って来るように思います。これが「輪廻の思想」だと思います。1人1人の小さな行いはこのようにして、いずれまた自分に帰ってくるような気がします。


 炊飯器にこびりついたご飯はほんの少々です。こんな少々を33羽のニワトリにやっても、何の腹の足しにもならない気がしますが、今日は33羽の内の何羽かがご相伴に預かればいいと思っています。毎日のことだから。


 一見これは、まことに細かいように思え、とても面倒に見えるかも知れません。しかし面倒なことは全くありません。すぐに残飯入れに捨てるか、いったんお皿に取り、翌日ニワトリ小屋に持っていくかどちらかなので、手間のかかることではないのです。炊飯器に残ったご飯粒少々のことくらいで「がたがた言うな」というお叱りを受けるかもしれません。自分も、とても忙しい時はさっさと残飯入れに捨てることもあります。でもニワトリを飼い始めてからは、台所のテーブルの上の残り物を、すぐに残飯入れに捨てることは明らかに少なくなりました。炊飯器にこびりついたご飯も同じです。
 もし50羽以上飼っていたら、どうせ10羽ほどの口にしか入らないのだから、こんな少々のご飯をニワトリ小屋まで持っていくのはばかばかしいと思うかも知れません。そういう意味では、ニワトリが少羽数になればなるほど、炊飯器の残りご飯やテーブルの上の残り物を、より丁寧に扱うだろうと思います。台所から出る残り物や田んぼの残り物(クズ野菜)を循環するためには、一昔前のような10~20羽養鶏は本当に理にかなっていたように思います。


 今午後9時がまわったところです。いつものように「ふかし芋」と「ユズ茶」を飲みながらちょっと休憩です。読み直しして添削が終わり時間を見ると10時がまわっています。毎日、これくらいの時間で終われればよいのだが・・・。ではまた明日。



ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!
このページのトップへ

ハーブ主要12品目丸暗記②

20061205195148.jpg   20061205195220.jpg   20061205195242.jpg

 左から、レモンバーム、レモンバーベナ、レモングラスの画像です。ハーブティ用ハーブの3種類です。レモン風味が多いので、ハーブティ用ハーブは前に「レモン」と名がつくハーブが多いです。
 ハーブは雑草です。だから作るのは簡単です。ハーブティも簡単です。


(1)やかんに水を入れて沸騰させる。

(2)沸騰したら火を止めて、2種類のハーブティ用ハーブを一つまみずつ入れる。量は適当(好みで)。

(3)草色(黄緑色)がつくまで10~15分蒸らすとできあがり。

(4)草色がついたら中のハーブは捨てる。長く置くと苦くなる。ようは麦茶パックと同じ要領です。

(5)冬はホットで、夏は冷やして麦茶代わりに飲む。

 12品目の内、冬越しのための霜よけが必要なハーブは「レモンバーベナ」と「レモングラス」の2種類だけです。黒マルチの上からスクモ(もみがら)をかけています。レモンバーベナはこれで越冬しますが、レモングラスはこれではまだ寒さ避けが不十分なので、年末までに透明のポリをトンネル状にかぶせて密閉します。レモングラスは、その年の寒さによっては、これだけしても冬が越せない場合もあります。

 ハーブの12品目は、すべて1単位が150円(ロケットのみ1単位が300円)にしています。この内、軽すぎて目方が量りづらいハーブは目分量です。目分量でも慣れると誤差は少ないと思います。目分量のハーブは、

①レモンバーム、②レモンバーベナ、③レモングラス、④タイム、⑤ミント、⑥セイジ、⑦チャービル

目方を量るハーブは、

①ローズマリー、②イタリアンパセリ、③スイートバジル、④ロケット、⑤ディル

 1単位を150円にしようか200円にしようか、ちょっと考えましたが、あっさりと150円にしました。1単位の量はハーブによってまちまちです。自分でこれくらいの量が1単位と適当に決めています。高いのか安いのかわかりません。自分は全くハーブの世間相場を知らないわけですから。別に知る必要もありません。業務用の場合は、高ければ買ってくれません。ハーブの荷姿も単価も全く知らなくても、買ってくれればそれが評価(結果)です。

 安くて鮮度がよければ、すぐに仕入先をあなたに変えてくれます。これが資本主義精神です。長い付き合いだから少々高くても買うなどはありえないと思います。だから、どんな場合でも「遅いことはなくいつでも新規参入ができる」のです。とにかく1本の電話を入れる勇気を持つことだと思います。業務用の場合、安全性とか外観(見栄え)よりも、とにかく値段と鮮度だと思います。ボクは、岡山、神戸、大阪、京都のイタリア料理店に電話営業しただけでした。京都より東はしませんでした。どうも「生活圏」が違うような気がして・・・。イタリア料理店だけでそこそこの顧客ができたので、フランス料理店には電話営業をしなかった。イタリア料理店はピザとかスパゲティ等で、特定のハーブ(スイートバジル)を大量に使ってもらえるような気がした。逆にフランス料理店は、少量多種類のハーブが必要な気がした。だから先にイタリア料理店にした。

(1)電話営業は、一定の期間を定めて、集中的にかけまくる。

(2)電話の応答で脈がありそうならサンプルを送る。買う気がないのにサンプルだけ送らせる店があるので注意。今はインターネットのIP電話を利用すれば、電話代は、県外でも市内通話料金なので、電話代を気にせず電話営業ができる。

(3)サンプルを送った後、新たに注文を入れてくれるのは2~3割ほどであり、継続的に注文をくれるのはそのまた2~3割ほどであるが、地道にやるしかない。

(4)相手からの電話を待つよりも、2週間に1度くらいのペースでこちらから電話を入れて「注文を取る」ことも必要。自分はそうしている。受動的よりも能動的に。

 続きは明日にさせて頂きます。

ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!
このページのトップへ

ハーブ主要12品目丸暗記①

20061204205735.jpg   20061204205846.jpg   20061204205915.jpg

 「岡山で野菜とハーブを作っている農家ですが、お宅のお店でハーブを使って頂くわけにはまいりませんか」。こんな電話をかけまくっていた一時期があるから、今も農業が継続できている。農業形態の変更は自分には難しかったが、ワンパックの送付先を個人用から業務用へ9年め~11年めの3年間で切り替えていった。
 「個人の顧客へワンパックを送っても長くは続けてくれない」ということを、未来のワンパック農業者は覚えて置いてください。これは自分のワンパックの内容が乏しかったからではないと思っています。他の人も同じようなことを言っています。顧客が安定してくれないと、ワンパック宅配の維持は難しくなります。そして、県外へ宅配の場合、個人の顧客をどうやって増やしていくか、営業方法が見つかりません。やっと見つけた顧客も長く買い続けてくれないから、常時、継続的な営業が必要になります。自分の場合は結局、県外の顧客を新たに開拓できなかった(地元の顧客は県外よりもっと長続きしない)ために、個人客のワンパックは「ジリ貧」になりました。この危機感が、ハーブの導入、炭焼きへのチャレンジ、エディブルフラワー(食用花)の試作、百姓塾の塾生募集の営業等、昨日書いた「複合的農業へ脱皮するための、水面下のわが闘争」の始まりでした。


 ハーブは農業歴が8年めに入ってから、始めて習い始めた。スタートして7年間はハーブのことは何も知らなかった。個人客が安定した顧客なら、ハーブに手を出すことはなかったと思う。友人や知人や顧客に、ハーブを作っている人がいれば、誰でもいいので紹介して下さいと、度々お願いしておいた。本を読むより、目で見て、耳で聞いた方が手っ取り早く覚えれると思った。最も効率的なのは並行して進めることである。伊丹市の顧客が送ってくれた新聞の切り抜きを見て、姫路市まで何回か見せてもらいに行ったこともある。野菜の基礎があったので、ハーブがどういうものか1年で大体の概要はつかめた。2年めに入った時、趣味では続かない、何とかしてカネにつなげないと続かなくなるだろうと思った。ハーブを買ってくれそうなのはイタリア料理店かフランス料理店、それしか思い浮かばなかった。近くの電話局へ行って神戸や大阪の職業別電話帳をコピーさせてもらって、昼の2時~3時、夜の9時半~10時半(夜9時頃にはオーダーストップがかかるので9時以後がよい)の時間帯に電話をかけ続けた。まだその時には、料理店がどんなハーブを必要としているのか、ほとんど知らなかった。電話営業の過程で、どんなハーブをどれくらい作ったらいいのか、段々わかってきた。


 ハーブは臭いや癖のある作物を総称してハーブといいます。ミョウガ、青シソ、ニンニク、ニラもハーブ(和製ハーブ)です。イタリア料理店やフランス料理店は地中海沿岸が原産のハーブを使います。ハーブは100種類以上ありますが料理店が必要とするハーブはたった12種類です。12種類を覚えるだけで、ハーブの95%をカバーしたことになります。


ハーブティ用ハーブ


①レモンバーム ②レモンバーベナ ③レモングラス ④タイム ⑤ミント ⑥セイジ


料理用ハーブ


①スイートバジル ②ローズマリー ③イタリアンパセリ ④ロケット ⑤ディル ⑥チャービル


 この12品目を丸暗記しましょう。ハーブティ用ハーブはあまり注文が入りません。入るのはタイム(コモンタイム)とミント(スペアミント)です。料理用ハーブはスイートバジル(春夏作)とロケット(秋冬作)の注文が多いので、その2種類をメインに作っています。ローズマリーは樹木なので1度植えておけば、1年中収穫(常緑草)ができます。ボクは株間60センチで50本ほど植えています。イタリアンパセリも4月に市販の苗を買って植えれば6月上中旬頃から翌年3月頃まで1年近く収穫を続けることができます。


 画像は料理用ハーブ(秋冬作)の3種類です。左からロケット、ディル、チャービルです。続きは明日にさせて頂きます。



ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!
このページのトップへ

田んぼの面積

20061203221247.jpg   20061203221310.jpg   20061203221339.jpg

 農業がひらめいた時、自分がイメージした畑作の面積は30アールほどだった。40アールはできないと思った。スタート時にイメージした面積を今も越えることができていない。いろんな年代層の方がおられるので、10アールが一体どれくらいの面積か、さっそくグーグルで「10アールとは」で検索してみた。


(1)10アールとは10メートル×100メートルの広さです。


(2)10アールとは1000ヘーホーメートルで、昔の言い方で1反のことを指します。約32メートル四方の面積となります。


(3)10アールとは300坪です。


 つまり、1辺が約32メートルの正方形の広さが10アールと言えば、一番わかりやすいと思います。自分の場合は1反、2反でイメージします。学校で習った「ヘーホーメートル」では、広さがイメージできません。「反」で言われると、どれくらいの面積か想像することができます。だから農業者仲間に聞く時も、何反作っているんですかと尋ねる。


 自分の田んぼ面積は合計で約4反余りですが、半分の約2反は借地です。細かく言えば2反2セが借地です。1反=10セです。現在は田んぼが圃場整備されて1枚の田んぼの面積が広くなったが、一昔前は、1枚の田んぼ面積が小さく、2セと、3セという田んぼが多かった。昔の農民は、「2セまち」とか「4セまち」とか言って、単に2セとか4セとか言わずに、その後ろに「まち」をつけて、田んぼの面積のことを言っていた。1世代前の人は学校へ行っている人は少なく、ヘーホーメートルとかアールという表現も知らない。多分、親から、この田んぼの面積は「4セまち」とか聞かされて、その4セまちの面積がどれくらいの面積かが頭に入ると、基準になる面積と比較しながら、これは「8セまち」であるとか、「3セまち」であると覚えたんだと思う。実際の所は、親から子へ、子から孫へと言い伝えられて、その田んぼの面積が伝えられる。誰も実際にその田んぼの面積を測って覚えているわけではない。つまり自分も親が言った田んぼの面積をそのままうのみのにしている。我が家の田んぼに隣接する田んぼを借地した時も、その所有者が、「5セまち」「8セまち」「4セまち」「4セまち」と教えてくれたので、合計では「2反1セ」ですが、市役所の帳簿には2277ヘーホーメートルと記載されています。詳しく知りませんが、田んぼの畦(あぜ)などの面積も入るのかも知れません。
 
自分が学校で習ったのはヘーホーメートルですが、実際に覚えているのは、「反」とか「セ」で覚えています。この方がヘーホーメートルで覚えるよりはるかに覚えやすいです。自分は「坪」で言われると、その面積が全く想像できません。家屋敷の面積をいう場合は「坪」という言い方が多いようです。田んぼや畑の面積は「反」とか「セ」が現在でも一般的のように思います。


 自家所有地、借地を合わせて4反余りありますが、トリ小屋や物置、果樹園(日陰になったり耕土が浅くて野菜不適地に各種果樹を1本ずつ植えている)に「5セ」ほどまわっているので、実際の作付は3反~3反5セほどです。自分にはこれくらいの面積がちょうど適当です。広すぎることもなく狭すぎることもなく。夫婦でしている人はこの2~3倍の7~9反というのが多いように思います。夫婦でしている人は農業に秀でた人が多いです。夫婦ですると主になるほうが秀でていないと、早々と農業の世界から淘汰されてしまいます。逆に1人ですると、ビジネスラインにのらないのに、ずるずると農業界に留まってしまうということもあります。農業においては夫婦2人でする方が危機的状況(共倒れ)に陥り安いですが、うまく軌道にのせることができれば、1人でする2倍でなく、二乗の4倍のスケールメリットもあるようです。自分は農業がひらめいた時に「2人でする」ことは全く頭に浮かびませんでした。2人ですると自分の場合は絶対に食べてはいけないだろうという「確信に満ちた自信」がありました。徹頭徹尾1人ですることしかイメージできませんでした。自分の農業仲間では「1人でしている人」、「2人でしている人」は、ほぼ半々くらいです。2人でしている人はビジネスラインにのっています。これは当然と言えば当然かも知れません。短期間にビジネスラインにのせることができなければ、2人の場合は早々と農業界からの撤退を迫られます。1人でしている人は、ビジネスラインにのっていない人の方が多いです。のっている人は少数です。


 農業への入り方も色々です。


(1)組織で働くことが苦痛で、何か独立した仕事がしたかった。


(2)環境問題から農業に行きついた。


(3)農業というよりも、田舎暮らしがしたくて、それが農業につながった。


(4)料理とか食べることが好きで、それが素材を作る農業につながった。


(5)イベントや見学でたまたま出会った農業が気に入った。


 自分の場合はずっと独立した仕事をしたいと思っていて、それが「突然、農業が頭にひらめいた」原因である。その時すぐに、現在耕作している田んぼがイメージできたのは幸いだった。農業には抜群な場所だと思った。猫の額ほどの小さな田んぼばかりだが、間に他の人の所有地がなく、全部が自分の家の所有地で、しかも山のそばの行き止まりの場所にあるので、何をするにしても他人のじゃまにはならず、他人のじゃまも入らないと思った。田んぼ道(軽四がやっと通れる広さ)を隔てた4枚の田んぼ(2反2セ)の所有者と我が家は懇意にしていて、頼めば多分、貸してもらえるだろうと思った。


 もっと収入になる農業形態はないだろうかと、複合的な農業形態(百姓塾、イベント収入、ハーブ、ドラム缶で焼く竹炭)をずっと模索してきたが、カネにすることができたのは、野菜とハーブだけだった。この間、


(1)面積を広げようとか、


(2)種類を絞って専門作物を持とうとか、


(3)ハウスを持とうとか、


は、全く想像することはなかった(頭に浮かばなかった)。現在の面積である「4反余り」というのは、スタート時にイメージした自分の最大規模の面積であり、これ以上に広がることはなかった。スタート時にイメージした農業がほぼ実現できているが、一つだけ大きく予想と異なったことがある。それは農業収入が、当初に思った半分ほどにしかならなかったという現実である。でも農業は止めることはできなかった。多くの人の犠牲の上に成り立ってきた農業だから続けなければならないと思った。農業に対して今までマンネリ感を感じたことはない。13年目の終わりの農閑期に、13年分(月に1回発行)のあめんぼ通信を1冊の小冊子にしたが、以後毎年1冊の小冊子になり、4冊目の小冊子の商業出版の夢が挫折した時、「ブログ」や「ブログランキング」があることを知った。新たな挑戦の場をブログランキングに求めた



ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!
このページのトップへ

コンパニオンプランツ

20061202192836.jpg   20061202192921.jpg   20061202193000.jpg

 そばに植えておくと、お互いの成長を助ける作物を「コンパニオンプランツ(共生作物)」というらしいが、ほとんど効果はないように思う。右の画像は、ニンニクの隣の畝にキャベツを植えているが、蝶々(害虫)はニンニクを嫌って隣のキャベツにも来ないかというと、そうではなく、平気でキャベツに来る。
 左の二つの画像のホウレンソウのそばの通路には、ジャーマンカモミールというハーブが雑草化して生えている。このカモミールをタマネギの株間に植えると、タマネギの病害虫を少なくするという、ちょっと有名なコンパニオンプランツであるが、自分の場合は全く効果はない。効果はなくても毎年「おまじない」をするみたいに、この雑草化したジャーマンカモミールを、タマネギとタマネギの間の通路に植えている。あえてそうする理由は


(1)カモミールは有名なハーブティ用のハーブであるが、花がきれいである。小菊のような花が無数に咲いて、タマネギ畑がまるで花畑のようになる。


(2)カモミールはハーブティにしてもおいしい。湯飲みに花を10個ほど入れて湯を注ぐとできあがり。ほのかなリンゴの香りがするハーブティである。


(3)踏みつけても問題ない。踏みつけた方がよいらしい。だからタマネギとタマネギの間の通路に植える。


(4)カモミールとタマネギは成長過程が全く同じなので、コンパニオンプランツとして利用しやすい。成長時期が違えば、コンパニオンプランツとしては利用できない。


(5)タマネギ畑を片付ける頃、カモミールの種も無数に落ちて、前年のタマネギ跡地から雑草化したカモミールが無数に芽生えているので、それを今年のタマネギ植付け地の通路に3メートルに1株ほど植えるだけなので、ほとんど手間いらずである。


 利用しているコンパニオンプランツは、カモミールとタマネギの組み合わせだけであるが、タマネギは毎年、すでに苗床で育苗中に病気が発生しているせいか、カモミールの効果は全くない。手間がほとんどかからず、他の作物のじゃまにならず、5月のタマネギ畑が花畑になるので植えているだけである。カモミールは6月上旬頃までおいておけば種が落ちる。一度種が落ちると、乗用トラクタで何回耕運しようが、翌年にはまるで雑草のように芽生えてくる。4月末頃には花が咲くが、夜には花は閉じる。太陽があたり始めるとまた花ビラが開くが、まだ花ビラが閉じている早朝に収穫すると、花びらの中に、小さな蜂のような虫が入りこんでいることが多いので、出荷するならちょっと注意した方がよい。


 春キャベツの隣には毎年ニンニクとラッキョとワケギの3種類を植えている。この3種類が、春キャベツにやってくる蝶々(害虫)の忌避効果になるかどうかは疑問であるが、収穫期が同じなので同じ場所に植えるようになる。


 真ん中の画像の半分は赤いホウレンソウである。赤いホウレンソウは一応「生食ができる」というキャッチフレーズであるが、生食するなら、画像のように大きくすると硬くなる。普通の青いホウレンソウと同じようにポット育苗して、同じ日に同じ場所に定植しても、青いホウレンソウの方が大分目方が取れるし、青いホウレンソウの方が大分おいしい。赤いホウレンソウは業務用のイタリア料理店への出荷用である。個人の家庭に送るワンパック宅配はあまり将来性が感じられない。家族構成は多くて4人であり、今は3人家族や2人家族の方が多いようである。野菜のワンパックの場合、送料や野菜の量的問題から、家族構成が減ると、ワンパックを継続してもらえなくなる。10年という歳月の間には、子供の進学や結婚、配偶者の単身赴任等で家族構成が減る可能性が高い。だから、店などの業務用への宅配も考えた方がいいと思う。とにかく「一本の電話を入れてみる」という一歩を踏み出さないと、業務用への道は決して開けない。業務用では職業別電話帳があるし、インターネットの料理飲食店ブログなどに、各種の店がいっぱい載っているので、個人客より営業がはるかにしやすい。個人客は営業の方法が少なく、口コミが頼りのような側面がある。業務用は業種ごとの横のつながりがあるので、気に入ってもらえれば、口コミは業務用の方が多い。 
 右の画像の黒マルチをした3列は、ニンニク、ラッキョ、ワケギの3種類と春キャベツとタマネギであり、一部植えていないのは3月上旬のレタス予定地である。画像ではちょっとわからないが、ラッキョの隣にニゲラ(黒種草)というドライフラワーになる花を植えている。これもこぼれ種が雑草化してカモミールと同じ時期に同じ草姿(慣れないと見分けづらい)で成長してくるので、10本ほど植えておくと、ワンパックにドライフラワーを入れることができる。5月末~6月上旬にニゲラ(黒種草)、6月中旬~6月下旬にラベンダーをドライフラワー用として入れている。こんなちょっとした遊び心(心遣い)がワンパックでは喜ばれる。



 ボクは産業廃棄物になる、画像のような黒マルチを多用している。デジカメで写す時、自然な空間に人工のポリ類(黒マルチ)などは写したくないが、田んぼや野菜を写すと黒マルチもいっしょに写る。現在の自分は環境よりも経済的見地を優先している。黒マルチを使わなかったら、自分の収入はもっとかなり少なくなるだろう。「有機認証」でも、化学肥料や農薬の使用は禁止でも、黒マルチの使用は何ら問題にされないようである。



ブログランキング1位を目指して挑戦中!!! クリックお願いします!!!
このページのトップへ

FC2Ad

プロフィール

水田祐助

Author:水田祐助
岡山県瀬戸内市。36才で脱サラ、現在55才、農業歴19年目。農業形態は野菜とハーブのワンパック宅配。人員1人、規模4反。少量多品目生産、他にニワトリ30羽。25年ほど農業とは無縁だったが、ボクが子供の頃は、家は葉タバコ農家だった。
yuusuke325@mx91.tiki.ne.jp


セット野菜のワンパック宅配 みずた観光農園

最近の記事

最近のコメント

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

QRコード

QRコード

リンク

このブログをリンクに追加する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。